ギオルギ12世 (カルトリ=カヘティ王)
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| ギオルギ12世 გიორგი XII | |
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ギオルギ12世 | |
カルトリ=カヘティ王 | |
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在位期間 1798年1月11日 – 1800年12月5日 | |
| 戴冠 | 1799年12月5日 |
| 先代 | エレクレ2世 |
| 次代 | ダヴィト |
| 出生 |
1746年11月10日 テラヴィ |
| 死亡 |
1800年12月28日 トビリシ |
| 埋葬 | スヴェティツホヴェリ大聖堂 |
| 王朝 | バグラティオニ朝 |
| 父親 | エレクレ2世 |
| 母親 | アナ・アバシゼ |
| 配偶者 | |
| 信仰 | ジョージア正教会 |
| 親署 |
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ギオルギ12世(ジョージア語: გიორგი XII、ジョージア語ラテン翻字: Giorgi XII、1746年11月10日 – 1800年12月28日)は、東ジョージアのカルトリ・カヘティ王国の第2代かつ実質的な最後の王(メペ)である。ギオルギ12世は、1798年から1800年に没するまで王位に就いていた。一部の史料ではギオルギ13世として言及されることもある。
エレクレ2世の第3子であるギオルギ12世は、戦争状態にある国で育った。当時、カルトリ=カヘティ王国は、南からのペルシア帝国やオスマン帝国による定期的な攻撃に加え、北東からはレズギ人による絶え間ない襲撃に直面していた。ギオルギ12世は、2人の兄が早世したことで王位継承者となった。王子時代のギオルギ12世は、王領の勤勉な統治者であり、ジョージア支配下にあったアルメニア地域において、度重なる侵略で荒廃した地域への再入植を推し進め、地域の復興に尽力した。同時に、ギオルギ12世は父エレクレ2世の王宮会議の一員を務めた。ギオルギ12世は、オスマン帝国の侵攻に際して、ジョージア軍を指揮するエレクレ2世の補佐にあたった。また、イメレティ王国など西ジョージア諸国との和平交渉においては、エレクレ2世の全権代理人を務めた。しかし、ギオルギ12世は継母のダレジャン王妃とその息子たちの野心に直面することとなった。これらの野心は、やがて公然たる対立へと発展した。1794年の合意に基づき、エレクレ2世は王位継承法を変更した。これにより、ギオルギ12世の弟たちが、ギオルギ12世の次の王位継承順位に据えられることとなった。
1798年に父エレクレ2世が死去すると、ギオルギ12世が王位を継承した。ギオルギ12世は、自身の王位継承を確実にするための保証として、ロシア帝国との関係緊密化を追求した。これは特に、ギオルギ12世が1794年の合意を覆し、息子のダヴィトを王太子に指名した後のことであった。この決定は内戦を誘発し、ギオルギ12世の弟たちが一斉に蜂起した。これを受けてロシアは、カルトリ=カヘティ王国の秩序を回復させるべく、1799年に軍隊を派遣した。機敏な外交官としての側面も持っていたギオルギ12世は、ペルシアやオスマン帝国との同盟も模索し、ナポレオンからは軍事提携の提案も受けていた。しかし、ペルシアやオスマン帝国といった南の隣国による王国のさらなる荒廃を防ぐため、ギオルギ12世は最終的にロシアの力に頼らざるを得なかった。
病に冒されて衰弱したギオルギ12世は、弟たちの絶えない反乱を鎮圧できず、猜疑心に苛まれるなど、失敗した君主とみなされた。国勢の悪化に伴い官僚機構は崩壊し、治安も悪化して犯罪が急増した。ギオルギ12世は、息子のイオアネが提案した主要な公共・金融・教育改革を、何一つ実行に移すことができなかった。王国のロシア帝国への統合を支持したギオルギ12世は、ジョージア貴族を分裂させるというロシア外交官たちの暗躍に気づくことなく、彼らを全面的に信頼した。1800年、ギオルギ12世は皇帝パーヴェル1世から「請願条項」の承認を得た。この条項は、東ジョージアが自治王国としてロシアに統合されることを規定していたが、ギオルギ12世はその批准を知ることなく没した。ギオルギ12世の死は、ロシアが合意を破棄し、ジョージアを完全に併合する契機となった。
生い立ち
ギオルギは1746年11月10日に生まれた。父はカヘティ王エレクレ2世、母はその2番目の妻であるアナ王妃(有力貴族ザアル・アバシゼの娘)である。ギオルギは、父エレクレ2世にとっては第3子にあたり、アナ王妃との間の最初の子であった。異母兄にはヴァフタング王子が、異母姉にはルスダン王女がいたが、ルスダンは幼少期に没した。ギオルギは、父エレクレ2世がカヘティ王国を、祖父テイムラズ2世がカルトリ王国をそれぞれ統治し、東ジョージアの諸国家が緩やかな統一へと向かう激動の時代の中で育った[1]。ギオルギは宮廷で養育されたが、当時は、9歳で父からアラグヴィ公に任命されていた異母兄ヴァフタングの陰に隠れた存在であった[2]。
ギオルギの若年期は、相次ぐ家族の悲劇に見舞われた。母アナ王妃は、ギオルギがわずか3歳であった1749年12月に没した。さらに、エレクレ2世の推定相続人であり、ジョージア再統一の希望と期待を集めていた兄ヴァフタングも、1756年2月に死去した[2]。
1762年、テイムラズ2世の死後まもなく、エレクレ2世はリヒ山脈以東のジョージア諸国家の統一を宣言し、ムツヘタにおいてカルトリ=カヘティ王国の国王として戴冠した。若きギオルギら王族は、これ以降、新たな首都となったトビリシで暮らすこととなった。その間、エレクレ2世はテラヴィの王宮の再建を進めた[3]。
王位継承者

1765年に異母弟ソロモンが死去したことで、ギオルギは成人した唯一の王子となり、その継承順位は揺るぎないものとなった。翌1766年、ムフラニ家のパアタによる反乱が失敗に終わったことを受け、エレクレ2世は、自身の王朝の安泰を期し、王位継承の枠組みを正式に固める決断を下した[4]。国政へのより積極的な関与を望んだギオルギは、アルメニアのパムバク総督への任命を願い出た。ギオルギは同地において、数世紀にわたる侵略によって荒廃した地域への再入植プログラムを開始し、復興に尽力した[5]。
1766年、ギオルギは正式にカルトリ=カヘティ王国の王位継承者に任命された。ギオルギには分封領として、隣国ペルシアとの国境に位置し、主にアルメニア人とトルクメン人が居住していた南ジョージアの広大な領土と、「クサニ、ティアネティ、アグジャカラ、ロリ、パムバクの領主」の称号を与えられた。これらの措置により、継母のダレジャン王妃が自身の子供たちのために宮廷内での影響力を強める中、ギオルギの地位は確固たるものとなった[6]。ダレジャン王妃の子の一人であるレヴァン王子は、ジョージア中部の主要な領地であるアラグヴィ公領を与えられた[2]。
