ダヴィト (ギオルギ12世の子)
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| ダヴィト დავით | |
|---|---|
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ダヴィト | |
| 出生 |
1767年7月1日 トビリシ |
| 死亡 |
1819年5月25日(ユリウス暦5月13日) サンクトペテルブルク |
| 埋葬 | アレクサンドル・ネフスキー大修道院 |
| 王室 | バグラティオニ朝 |
| 父親 | ギオルギ12世 |
| 母親 | ケテヴァン・アンドロニカシヴィリ |
| 配偶者 | エレネ・アバメリキ |
| 信仰 | ジョージア正教会 |
| 親署 |
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ダヴィト・バトニシヴィリ(グルジア語: დავით ბატონიშვილი、グルジア語ラテン翻字: Davit Batonishvili、1767年7月1日 – 1819年5月25日〔ユリウス暦5月13日〕)は、バグラティオニ朝の王族。カルトリ=カヘティ王ギオルギ12世の長男であり、1800年から1801年にかけてカルトリ=カヘティ王国のガムゲベリ(「長官」、「統治代行者」、「摂政」の意)を務めた。学者、著作家、軍人(最終階級は陸軍中将)でもあった。ロシア語名ではダヴィト・ゲオルギエヴィチ・バグラティオニ(ロシア語: Давид Георгиевич Багратиони、ロシア語ラテン翻字: David Georgiyevich Bagrationi)[1]とも参照される。
ダヴィトはトビリシとテラヴィにあった祖父エレクレ2世の宮廷で養育された。ダヴィトはジョージアの世俗文学と宗教文学、アルメニア語、ペルシア語、ロシア語、自然科学、軍事学を学んだ。ダヴィトの教育係の一人は、エレクレ2世の宮廷の書記官ダヴィト・レクトリであった。その後、ダヴィトはロシア帝国に留学し、ヨーロッパの啓蒙思想に触れた。1790年、ジャヴァヘティにおけるオスマン軍との戦闘で初陣を飾った。続く数年間、ダヴィトの指揮の下、ジョージア軍はダゲスタンからの襲撃部隊に対して何度かの勝利を挙げた。1795年、ダヴィトはクルツァニシの戦いに参加し、ムツクヴァリ川の右岸、セイダバド庭園付近に布陣した守備部隊の右翼隊を指揮し、トビリシへの進入路となる要衝を防衛した。1796年4月から5月にかけては、父の異母弟アレクサンドレとともに軍を率いてギャンジャへの遠征を指揮した。また1798年にはカルスへの遠征を行い、マフマド・パシャを破った。1795年から1798年にかけて、ダヴィトはロシア軍のプレオブラジェンスキー近衛連隊に所属した。その期間中の1795年には、少将の階級を得ている。1799年6月11日、父ギオルギ12世の具申により、ロシア皇帝パーヴェル1世はダヴィトをカルトリ=カヘティ王国の王位継承者として承認した。この公式な承認は同年10月11日に行われ、同時に聖アンナ勲章が授与された。
この時期から、ダヴィトはカルトリ=カヘティ王国の政治に積極的に関与するようになった。ペルシアのファトフ・アリー・シャーは、ギオルギ12世に対し、ダヴィトを人質として差し出すよう要求したが、王位継承者でありロシア帝国陸軍の将軍でもあったため、ダヴィトがペルシアに送られることはなかった。ダヴィトは王国の法体系の整備に着手した。ダヴィトはジョージアの法令文献を収集し、1800年にジョージアの法の成文化を行い、『ジョージアの法と法体系』を編纂した[2]。
ギオルギ12世の死後、ダヴィトは1801年の1月から6月まで、カルトリ=カヘティ王国のガムゲベリを務めた。ダヴィトは王国の行政区分に変更を加え、アラグヴィ公国とクサニ公国の再興を試み、土地所有関係の近代化を図り、教会の管理運営体制についてもいくつかの改革を行った。またこの時期には、自身の名を冠した「ダヴィト・バトニシヴィリの硬貨」と呼ばれる、クジャクの図案が刻まれたジョージアの王国で最後となる独自の銅貨が鋳造された。こうした施策により、ダヴィトと王位を争う派閥との対立はさらに激化した。ダヴィトはガムゲベリの座を退くことを余儀なくされ、1801年10月には父の異母弟であるイウロンに対し、カルトリ=カヘティの統治権を維持するために戦い続けるよう呼びかけた。ロシア帝国の当局者たちは、王族同士の対立をあえて煽ることで、カルトリ=カヘティ王国の廃止を早めようと画策した。1801年9月12日のアレクサンドル1世の宣言により、ロシア帝国はカルトリ=カヘティ王国を併合した。ダヴィトは祖国に留まり、政務に参加しようと試みたが、1803年に他の王族たちとともにサンクトペテルブルクに追放された。
ロシア皇帝アレクサンドル1世はダヴィトに聖アレクサンドル・ネフスキー勲章を授与し、後に元老院議員にも任命した。ダヴィトはロシア帝国において、宮殿、広大な領地、耕作地、狩猟地を与えられた。ダヴィトは、ジョージアの諸王国や諸公国から移住してきた人々や、古くから現地ロシアに住んでいたジョージア人たちを束ねる指導者となった。ダヴィトは教育、科学、文学の発展、ジョージアの政治運営の改善、コーカサス学の発展に尽力した。またダヴィトは、18世紀初頭にヴァフタング6世が編纂した伝統的なジョージア法典を精査・編集し、ロシア語への翻訳を任務とする委員会の委員長を務めた。ダヴィトが残した書簡は、ダヴィトの伝記における多くの興味深い場面を如実に示しており、当時のジョージアの政治状況を物語っている[3]。ダヴィトは1819年にサンクトペテルブルクで死去した。ダヴィトの遺体はアレクサンドル・ネフスキー大修道院に埋葬された。
五月十三日、当地において、短時日の病患の後、ジョージア王ギオルギの子、陸軍中将にして元老院議員たるダヴィト卿、薨去せり。その遺骸の埋葬は、同月二十二日、相応の礼式をもって執り行われたり。