タカエノカオリ

日本の競走馬、繁殖牝馬 (1971-1998) From Wikipedia, the free encyclopedia

タカエノカオリ(欧字名:Takaeno Kaori、1971年4月26日[1] - 1998年6月3日[2])は、日本競走馬繁殖牝馬

欧字表記 Takaeno Kaori[1]
性別 [1]
概要 タカエノカオリ, 欧字表記 ...
タカエノカオリ
欧字表記 Takaeno Kaori[1]
品種 サラブレッド[1]
性別 [1]
毛色 黒鹿毛[1]
生誕 1971年4月26日[1]
死没 1998年6月3日[2]
ヴェンチア[1]
タカエミドリ[1]
母の父 トサミドリ[1]
生国 日本の旗 日本北海道新冠町[3]
生産者 隆栄牧場[3]
馬主 飛渡三代治[1]
調教師 佐々木猛中山[4]
厩務員 山内与吉[3]
競走成績
生涯成績 7戦4勝[1]
獲得賞金 4097万1000円[1]
勝ち鞍
八大競走桜花賞1974年
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福島、新潟、中京とローカル[注 1]を転戦した後、1974年、雨の中行われた桜花賞武邦彦騎乗で制覇した。優駿牝馬(オークス)への出走も予定されていたが、脚部難のため叶わず、そのまま競走馬を引退。故郷の隆栄牧場に戻り、繁殖牝馬となった。

生涯

誕生

1971年4月26日[1]、北海道新冠町にある隆栄牧場で誕生する[3]

母タカエミドリは道営競馬中央競馬で走った馬で、当歳で肺炎を患ったこともあり、発育は良くなかったが、道営競馬に出してみるとレコードを記録するなど7戦5勝の活躍を見せた[6]。その後、タカエミドリはオークスを目指し中央競馬に乗り込んだが、目標への出走は断念[6]。8戦1勝の成績を残して引退すると、故郷の隆栄牧場に戻り繁殖牝馬として繋養された[6][7]

タカエミドリに付ける相手は当初、ターキンが予定されていたが、飛渡三代治がミツコ(タカエミドリの母)の交配のため訪れた静内スタリオンステーションでヴェンチアを見かけ、交配相手の変更を決断する[6]。飛渡は手を尽くしてヴェンチアの余勢種付けの権利を一株譲り受けると、同馬とタカエミドリを交配させた[6]。そして交配の翌年、タカエミドリは、後のタカエノカオリとなる牝馬を生んだ[6]

幼駒時代

幼名クインヴエンチアと名付けられたタカエノカオリは、父の嫌なところを受け継いだか、右後脚がねじれており、牧場関係者を落胆させた[6][7]。更に、生後3ヶ月で母タカエミドリが腸捻転のために急死する[6][8]。そのため、タカエノカオリは、祖母ミツコの乳で育てられた[9]。当初、牧場関係者はタカエノカオリにミルクを与えようとしたが、母の乳房に馴染んでいたこともあって、全く飲もうとしなかった[8]。考えた飛渡はミツコの乳を飲ませようと決意し、試しにタカエノカオリにはミツコの仔の、ミツコにはタカエノカオリのボロ(馬糞)を付けて近づけてみた[6][10]。すると、タカエノカオリはミツコの乳を飲み出し、ミツコも一、二度振り返っただけでタカエノカオリに乳を飲ませたという[10]。飛渡は当時を振り返って次のように語っている[11]

今でもあのことは不思議でならないんですよ。きっと母親が死ぬときに“お婆ちゃん私の仔を頼みますよ”といってから、ミドリは死んでいったんだろうって、よく家族の者とも話すんですけど……。私も長いこと馬を扱ってきましたが、あんなことは初めてのことですし、これからもないでしょうね

—飛渡三代治,『蹄跡』昭和49年度、20頁。

入厩 - 競走馬デビュー

タカエノカオリは前述の脚部不安もあって、3歳の春になっても買い手がつかず、牧場に残されていた[12]。しかし、同じ隆栄牧場から出た同期の期待馬で、佐々木猛厩舎に預託されていたタカエノハナが、悪癖を覚えて騎乗者を何度も振り落とすようになり、牧場に送り返されるという事態が発生する[注 2][11][12]。5月、この馬の代わりとしてタカエノカオリが同厩舎に送られた[13]。厩舎に来た当時のタカエノカオリは背中の毛が伸びきっており[注 3]、また、40度の熱もあった[13]。関係者は皆「これは走らない」と思ったというが、新馬戦の頃になると一番時計を出すようになっていた[13]