こうした領地の分配は、後の1790年にイウロン王子へクサニ公領が与えられた後も続いた。これは、有力貴族の権力を削減し、バグラティオニ王家へ影響力を集中させるための試みであった。廃位された貴族に代わって数人の地方官が任命される中、ギオルギは1766年、キジキの地方官の娘である当時12歳のケテヴァン・アンドロニカシヴィリと結婚した。ケテヴァンは1777年のガルティスカリの戦いにおいて、自ら300人の軍勢を率いてレズギ人の襲撃を退けたことで、宮廷での人気を博した[7]。1782年6月3日にケテヴァンが没するまでに、夫妻の間には6男6女が誕生した。1783年7月13日、ギオルギはパムバクおよびシュラガリの地方官ギオルギ・ツィツィシヴィリの娘マリアムと再婚した。
王位継承者として、ギオルギの宮廷における地位は極めて重要なものであった。ギオルギは、国家の意思決定において国王に助言を行う責任を負う王宮会議(ダルバジ)の議員を務めた[8]。こうした権限の保持に加え、多くの子宝に恵まれたことは、継母ダレジャン王妃の明白な嫉妬を買い、宮廷内での対立を深める要因となった[9]。
精力的な王子

王位継承者として、ギオルギは次第に国政への関与を深めていった。1770年4月、ギオルギは父エレクレ2世の軍に加わってオスマン帝国軍と戦い、アハルツィヘを奪還した。ギオルギは7,000人の軍勢を率い、1,200人のロシア人傭兵大隊の増援を得て、ボルジョミ渓谷にあるアツクリ要塞の攻略を目指した。しかし、ロシア軍はこの遠征の途上で離脱し、ジョージア軍は単独でオスマンの侵略軍と対峙することを余儀なくされた[10]。エレクレ2世とギオルギはアハルカラキとヘルツヴィシでオスマン軍を破り、4月20日のアスピンザの戦いで決定的な勝利を収めた。この戦いにおいて、ギオルギはジョージア軍の左翼を指揮した[11]。
アスピンザでの勝利直後の1770年5月、ギオルギはカトリコス総主教アントン1世とともにイメレティ王国に派遣された。その目的は、イメレティ王ソロモン1世や、有力貴族であるサメグレロ公カツィア2世、グリア公シモン2世との和平交渉を仲介することであった。和平交渉では、オスマン帝国の侵攻に備え、ジョージア諸国による統一戦線を構築することを目指した[12]。
同年、ギオルギは父エレクレ2世の命を受け、クサニで起きた貴族の反乱を鎮圧するため、異母弟レヴァンとともに派遣された[13]。この遠征でギオルギは上カルトリ部隊の指揮を任され、両王子は反乱の指導者であるクサニ公ギオルギを捕らえ、その領地を王領へと併合した[14]。1777年、エレクレ2世の恩赦を受けて公領と公位を回復していたクサニ公ギオルギが再び反旗を翻すと、エレクレ2世は再び両王子を派遣した[7]。両王子はシアタ要塞の包囲戦で速やかに勝利を収め、クサニ公ギオルギはトビリシに投獄された。ギオルギ王子にはその恩賞として、クサニの領地が与えられた[7]。
1774年1月1日、エレクレ2世は王国全土に徴兵制度を導入した[7]。ギオルギは自ら範を示すため軍に加わり、レズギ人による絶え間ない襲撃にさらされていた国境の要塞ガルティスカリに駐屯した[15]。1779年、カルトリ=カヘティ王国に対して反乱を起こしたエレヴァン・ハン国のホサイン・アリー・ハーンの鎮圧に同行し、イェレヴァンを包囲した。年代記作家パプナ・オルベリアニは、この戦いにおけるギオルギの「模範的な勇気」と、一騎打ちでハーンを倒した功績を記している[15]。
危機
この時期、ギオルギは弟たちの地位が高まるのを目の当たりにすることになった[16]。早くも1772年には、エレクレ2世は年下のレヴァン王子を代表とする使節団をサンクトペテルブルクに派遣し、オスマン帝国による脅威からの保護をロシアに求めた。本来、このような役割は伝統的に王位継承者に与えられるものであった[17]。しかし、レヴァンは1782年に没した。1783年7月24日、カルトリ=カヘティ王国とロシア帝国はゲオルギエフスク条約を締結した。これによりカルトリ=カヘティはロシアの保護領となり、ギオルギ王子は正式に王位継承者として承認された[18]。
エレクレ2世が年老いて衰弱するにつれ、宮廷における影響力はダレジャン王妃に掌握されていった。1790年、レヴァンの死後、ダレジャン王妃の最年長の息子であったイウロンが、クサニ公に封じられた。その翌年には、ダレジャンの息子たちに6,000戸の農民世帯が分与されたが、ギオルギへの配分は4,000戸にとどまった[19]。最終的に1794年、エレクレ2世は、1008年のジョージア王国建国以来続いてきた王位継承法を変更する勅令に署名し、男系年長者序列の概念を導入した。これによりイウロン王子が王位継承順位の第2位となった[19]。この勅令は、エレクレ2世が下した決定の中でも最も議論を呼ぶもののひとつである。しかし当時の史料によれば、この文書へのエレクレ2世の署名は強制されたものであった可能性が示唆されている。エレクレ2世がギオルギ王子に宛てた1794年5月付の書簡には、次のように記されている[20]。
私は、そなたの弟たちへの分与を承認する勅令に署名せざるを得なかった。しかし、それは私の同意なく練り上げられたものであり、権限のない者によって書かれたものであるから、到底容認できるものではない。父テイムラズの形見にかけて、また神にかけて信じてほしい。私はこの勅令に同意してはいないのだ。いかなる理由があろうとも、そなたの生得の継承権が侵されることがあってはならない。
それにもかかわらず、この勅令が国王によって取り消されることはなかった[19]。晩年のエレクレ2世は、自身が進めた親ロシア路線の行く末を危惧しながら過ごした。1795年9月、ペルシア軍がカルトリ=カヘティ王国に侵攻し、クルツァニシの戦いにおいて数に劣るジョージア軍を破った[21]。この戦いはエレクレ2世にとって屈辱的な大敗となり、首都トビリシは焼き払われ、略奪にさらされた[22]。カヘティ部隊を率いていたギオルギは、シグナギにおいて自軍の飢えと病に阻まれ[23]、トビリシへの救援が間に合わなかったとして敗戦の責任を問われることとなった[24]。
しかし戦後、ギオルギは父から赦免され、首都奪還の任務を託された。1796年の夏、ギオルギとカヘティ軍は、ロシアのシリフネフ大佐率いる部隊の支援を受けてトビリシを再占拠し、ペルシアの守備隊を敗走させた[24]。その後、エレクレ2世がテラヴィへと居を移す一方で、ギオルギは首都の再建を任された[25]。トビリシにおいてギオルギ王子は、破壊された市内の主要な橋を架け替え、住民の再入植を推し進めた。同時に、持ち前の外交手腕を発揮して、レズギ人とオスマン帝国による機に乗じた侵攻を未然に防いだ[26]。
12月、父エレクレ2世が統治不能なほどに衰弱したため、ギオルギは王国の摂政に就任した。12月7日、一族の結束を維持するため、ギオルギは弟イウロンを自身の後継者として承認する証書に署名した[27]。1798年1月12日、国王エレクレ2世は、ギオルギの手によって再建されたばかりのテラヴィの宮殿にて[28]、77歳で崩御した[29]。
統治
即位

エレクレ2世は死の間際、ギオルギをトビリシから呼び戻し、正式に国政を譲り渡した。父エレクレ2世の死から2日後の1798年1月14日、聖ニノの日[30]のことであった。ギオルギはガザフの町で行われた式典において、ジョージア正教会と貴族たちの承認を受け、カルトリとカヘティの王となった[30]。ギオルギ12世は、南コーカサスの統一を目指した父エレクレ2世の野望を象徴する称号を名乗った。
- 支配者の子にして、最も神聖なるメペ・ギオルギ。神の御心による、カルトリの王、カヘティの王、サムツヘの世襲領主。ガザフ、ボルチャロ、シャムシャディル、ガフ、シャキ、シルヴァンの公。ギャンジャとイェレヴァンの公にして領主。

ギオルギ王は「ギオルギ12世」と表記されるが、ロシアの歴史家ニコライ・ドゥブロヴィンは異なる主張をしている。ドゥブロヴィンによれば、ギオルギ11世がカルトリ王位に2度(1676年–1688年、1703年–1709年)就いているため、ギオルギ12世の治世中には「ギオルギ13世」と呼ばれることが多かったと主張している[31]。
1799年11月、ロシア皇帝パーヴェル1世はギオルギ12世をカルトリ=カヘティ王として正式に承認し、王権の標章(レガリア)を贈った[32]。そして1799年12月5日、ギオルギ12世の戴冠式がトビリシのアンチスハティ大聖堂で行われた。ギオルギ12世が王位に就いてから2年近く経過した後のことであった。ジョージア史上最後の戴冠式となったこの式典は、カトリコス総主教アントン2世によって執り行われた。ロシア帝国も式典に参加し、ギオルギ12世には聖アンドレイ勲章騎士を、王妃マリアムには聖エカチェリーナ勲章一等を授与した。これら2つの勲章はいずれもロシア帝国最高位の勲章であった。ギオルギ12世にとっては1783年5月3日に授与された聖アレクサンドル・ネフスキー勲章に続く、2つ目のロシア帝国の勲章であった[33]。
治世初期、ギオルギ12世は宮廷の統制を確立することに追われた。王太后ダレジャンは、マリアムが王妃の称号を得ることを阻止し、自らがカルトリ=カヘティの王妃の座に留まることを画策したが、その試みは失敗に終わった。ギオルギ12世はその権力を誇示するかのように、ダレジャン王太后の支持者たちに、自身とマリアム王妃に対する統治への忠誠を誓わせた[25]。王宮はテラヴィに置かれたままであったが、ダレジャン王太后はトビリシに移住した。トビリシの再建はギオルギ12世の直接の監督下で精力的に進められていたが、ダレジャン王太后はそのトビリシの地において、継子ギオルギ12世による統治に対立し続けた[25]。
多くの人々は、ギオルギ12世の治世が短命になることを危惧していた。当時51歳であったギオルギ12世は、明らかに肥満体型で、祝宴を好んでいた。そのため有力貴族たちは、危機に瀕した国を統治する能力がギオルギ12世にあるのかどうか、疑問を呈していた[25]。ギオルギ12世は父エレクレ2世と同様に水腫を患っており、運動能力は制限されていた。支配者自らが戦場で軍を率いることに慣れていたジョージアの国にとって、この身体的制約は大きなハンディキャップであった[25]。
王位継承の危機

ギオルギ12世は即位後、異母弟イウロンを王位継承者として認める勅令への署名を余儀なくされた[34]。この決定は、ロシア帝国と敵対するペルシアに挟まれた王国において、内戦を避けるために下したものであった[34]。しかしギオルギ12世はこの勅令を無効にし、当時ロシアで軍役に就いていた自身の長男ダヴィトを後継者に据えることを望んでいた[35]。この計画は間もなく、ダレジャン王太后とその息子たちによって見破られた[36]。
一族内の紛争は、単なる王朝内の争いよりも深いものであった。対立の根底にあったのはギオルギ12世の外交政策、すなわち父エレクレ2世の親ロシア政策を継承する姿勢であった[37]。宮廷は二分され、ギオルギ12世の方針を支持する派閥と、ロシアの帝国主義を恐れる派閥に分かれた[37]。後者の派閥を率いたのは異母弟アレクサンドレであった[38]。ギオルギ12世はゲオルギエフスク条約の更新に向けてロシア皇帝パーヴェル1世と交渉を開始するにあたり、ガルセヴァン・チャヴチャヴァゼ大使を補佐するためにギオルギ・アヴィリシヴィリを特別使節としてサンクトペテルブルクに派遣した。しかし、この決定は国内情勢を悪化させる結果となった。アヴィリシヴィリを派遣した真の目的が、ギオルギ12世の息子ダヴィトの王太子承認をロシアに働きかけるためのものであったことが露見したためである[34]。
貴族たちの領地を王族に与えることで王国の中央集権化を図った父エレクレ2世の政策は、深刻な結果を招いた。19世紀のロシアの歴史家ピョートル・ブイコフは、ギオルギ12世が即位した当時のカルトリ=カヘティ王国の混乱を「無政府状態」と評し、次のように記している[39]。
貴族階級を犠牲にして王国の重要な部門を任された王子たちは、全体の利益のことなど微塵も考えなかった。それぞれが自らの派閥の強化と自立を目指し、ひいては王国全体に不和を広げようとさえした。このような小さな国の中で権力が分割されたことは、無政府状態のような印象を与えた。
アヴィリシヴィリがロシアに派遣された後、王弟たちは自らの領地で勢力を強め、ギオルギ12世を王として認めることを拒否すると宣言した[36]。ギオルギ12世はこれに対抗し、王太后の領地を没収して王弟たちの特権を制限する勅令を発布した[40]。ギオルギ12世は内戦の回避に努めたものの、1798年に末弟パルナオズがスラミ要塞を武力占拠したことで、事態は決定的な内戦へと発展した[41]。事態をさらに悪化させたのは、王国の正規軍が各王弟たちの私兵として分割されていたことである。これによりギオルギ12世に忠誠を誓う軍事力は、カヘティ地方のみとなっていた。
ギオルギ12世は1,200人のレズギ人兵士を雇わざるを得なかった[40]。レズギ人は歴史的にジョージアの敵として知られ、16世紀以降しばしば壊滅的な襲撃を行っていたことから、この決定は社会から大きな批判を受けた。レズギ人にはカルトリの秩序回復の任務が命じられたが、レズギ人たちは村々を荒らし回った[42]。これらの傭兵を維持する費用は高額であったため、ギオルギ12世は商人や小貴族への増税を行い、納税を拒否する貴族の家には武力で脅迫した[42]。王国全体で法執行のための資金が不足し、犯罪率が上昇した[42]。
事態が悪化する中、ギオルギ12世とその弟たちは外国の介入を容認し始めた[40][38]。ギオルギ12世はロシアに使節団を派遣し、ゲオルギエフスク条約の条項を変更し、ロシア帝国がジョージアの内政に介入することを許可しようとした。同時に、ジョージアの王位継承者の承認権をロシア皇帝に独占的に付与しようとした。1799年4月18日、チャヴチャヴァゼ大使たちの尽力により、パーヴェル1世は条約を更新した。パーヴェル1世はギオルギ12世の息子であり、親ロシア派でもあるダヴィトを、カルトリとカヘティの王太子として承認する勅令に署名した[43]。
ロシア帝国との関係