3歳の9月、福島の新馬戦に出走し、デビュー戦を勝利で飾るが、続く東北3歳ステークスでは「アラブの魔女」とも呼ばれたイナリトウザイの5着に敗れた[注 4][14][15]。タカエノカオリは福島を後にして新潟に転戦し、チューリップステークスに出走[14]。このレースでは2着に入ったが、次戦の新潟3歳ステークスでは大差の殿負けを喫した[14]。3歳暮れには、寒さの影響から両前脚の蹄が割れる怪我を負ってしまう[16]。担当厩務員の山内はタカエノカオリと寝食を共にし、湿布を施すなどして蹄の回復に努めた[16]

蹄が完治した後[17]、4歳春に中京開催の条件戦(200万下)に出走[14]。復帰戦を勝利で飾ると、続くカトレア賞も連勝し、桜花賞に駒を進めた[14]。山内は中京最後のレースを武邦彦に見てもらい[18]、「桜花賞へ行くから頼む」と騎乗を依頼[19]。春に乗る有力牝馬がまだいなかった武は快諾し、桜花賞の鞍上が決定した[20]

桜花賞 - 引退

桜花賞が施行される阪神競馬場(2011年)
タカエノカオリがローカル以外の競馬場に出走したのは、桜花賞が唯一であった。

1950年の第10回(トサミツル)以来、雨中の開催となった桜花賞は[21]、牝馬クラシックの中心と目されていたイットー[注 5]のほか、レスターホース、タマキジヨーが戦線離脱しており、本命馬不在といわれた[注 6][24]。その中で1番人気は、前年の北海道シリーズを好走し、トライアルの阪神牝馬四歳特別でエビスオールの2着[25]に入ったサクライワイで、タカエノカオリは4番人気に支持された[26]

ゲートが開くと、タカエノカオリはサクライワイに次いで抜け出したが、第二コーナーでは抑えて好位につけた[27]。向正面では先行グループから2馬身離れた位置を追っていき、第四コーナーを回るとユウダンサーズ、フジノタカザクラ、サクライワイと馬体を併せる格好となった[28]。この中でサクライワイが抜け出すが、タカエノカオリも追って並びかけると、同馬を交わし、最後は4分の3馬身の差をつけて勝利した[28]。武にとっては一昨年のアチーブスターに次いで二度目、佐々木厩舎にとっては初の桜花賞制覇となった[23]

桜花賞の勝利後、タカエノカオリは隆栄牧場に帰郷したが、蹄がひび割れ、腰も痛めていた[29]。その後はオークスへの出走を予定していたが、4月27日の調教後に脚部を故障[注 7][30][31]。大事を取ってオークスを断念し、そのまま競走馬引退となった[30]。なお、桜花賞(阪神開催)以外はいずれもローカルでの出走であり、関東馬でありながら東京、中山での出走は一度も無かった[9]

引退後

引退後、隆栄牧場で繁殖牝馬として繋養され、初年度の相手はハイセイコーの父としても知られるチャイナロックが選ばれた[32]。生涯で十数頭の産駒を出したが[33]、準オープンクラスを走ったクラシックウィナーが注目を集めた程度で、自身の成績を越える馬は出せなかった[34]。1997年に用途変更[35]、翌1998年6月3日に同牧場で老衰のため死亡した[2][33]

評価等

馬体・評価

桜花賞当時の体重は436kg[注 8]と小さく、見映えのしない体格であった[29]。性格は大人しかったという[29]。前述のとおり、産まれながらに足がよじれていたが、これは飛渡が丹念に外へ向け続け、走れる状態にまで矯正した[37]。中京でタカエノカオリを見た武は、スピードもあって根性も抜群と感じ[19]、「非常に乗り易い馬」との印象を持ったという[14]

『優駿』主催の1974年最優秀4歳牝馬投票では、満票近くを獲得して選出されたトウコウエルザ(598点)に次ぐ得点(117点)を集めた[注 9][38]。また、同年のフリーハンデ(4歳馬)では55kgの評価を受けている[注 10][39]

原良馬との関係

競馬評論家の原良馬が愛した馬であった[2]。原が現役時代のタカエノカオリを見たのは桜花賞の一戦だけであったが[26]、その華麗な走りに衝撃を受け、忘れられない一頭となっていた[40]。その後、同馬の生い立ちや境遇を知り、より思いを寄せるようになったという[26]。原は、ローカルを次々と転戦するタカエノカオリに、少年時代に淡い恋心を抱いていたサーカスの少女を重ね合わせ、“流転の少女カオリ”と名づけ、何度も牧場に会いにいっていた[41]

多くのファンから「想い出の馬は?」と聞かれるいま、迷わず口をついて出てくるのは、このタカエノカオリの名前である。私にとってタカエノカオリだけは、ふれあった一頭のサラブレッドというより、恋こがれてきたゆきずりの“流転の少女”なのである。
その戦績は7戦4勝。しかし4歳時は3戦3勝。惜しまれつつターフを去っていった“薄幸な少女”だった。