ゲオルギエフスク条約の更新により、ロシア皇帝パーヴェル1世はコーカサスにおける政策を見直し、より介入主義的なアプローチの構築を進めた[44]。ロシア帝国は南コーカサスへの介入による経済的、政治的、軍事的な利益を再考せざるを得なくなり、当時コーカサスに駐留するロシア軍を率いていたカール・クノーリング将軍に新たな指示を与えた。カルトリ=カヘティ側には知らされていなかったが、パーヴェル1世は条約更新とともに秘密文書にも署名をした。その内容は、ギオルギ12世の死後に、カルトリ=カヘティ王国を確実に併合するようクノーリング将軍に命じたものであった。
ロシア帝国は1799年11月8日[45]、国務顧問ピョートル・コヴァレンスキーをロシア全権公使としてカルトリ=カヘティ王国に派遣した[43]。11月26日には2個大隊からなるジョージア駐留ロシア軍の指揮官としてイヴァン・ラザレフ将軍が派遣された[43]。ギオルギ12世はこれを反ロシア的な貴族たちに対する外交的勝利と見なし、首都トビリシにおいて歓迎のパレードを組織した。そしてギオルギ12世はトビリシの王宮でコヴァレンスキー全権公使と会談した[46]。19世紀のジョージアの詩人イリア・チャヴチャヴァゼは、「ジョージアがこれほど幸福な時期は、その後長く訪れなかった」と述べている[46]。クルツァニシの戦いでの惨劇を記憶しているトビリシの人々は、正教徒であるロシア軍の到着を歓迎した。人々はロシア軍を、13世紀以来長らく国を荒廃させ続けてきたイスラム教徒の侵略者に対する保証と見なした[46]。
コヴァレンスキー全権公使は、多くの任務を抱えてカルトリ=カヘティに定住した。コヴァレンスキー全権公使は、ギオルギ12世の切実な要望に応え、国王に対する反対運動を続ける王太后ダレジャンの陰謀を牽制する監視役を務めた。同時に、コヴァレンスキー全権公使はペルシアの軍事的な再起を阻止する任務を担った[34]。これを達成するため、ラザレフ将軍率いるロシア軍はカルトリ=カヘティにおいて常設軍の訓練を開始した。この軍はヨーロッパの基準で運用され、ジョージアを防衛するとともにロシアの利益に従う能力を備えるものであった[34]。コヴァレンスキー全権公使はまた、イスラム系諸国であるコーカサス諸ハン国をロシアの勢力圏に引き入れる任務も負っていた。商人、科学者、経済顧問の一団を率いたコヴァレンスキー全権公使は、地域の経済的および地理的な潜在能力を評価しなければならなかった[47]。同時に、コヴァレンスキー全権公使は南コーカサス全体の貿易状況を改善するための経済改革を推進する役割を担った[34]。
しかし、コヴァレンスキー全権公使の任務と責任は、急速にギオルギ12世の要求をはるかに上回るものとなった。ラザレフ将軍の部隊の一部は、トルコ国境に駐屯した。これは、オスマン帝国とジョージア人の間のあらゆる紛争を回避するためであった。同時に、ロシア帝国とオスマン帝国の間の脆弱な平和を維持する狙いがあった[34]。コヴァレンスキー全権公使はまた、王国内のアルメニア人コミュニティの統合を組織し、それぞれにメリク(地方長官)を置いた[34]。最終的に、コヴァレンスキー全権公使はギオルギ12世による国内問題の取り扱いを監視しなければならなかった。それはギオルギ12世の決定がロシアの利益と一致することを確実にするためであった[48]。
コヴァレンスキーの権限は、実質的に総督に近いものであった。やがて、コヴァレンスキー全権公使はギオルギ12世のすべての往復書簡を管理するようになった[43]。1800年末にギオルギ12世が病に倒れると、コヴァレンスキー全権公使とラザレフ将軍が国の運営を担った。これは1799年にロシアから帰国していたダヴィト王太子に代わって行われた[38]。
ギオルギ12世とオスマン帝国
ギオルギ12世が権力を掌握して間もなく、南部国境で緊張が高まる状況に直面した。王国の南東には敵対的なペルシア帝国があり、南西はオスマン帝国と国境を接していた。特にチルディルのパシャであり、スルタン・セリム3世の義弟であったサブト=パシャは、オスマン帝国の支配下にあるジョージア領を統治していた。サブト=パシャは、正教徒のジョージア人に対して、特に敵対的であった。
オスマン帝国との平和を確保するため、ギオルギ12世はカルトリ=カヘティ王国をオスマン帝国の保護領に変えることを検討した[42]。この行為は、ロシア帝国に対してゲオルギエフスク条約に基づく軍事的義務を再確認させるための試みと見なされた。ロシア帝国は1783年の条約締結以来、その義務をほとんど履行していなかったためである[42]。1798年、ギオルギ12世はアスラン・オルベリアニ公を派遣し、サブト=パシャと保護領条約の条件を交渉させた。
ロシア帝国はカルトリ=カヘティの外交方針が変わる可能性に対して迅速に反応し、カルトリ=カヘティの外交官たちの要求に応じた。ギオルギ12世はチルディルとの交渉を中止し、アスラン・オルベリアニを呼び戻した。サブト=パシャはこの予期せぬ突然の変化に憤慨した。サブト=パシャは国境地帯で数回にわたる襲撃を開始し、同時にコーカサスのレズギ人を雇ってカヘティを攻撃させた[34]。レズギ人たちは1798年7月から9月にかけて、カヘティ地方を荒らし回った[49]。
1799年4月、当時シリアでオスマン帝国と交戦中であったフランスのナポレオン・ボナパルト将軍は、ギオルギ12世との同盟を検討した。ナポレオンは宮廷に使節を送ったが、その使節はサブト=パシャに捕らえられ、処刑された[50]。1799年4月15日、フランスとの同盟を締結できる可能性という報告が、ギオルギ12世のもとに届いた。しかしギオルギ12世は、その機会を再考することはなかった[50]。
ロシア帝国によるギオルギ12世への公式な支援により、当時コンスタンティニイェに駐在していたロシア帝国の外交官ヴァシリー・トマラが、カルトリ=カヘティ王国とオスマン帝国の間の平和を確保した[51]。セリム3世は、ジョージアに対するすべての攻撃的な行動を禁止した[52]。しかしこの禁止措置にもかかわらず、後にアヴァール・ハン国が東ジョージアに侵攻した際、サブト=パシャがこれを支援することを防ぐことはできなかった[40]。
ペルシアへの恐怖

1797年7月、ファトフ・アリー・シャーがガージャール朝の第2代シャーに即位すると、直ちにコーカサスへと目を向けた。コーカサスは歴史的に、オスマン帝国およびロシア帝国との緩衝地帯として、ペルシアにとって戦略的な地域であった。1798年6月、ペルシアの将軍スライマーン・ハーン・カージャール[35]は南コーカサスへの遠征を行い、この地域の様々な小公国をペルシアの勢力圏に取り込もうとした。加えてスライマーン・ハーンは、ギオルギ12世に服従を強いるため[44]、王太子ダヴィトを人質としてエスファハーンに送るよう求めた[53]。スライマーン・ハーンは脅迫的な書状の中で、次のように述べている[44]。
其の方の運命拙く、悪しき宿命に遮られ、此の正しき道に背を向けるのみならず、我らへの忠節を疎かにせしむるにおいては、火を見るより明らか也。我らが栄光ある軍旗を貴領へ進め、アーガー・モハンマド・シャーの折に倍する惨禍を思い知らせん。ジョージアは再び灰燼に帰し、其の民草は我らが憤怒に震え上がるべし。此の忠告を忝くし、我らが下す命に服することこそ賢明なれ。
7月3日、ファトフ・アリー・シャーはギオルギ12世の宮廷に軍旗を送り、ペルシアへの忠誠を誓わせようとした。そして、これまでの態度から一変し、親ロシア的な外交政策を転換する見返りとして、ギオルギ12世に財物の提供を申し出た[42]。ロシア駐在のイギリス外交使節団によれば、ギオルギ12世は義父ギオルギ・ツィツィシヴィリ公を使節としてスライマーン・ハーンのもとに派遣した。当時の国庫は極めて困窮していたため、金銭による貢納の代わりに、協力の証として貴重な時計を贈ることにした[35]。しかし、ファトフ・アリー・シャーに対する反乱の報を受けてスライマーン・ハーンがペルシアに帰国したため、ツィツィシヴィリは贈り物を渡すことなく、トビリシに戻った[35]。
しかし、ペルシアの野心はそこで終わらなかった。間もなく、歴史的にジョージアの勢力圏にあったカラバフ・ハン国がジョージアとの関係を断ち、ペルシアのシャーに忠誠を申し出た[54]。ファトフ・アリー・シャーは1799年に新たな使節をカルトリ=カヘティに送り、ロシア帝国がゲオルギエフスク条約に基づく義務を履行していないことを指摘し、ギオルギ12世に自らの要求を受け入れるよう迫った[55]。しかし、1799年11月にロシア軍が到着したことで、カルトリ=カヘティは再び強固な立場を主張できるようになった。
1800年初頭、ロシア帝国のピョートル・コヴァレンスキー全権公使は、メラボフ少尉をファトフ・アリー・シャーの宮廷に特別代表として派遣した[37]。メラボフはテヘランに赴き、クルツァニシの戦いで捕虜となったジョージア人たちの返還や、1795年の侵攻にかかったすべての費用の償還などの要求条項を提示した[56]。メラボフはまた、ペルシアがカルトリ=カヘティ王国に対するすべての領有権を放棄すれば、ロシア帝国はペルシアとの友好関係を模索する用意があると言い添えた[57]。しかしながらペルシアの大宰相ハッジ・イブラーヒーム・シラージはメラボフの要求を拒否し、ロシア皇帝パーヴェル1世に正式な使節の派遣を要請した。さらにハッジ・イブラーヒームはメラボフを処刑しようとしたが、メラボフは辛うじて逃れ、ラシュトからバクーへと続く険しい道を通ってトビリシに帰還した[37]。
1800年4月[58]、メラボフの要求に公式に回答するため、新たなペルシアの使節団がトビリシに到着した。そしてペルシアの使節団はギオルギ12世に対し、6万人の軍勢で侵攻すると脅迫した[37]。しかし、ギオルギ12世はペルシアの外交官たちとの内々の謁見を拒否し、トビリシのロシア大使館でコヴァレンスキーとともに会談した[58]。ギオルギ12世はロシアの軍事的存在の後押しを受け、ファトフ・アリー・シャーの条件を断固として拒否した。ファトフ・アリー・シャーはその後、侵攻の準備を開始した[58]。
帝国の中の王であったか

内部の分裂と外部の脅威により、ギオルギ12世はロシア帝国との関係に新たな変化を求めるようになった。1799年9月7日、ギオルギ12世はサンクトペテルブルクの自国大使館に宛てた書簡の中で、次のように述べている[59]。
キリスト教の真理に基づき、我が王国および領土をロシア帝国の帝座の庇護下に捧げ、ロシアに全権を委ねる。これにより、ジョージア王国がロシアの他の諸州と同様の地位において、ロシア帝国へ統合されることを希求するものである。次いで、全ロシアの皇帝陛下に対し、ジョージア王国をその権威の下に受け入れるにあたり、我が家門より王としての尊厳が剥奪されることなく、先祖の時代と同様に世々代々にわたって保持される旨、書面による確約を賜りたく、謹んで嘆願申し上げる。
また、皇帝陛下に対し、私の最終的な服従の担保として、ロシア帝国領内に世襲の領地を賜りたく、謹んで嘆願書を提出するものである。
カルトリ=カヘティ王国をロシア帝国に併合してほしいというこの要求は、旧来のペルシアにおける伝統的な統治形式をモデルとするものであった。その統治形式は、ジョージアの指導者が対外的にはシャーのヴァーリ(総督)として仕える一方で、ジョージアの国民に対しては独自のメペ(王)として君臨するという二重の体制であった[45]。しかし、この請願を記した書簡がロシアに駐在するカルトリ=カヘティの外交使節団の手に渡ることはなかった。カルトリ=カヘティの大使ガルセヴァン・チャヴチャヴァゼの影響力に嫉妬したロシア帝国のピョートル・コヴァレンスキー全権公使が、ギオルギ12世の外交官たちをトビリシに呼び戻したためである[60]。
1800年4月、再びペルシアの脅威にさらされたギオルギ12世は、新たな使節団を編成し、サンクトペテルブルクに派遣した。この使節団はガルセヴァン・チャヴチャヴァゼ、ギオルギ・アヴァリシヴィリ、エレアザル・パラヴァンディシヴィリで構成された[61]。使節団は、カルトリ=カヘティ王国がロシア皇帝パーヴェル1世に対して行う16項目の要求を列挙した宮廷文書「請願条項」を託されていた[62]。これらの要求には、ギオルギ12世を国王として留め置き、ロシア帝国の法律に基づいて王国を統治する権利を維持すること、ギオルギ12世の子孫たちの王位継承権を保証すること、王国の戦略的要塞に6,000人のロシア兵を常駐させること、ジョージアにおける貴金属採掘のためにロシアの商人を派遣すること、オスマン帝国の襲撃に対する保護を保証すること、そしてジョージアの貴族、聖職者、商人、職人たちに、ロシアの同等階級と同じ権利を与える約束などが含まれていた[61]。
1800年6月、カルトリ=カヘティの使節団がサンクトペテルブルクに到着した。その一方で、カルトリ=カヘティ国内ではロシア全権公使コヴァレンスキーが策を講じ、ギオルギ12世への働きかけを強め、ギオルギ12世の次男イオアネとともに王国の行政責任者に任命されることに成功した[63]。コヴァレンスキーの権力増大を危惧したカルトリ=カヘティの宮廷は、ロシア当局を説得し、コヴァレンスキーを全権公使の地位から解任するよう求めた。パーヴェル1世は1800年8月3日、コヴァレンスキーの解任に関する勅令に署名した。後任にはイヴァン・ラザレフが就き、カルトリ=カヘティの政治・軍事のトップを引き継いだ[64]。
カルトリ=カヘティ王国とロシア帝国の間の交渉は、1800年の6月から11月にかけて[65]、サンクトペテルブルクの外務参議会庁舎で行われた[66]。ロシア側は外務参議会長官フョードル・ロストプチンが率い[65]、ロシア政府は1800年11月19日、請願条項の16項目に同意した[67]。カルトリ=カヘティ王国が正式にロシア帝国に併合される前に、カルトリ=カヘティの使節団はトビリシに戻り、王宮会議の最終的な合意とギオルギ12世の署名を得なければならなかった。この手続きを経て初めて、パーヴェル1世による公式文書の発布が可能となった[67]。1800年11月末、ギオルギ・アヴァリシヴィリとエレアザル・パラヴァンディシヴィリはジョージアに戻り、合意による利点を世論に納得させるための運動を主導した。アヴァリシヴィリらは引き続き、コーカサスに駐留するロシア軍を指揮するカール・クノーリング将軍の助けを借りた[68]。