—原良馬,『心に残る名馬たち』72頁。

成績

競走成績

成績表は流星社(2000)[注 11][42]、netkeiba.com[43]の情報に基づく。

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競走日 競馬場 競走名 距離(馬場)


人気 着順 タイム 騎手 斤量
[kg]
勝ち馬/(2着馬) 馬体重
[kg]
1973. 09. 22 福島 3歳新馬 芝1000m(稍) 8 3 3 3人 1着 1:00.9 山田広士 52 (ミマツダンデイ) 440
10. 14 福島 東北3歳S 芝1000m(稍) 9 5 5 9人 5着 1:00.9 山田広士 52 イナリトウザイ 446
10. 28 新潟 チューリップS 芝1200m(重) 8 5 5 4人 2着 1:12.0 山田広士 52 ミトモオー 442
11. 17 新潟 新潟3歳S 芝1600m(重) 7 6 6 6人 7着 1:45.0 山田広士 52 インタージャンボ 434
1974. 02. 24 中京 4歳200万下 ダ1600m(良) 8 4 4 1人 1着 1:40.9 坂本恒三 52 (ダイヤフルート) 442
03. 09 中京 カトレア賞 芝1800m(良) 10 8 10 1人 1着 1:51.0 坂本恒三 54 (ウラカワジェンヌ) 436
04. 07 阪神 桜花賞 芝1600m(良) 25 1 2 4人 1着 1:37.0 武邦彦 55 (サクライワイ) 436
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繁殖成績

さらに見る 生年, 馬名 ...
生年 馬名 毛色 戦績 出典
00初仔 1975年 カシユウケンザン 黒鹿毛 チヤイナロック 38戦1勝 [44]
02番仔 1976年 タカエノレデイ 黒鹿毛 ネヴアービート 16戦2勝 [45]
03番仔 1977年 ハイトランプ 鹿毛 テスコボーイ 13戦2勝 [46]
04番仔 1978年 サンシヤインレデイ 鹿毛 フアバージ 18戦1勝 [47]
05番仔 1979年 シマノカオリ 鹿毛 ボールドラツド 4戦0勝 [48]
06番仔 1980年 シマノスキー 鹿毛 マルゼンスキー 1戦0勝 [49]
07番仔 1981年 タカエノソロン 鹿毛 パーソロン 3戦1勝 [50]
08番仔 1982年 タカエスタイブ 鹿毛 パーソロン 4戦0勝 [51]
09番仔 1983年 タカエダイアナ 鹿毛 テユデナム [52]
10番仔 1984年 イチシュウコー 黒鹿毛 テユデナム [53]
1985年 不受胎 トウシヨウボーイ [54]
11番仔 1986年 タカエノミチ 黒鹿毛 キヤタオラ [55]
12番仔 1987年 クラシックウィナー 鹿毛 ロイヤルスキー 71戦16勝 [56]
13番仔 1988年 タカエシャネル 鹿毛 コリムスキー 37戦5勝 [57]
1989年 双子流産 サクラシヨウリ [58]
1990年 不受胎 ニシノスキー [59]
14番仔 1991年 タカエスピード 鹿毛 ニシノスキー 4戦1勝 [60]
15番仔 1992年 タカエノカオリの1992 不明 ニシノスキー [61]
16番仔 1993年 コマノタカエスキー 鹿毛 ニシノスキー 10戦0勝 [62]
17番仔 1994年 タカエジュエリー 鹿毛 ニシノスキー 36戦2勝 [63]
1995年 流産 ミスターシービー [64]
1996年 種付けせず [64]
1997年 不受胎 ビーフロスト [64]
1997年1月1日用途変更[35]
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血統表

タカエノカオリ血統(血統表の出典)[§ 1]
父系マンノウォー系
[§ 2]

*ヴェンチア
Venture
1957 黒鹿毛
父の父
Relic
1945 青毛
War Relic Man o'War
Friar's Carse
Bridal Colors Black Toney
Vaila
父の母
Rose O'Lynn
1944 鹿毛
Pherozshah Pharos
Mah Mahal
Rocklyn Easton
Rock Forrard

タカエミドリ
1966 鹿毛
トサミドリ
1960 栃栗毛
*プリメロ
Primero
Blandford
Athasi
*フリッパンシー
Flippancy
Flamboyant
Slip
母の母
ミツコ
1957 鹿毛
*ライジングフレーム
Rising Flame
The Phoenix
Admirable
ロマンス *セフト
ユングフロウ
母系(F-No.) フアツシヨンメード系(FN:A31) [§ 3]
5代内の近親交配 5代内アウトブリード [§ 4]
出典
  1. JBISサーチ[65]、netkeiba.com[66]
  2. 『蹄跡』昭和49年度[4]、netkeiba.com[66]
  3. 『蹄跡』昭和49年度[4]
  4. netkeiba.com[66]

注釈・出典

参考文献

外部リンク

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