一方でパーヴェル1世は、カルトリ=カヘティに対して別の計画を抱いていた。この当時、パーヴェル1世の国内政策はますます独裁的になり、国際関係は不安定になっていた。1800年9月4日のイギリスのマルタ侵攻後、パーヴェル1世はマルタ騎士団にジョージアの支配権を与えることを構想した[65]。パーヴェル1世は自らの専制帝国の中に主権を有する王を置くことは、帝国の利益に反すると考えた。
内部の混乱の拡大

有能な外交チームを備え、強力な外交政策を推進していたにもかかわらず、ギオルギ12世には王国を掌握する能力が決定的に欠けていた。それが明白になったのは、1799年5月10日にギオルギ12世の次男イオアネが、野心的な改革案を提示した時であった[40]。その計画は、王国の行政システムと金融部門を根本から変え、同時に公教育プログラムを導入しようとするものであった。ギオルギ12世はこの案を承認したが、貴族や商人階級の支持が得られず、実現には至らなかった。さらには、マリアム王妃までもが夫ギオルギ12世の弱みにつけ込んだ。ギオルギ12世はしばしば王の印章(御璽)を幼い子供たちに玩具として貸し与えていたが、マリアム王妃はそれを利用し、ギオルギ12世の署名を何度も偽造した[55]。
ギオルギ12世は深刻な疑心暗鬼に苛まれ、暗殺を極度に恐れていた[55]。ギオルギ12世は王太后ダレジャンを常時監視下に置いた。ギオルギ12世が信頼を寄せる身内は、長男ダヴィト、次男イオアネ、そして五男バグラトのみであった。貴族階級も分裂し、王太后ダレジャンを支持し対ロシア融和政策を掲げる異母弟イウロンの即位を望む派閥と、異母弟アレクサンドレが率いる親ペルシア派の陣営に分かれて対立していた[37]。商人の中には、君主制を完全に廃止し、共和制の導入を求める者さえ存在した[37]。
1799年11月にロシア軍が到着したが、これは内部の分裂をさらに悪化させるだけであった。ロシア全権公使コヴァレンスキーは、イヴァン・ラザレフ将軍からしばしば異議を唱えられ、さらには王族を侮辱することさえあった[69]。加えてコヴァレンスキーは、王国内のジョージア人とアルメニア人を分断する政策を推し進めた。アルメニア人は、トビリシに住む有産階級の大部分を占めていた。トビリシに駐在していたアルメニア人行政官のジャムシドとフェリドゥンは、ジョージアのアルメニア人コミュニティ内で親ロシア感情を広める見返りとして、ロシアから給与を受け取り、ロシア当局と直接連絡を取り合っていた。これは、ギオルギ12世がロシア帝国と交わした合意に違反する行為であった[70]。1800年に叙任されたホヴセプ・アルグティアン大主教は、ギオルギ12世への反対を煽り、信者たちにロシア皇帝パーヴェル1世への臣従を促した[42]。インドにおけるイギリスの外交傍受記録によると、ロシア帝国はアルメニア人に対し、カルトリ=カヘティ王国内にアルメニア人の自治国家を創設することを約束していた[71]。
ダレジャン王太后はトビリシに隔離されながらも、地域全体でギオルギ12世に反対するプロパガンダ運動を主導した。ダレジャンはアルメニアのメリク(地方領主)やアゼルバイジャンのハーンたちを煽動してギオルギ12世に敵対させることに成功した。同時にチルディルのサブト=パシャや、西ジョージアを統治するイメレティ王ソロモン2世と秘密交渉を行い、自身の息子イウロンを後継者として承認させるよう画策した[72]。ソロモン2世もまた、ギオルギ12世の親ロシア政策に反対しており、他のジョージアの諸公国との協議が不足していると主張した[73]。
1800年7月、イウロン、パルナオズ、ヴァフタングといったギオルギ12世の弟たちは、迫り来るペルシアの侵攻に備えるという名目で、3,000人の軍勢を集めた。だが実際には王太后ダレジャンを解放することが目的であり、反乱軍としてトビリシを包囲した[74]。この反乱は、イヴァン・ラザレフ率いるロシア軍が鎮圧した。ダレジャンはその後も、首都トビリシに幽閉されたままとなった[75]。
ペルシアの侵攻未遂
1800年4月、ギオルギ12世はペルシアの要求に屈することを、最後にもう一度拒否した。これを受けて、ファトフ・アリー・シャーは息子のアッバース・ミールザーおよび将軍スライマーン・ハーン・カージャール[58]の指揮の下、1万人の軍勢を送り込み[53]、ジョージアの国境を脅かした。ペルシアの軍勢はタブリーズに集結し、マークー、イェレヴァン、そしてトビリシへと進軍する意向を表明した[58]。一方、異母弟アレクサンドレは7月にジョージアを離れ、アゼルバイジャンでペルシア軍と合流した[41]。アレクサンドレはペルシア軍にカルトリ=カヘティの軍事的弱点を知らせ、ペルシア軍の指導部に加わった。アレクサンドレはファトフ・アリー・シャーから「ジョージアのハーン」に任命された[53]。その後、ペルシア軍はアラス川を渡り、ジョージア国境へと迫った[58]。
首都トビリシの防衛に向けて、ロシア軍の準備不足は明らかであった。ロシア全権公使コヴァレンスキーはギオルギ12世の同意を得て、トビリシの周囲に塹壕を掘らせた。しかし、その作業中、クルツァニシの戦い(1795年)の後に埋葬された数百体の遺体が露出した。これにより、首都トビリシの全域で疫病の流行が引き起こされた[76]。この流行はカルトリ地方に拡大した。これに対するギオルギ12世の対応は、当該地域に宗教的代表者を派遣するのみに留まった[30]。
1800年7月10日、ロシア皇帝パーヴェル1世はカール・クノーリング将軍に対し、ジョージアへの増援部隊派遣を命じた[77]。この命令を受けて、ロシア軍の騎兵中隊10個と重装歩兵大隊9個が北コーカサスの防衛線を越えた[63]。9月にはヴァシリー・グリャコフ将軍率いるカバルダ歩兵連隊がカヘティに到着した[78]。これらの新たな増援の到着によってペルシア軍は戦意を喪失し、占領していたイェレヴァンを放棄してタブリーズに引き返した。一方、アレクサンドレはカラバフへと逃げ込んだ[63]。
アヴァールの侵攻
イェレヴァンに避難していた異母弟アレクサンドレはアヴァール・ハン国に移動し、1774年からアヴァール人たちを率いていたオマール・ハーンを説得してギオルギ12世と敵対させた[79]。オマール・ハーンは形式上はカルトリ=カヘティ王国の封臣であったが、ロシア帝国のカール・クノーリング将軍に軍事的保護を要請することで侵攻計画を隠蔽した[80]。同時にオマール・ハーンは、王太后ダレジャンの支持者とともに急ピッチで戦争計画を練り上げた。アレクサンドレとオマール・ハーンはカヘティへの侵攻に同意した。一方、異母弟であるイウロン、パルナオズ、ヴァフタングの3人は、ロシアからの援軍を阻止するため、ジョージア=ロシア国境を抜ける唯一のルートであるダリアリ渓谷を占拠する準備を整えた[79]。イウロン、パルナオズ、ヴァフタングの3人は、侵攻が成功した場合にはカルトリ=カヘティ王国を自分たちの間で分割することに合意していた[79]。
1800年8月、オマール・ハーンはカヘティ地方のサガレジョ州へ最初の侵攻を試みた[79]。しかし8月15日、アラザニ川の岸辺近く[41]、ニアフリで行われた戦いで、アヴァールの軍勢はギオルギ12世の息子であるイオアネ王子とバグラト王子が率いる軍勢にあっけなく敗北し、撤退を余儀なくされた[81]。だがオマール・ハーンは新たな軍勢を集めることに成功し、ペルシアのファトフ・アリー・シャーやチルディルのサブト=パシャからの軍事支援を取り付けた[40]。新たな攻撃の機会を窺うアレクサンドレは、ボドベ修道院にある聖ニノの墓の前で、ジョージアの国民に向けての演説を行った。その演説の中でアレクサンドレは、ジョージアの伝統的な敵との同盟は一時的なものであり、国内の正当な秩序を回復するためのものであると誓った[81]。
1800年11月初旬、オマール・ハーンとアレクサンドレは1万2,000人のアヴァール軍を率い、カヘティに侵攻した[81]。ギオルギ12世は王としての責任からますます遠ざかっており、ジョージア軍の責任者としてイオアネ王子とバグラト王子を任命した[79]。イオアネはジョージア砲兵隊の指揮官となり、イヴァン・ラザレフ将軍やヴァシリー・グリャコフ将軍が率いるロシア軍の増援を受けた[79]。ロシアとカヘティの軍勢、そしてプシャヴィ、トゥシェティ、ヘヴスレティの山岳兵、総勢2,000人の連合軍が、アヴァールの侵略軍に立ち向かうこととなった[41]。1800年11月7日、両軍はイオリ川とアラザニ川の合流点で衝突した[41]。
このニアフリの戦いにおいて、ジョージアとロシアの連合軍は勝利を収めた。2,000人の兵を失ったアヴァールの軍勢は逃走し[81]、オマール・ハーンは重傷を負って数週間後に死亡した。アレクサンドレは2,000人のパルチザンとともにカラバフに逃亡した[81]。この戦いの功績により、イオアネ王子、バグラト王子、ラザレフ将軍、グリャコフ将軍はロシア皇帝パーヴェル1世よりエルサレムの聖ヨハネ勲章を授与された[82]。
ロシアによる併合
アヴァールの侵攻により、ロシア当局は南コーカサスでの存在感を強めることを余儀なくされた。1800年11月15日、ギオルギ12世が派遣した使節団がまだサンクトペテルブルクで交渉を続けている最中、ロシア皇帝パーヴェル1世はカール・クノーリング将軍に対し、カルトリ=カヘティ王国内に既に展開しているロシア軍の拠点を可能な限り強化するよう命じた[65]。さらにパーヴェル1世は、死期が近いギオルギ12世の後継者がロシア帝国の直接の同意なしに即位することを阻止するよう、トビリシのロシア当局に命じた。この命令は、ジョージアの外交官たちには伏せられた密命であった[83]。
その頃、カルトリ=カヘティ王国の経済的潜在力を調査するために1799年9月からコーカサスに拠点を置いていたロシアの地質学者アポロ・ムシン・プーシキン伯爵が、カルトリ=カヘティの詳細な報告書を発表した[53]。その中でプーシキンは、ロシアが開発可能なジョージアの地質学的な資源について言及した。また、トビリシをペルシアやインドとの貿易拠点として活用する利点、そしてジョージアをオスマン帝国、ペルシア、ダゲスタンに対する軍事拠点として活用する利点に言及した[53]。さらにこの報告書は、王位継承者と目されていたダヴィト王太子の不人気ぶりを明らかにした[84]。
イヴァン・ラザレフ将軍もまた、カルトリ=カヘティ王国の社会政治的状況に関する別の報告書を提出した。ラザレフはギオルギ12世の権力欠如と、王太子ダヴィトに対する大きな反対運動があることを詳細に記した。さらにラザレフは、カルトリ=カヘティは高い税率と内外の脅威に関連する全般的な治安悪化が経済に悪影響を及ぼしていると述べた。国庫の資金不足により、王室当局は公務員の給与を支払うことができず、汚職が蔓延していた[84]。カルトリ=カヘティ王国の人口は危険なほど減少しており、1801年の国勢調査では、王国全体でわずか3万5,000世帯、16万8,929人の居住者しか確認できなかった[85]。
1800年12月初旬、パーヴェル1世はこれらの報告書を受け、ジョージアに対する自らの決定を変更するための兆候と見なし、ギオルギ12世による批准を待たずにカルトリ=カヘティ王国の併合プロセスを加速させることを決断した[86]。実際、ロシア帝国の当局が懸念していたのは、病弱な王ギオルギ12世が「請願条項」を批准する前に没することであった。ギオルギ12世の死は新たな内戦を招き、異母弟イウロンによるトビリシ占領に繋がる可能性が高かったためである[84]。ギオルギ12世自身も、状況を同じように認識しており、1800年12月7日にラザレフに送った書簡には「我らの土地は皇帝陛下のものである」と記述している[87]。
12月17日、パーヴェル1世はピョートル・オボリャニノフ検事総長率いる国家評議会を召集した[88]。国家評議会の過半数はカルトリ=カヘティ王国の直接併合に反対したが、オボリャニノフは会議の議事録を変更させ、パーヴェル1世は既に決断を下したと宣言した[88]。この修正された議事録は、アレクサンドル・ロマノフ皇太子によって承認された[88]。
12月18日[89]、ジョージアの使節たちが依然として帰路にあり、ギオルギ12世が死の淵にある間に、ロシア皇帝パーヴェル1世はカルトリ=カヘティ王国を併合する勅令に署名した[40]。パーヴェル1世は王太子ダヴィトを州の長官に任命し、ジョージアの貴族たちには伯爵や男爵の称号を提示した[88]。この併合が正式なものとなったのは2年後の1802年であった。これはパーヴェル1世が勅令署名の数か月後に暗殺され、トビリシでの公布が遅れたためである[90][91]。
崩御

1800年後半、ギオルギ12世は浮腫のために重病となり、身体の動きが制限されるようになった。ギオルギ12世が公の場に姿を現さなくなったことで、臣民の間での人気は大きく低下した[92]。国政はますますロシアの官吏の支配下に置かれるようになった。ギオルギ12世は最期の数か月、トゥシェティ地方の高地の村ボチョルマで職人のガブリエルとともに、聖ゲオルギオスのイコンの修復に費やした[41]。
ギオルギ12世はトビリシの宮殿に引きこもり、息子のダヴィト王子、イオアネ王子、バグラト王子のみを信頼していた。しかし1800年1月9日、ダヴィトがアルメニア人商人の娘エレネ・アバメリキと結婚した。この結婚はギオルギ12世の意に反したものであり、以降ギオルギ12世はダヴィトと距離を置くようになった[63]。ギオルギ12世は孤独と病、そして抑鬱状態に苦しんだ。ギオルギ12世は、自身の最大の外交的成果である「ロシア帝国によるカルトリ=カヘティの併合」を規定したパーヴェル1世の勅令署名を、ついに知ることはなかった。病に倒れたギオルギ12世は、ロシアの医学と、軍医ゲルツェジウスによる治療を求めたが、効果はなかった[93]。
1800年12月28日[38]、ロシアの公文書を携えた大使たちがトビリシへの帰路、まだ北コーカサスを移動していた頃[94]、ギオルギ12世は通訳を介してクノーリング将軍に最後となる言葉を伝えた。ギオルギ12世は、カルトリ=カヘティ王国をクノーリングに託すとともに、司祭たちにはダヴィト王太子の戴冠を確実にするよう求めた[93]。同日、国王は狭心症の合併症によりトビリシで崩御した。ギオルギ12世の王冠と王笏は、サンクトペテルブルクへと送られた[95]。ギオルギ12世はカルトリ=カヘティ最後の国王であり、ムツヘタのスヴェティツホヴェリ大聖堂に埋葬された最後のジョージアの君主であった。ダヴィト王太子は直ちに王国を引き継いだが、1801年にジョージアの国家が最終的に併合されるまで、ダヴィトは称号のない単なる「長官」の地位に留まることとなった。
家族
ギオルギ12世は1766年にキジキ総督パプナ・アンドロニカシヴィリの娘ケテヴァンと結婚した。ケテヴァンは当時12歳であった。ケテヴァンは1782年6月3日に死去した。ギオルギ12世はケテヴァンとの間に6男6女をもうけた。
- ダヴィト(1767年7月1日 – 1819年5月13日) - 1800年から1801年までカルトリ・カヘティ王国の総督。
- イオアネ(1768年5月16日 – 1830年2月15日) - 百科事典編纂者、作家。
- バルバレ(1769年または1770年 – 1801年) - 1784年にシモン=ゾシメ・アンドロニカシヴィリと結婚。3人の子供をもうけた[96]。
- ルアルサブ(1771年 – 1798年以前) - 夭逝
- ソピオ(1771年 – 1840年9月28日) - ルアルサブ・タルハニシヴィリと結婚。
- ニノ(1772年4月15日 – 1847年5月30日) - サメグレロ公グリゴル・ダディアニと結婚。
- サロメ(1773年頃 – 1777年1月3日) - イメレティ王ソロモン1世の息子アレクサンドレと結婚[97]。
- バグラト(1776年5月8日 – 1841年5月8日) - 作家、歴史家、ロシア元老院議員。
- リプシメ(1779年 – 1847年5月27日) - ディミトリ・チョロカシヴィリと結婚。
- ソロモン(1780年 – 1798年以前) - 夭折。
- ガイアネ(1780年9月27日 – 1820年7月22日) - 1794年にクサニ公ギオルギと結婚。
- テイムラズ(1782年4月23日 – 1846年10月25日) - 歴史家。
ケテヴァンの死後、ギオルギ12世は1783年7月13日に上サツィツィアノ公ギオルギ・ツィツィシヴィリの娘マリアムと結婚した。マリアムは後にカルトリ=カヘティ王妃となった。ギオルギ12世はマリアムとの間に8男3女をもうけた。
- ミヘイル(1783年 – 1862年11月21日) - ロシアの軍人。
- ジブラエル(1788年8月13日 – 1812年2月29日)
- タマル(1788年8月13日 – 1850年7月29日)
- アナ(1789年 – 1796年) - 夭逝。
- イリア(1790年9月2日 – 1854年7月18日)
- イオセブ(1798年以前に没) - 夭逝。
- スピリドン(1798年以前に没) - 夭逝。
- オクロピル(1795年6月24日 – 1857年10月30日)
- スヴィモン(1796年 – 1798年以前) - 夭逝。
- エレクレ(1799年 – 1859年)
- アナ(1800年 – 1850年5月26日) - 最初にエスタテ・アバシゼと結婚、次にダヴィト・ツェレテリと結婚[98]。
王家の血統
ロシア帝国はジョージアの君主制を廃止した。しかしジョージアの貴族たちの一部は、ギオルギ12世の子孫をジョージアの王位の正当な継承者と見なし続けた。現代のジョージアの君主主義者たちは、王太子ダヴィトおよびその弟イオアネを、ギオルギ12世の死後のジョージア王位請求者と見なしている。1865年、ロシア帝国政府はギオルギ12世の次男イオアネの孫にあたるイヴァネ・グルジンスキに対し、「グルジンスキー公爵」(ジョージア公)の称号の使用を正式に認めた。
ギオルギ12世の家系は、現代においてもジョージア王位の請求権を持つグルジンスキ家として続いている。ギオルギ12世の第4王子バグラトの子孫であるヌグザル・バグラティオン=グルジンスキは、1984年から2025年まで、グルジンスキ家の当主としてジョージア王位の請求者であった。ヌグザルは、最後に戴冠したジョージアの王の最年長の直系卑属として、ジョージアの王位を主張した。しかし、1940年代以降、バグラティオニ王家の分家であるムフラニ家もジョージア王位を主張している。ムフラニ家によると、グルジンスキ家はロシア帝国による統治を認め、すべての王位請求権を放棄済みであるとしている。ヌグザルの死後、バグラティオニ王家の宗主は、ヌグザルの娘アナ・バグラティオン=グルジンスキと、ムフラニ家の当主ダヴィトの間で争われた。アナとダヴィトは2011年に結婚しており、息子ギオルギをもうけた。
人物像
ギオルギ12世が継承したカルトリ=カヘティ王国は、数世紀にわたってイスラム教徒の侵攻を受け続け、地域全体が荒廃した状況であった。カルトリ=カヘティの社会および経済は、悲惨な状態に置かれていた。複数の歴史学的な見解によれば、ギオルギ12世は無能な君主であり、王国の差し迫った危機に対処できなかった。イギリスの歴史家ドナルド・レイフィールドは、もしエレクレ2世の後継者が有能な人物であり、内部の分裂に的確に対応をできていたのであれば、ジョージアは再統一されていた可能性があると述べている。そして、その統一ジョージアは、フランス帝国、オスマン帝国、ロシア帝国と同盟を結んだ、コーカサスにおける強力な単一の国家となっていただろうと推論している[99]。
ギオルギ12世は肥満体で、大食漢で、怠惰で、しばしば短気な性格を見せた[25]。ギオルギ12世は浮腫を患っており、移動が困難であった。この身体的状況は、ギオルギ12世の人気の低さにつながった[41]。ギオルギ12世は内政にはほとんど関心を示さず、ロシアとの外交計画にほぼ専念した。1957年、イギリスの歴史家デイヴィッド・マーシャル・ラングは次のように記している[25]。
彼には、当時の状況下で国を率いるために必要な資質が欠けていた。食通として名を馳せたギオルギは、高齢による肥満のため、軍司令官として活躍することができなかった。王が軍隊を率いて戦闘に臨む慣習のあった王国において、これは深刻な欠点であった。
ギオルギ12世の無能さは、当時の外国の観察者も指摘していた。テヘラン駐在のイギリス大使ジョン・マルコムは、ギオルギ12世を「権力を集中させることができない君主」と評した[35]。ギオルギ12世の資質の欠如は、即位前から明らかであった。王位継承者としてのギオルギ12世は、兄弟たちの権力に対抗できないことが多かった。クルツァニシの戦いでは、父エレクレ2世を援護せず、シグナギ要塞に留まり続けた。ギオルギ12世の息子であるダヴィトとイオアネ王子がトビリシで大隊を率いていた。一方ギオルギ12世は、自身の軍の農民兵たちを説得することすら失敗した。ギオルギ12世は、ペルシアの侵略者から王国を守るためにブドウ園での収穫作業を切り上げて従軍するよう求めたが、農民兵たちはこれに応じなかった[100]。
同年代の年代記作家パプナ・オルベリアニは、ギオルギ12世に対して、より好意的な記述を残している[30]。
幼少の頃から敬虔な信仰心を持ち、教会の奉仕者を非常に尊敬し、未亡人や孤児を保護し、あらゆる美徳に恵まれ、司法においては大貴族も小貴族も彼の前では平等であった。