デリングドゥ

From Wikipedia, the free encyclopedia

欧字表記 Derring-Do
性別
デリングドゥ
欧字表記 Derring-Do
品種 サラブレッド
性別
毛色 鹿毛
生誕 1961年
死没 1978年
Darius
Sipsey Bridge
母の父 Abernant
生国 イギリスの旗 イギリス
生産牧場 Burton Agnes Stud
馬主 Mrs H Renshaw
調教師 Arthur Budgett
競走成績
生涯成績 14戦6勝
勝ち鞍 Imperial Stakes (1963)
コーンウォリスS (1963)
ハンガーフォードS (1964)
ヴォルドーS (1965)
クイーンエリザベス2世S (1965)
テンプレートを表示

デリングドゥ(Derring-Do)(1961年 - 1978年1月)は、イギリス産のサラブレッドである。1963年に2歳戦のコーンウォリスステークスなどを3勝し、この年のイギリス2歳馬のトップクラスの1頭となった。その後2年に渡り、イギリスの7ハロン(約1408メートル)から10ハロン(約2011メートル)の距離で活躍し、クイーンエリザベス2世ステークスハンガーフォードステークスヴォルドーステークスなどに勝った。4歳の終わりに引退し、種牡馬として成功した。

デリングドゥは東ヨークシャー(East Yorkshire)[注 1]のバートン・アグネス(Burton Agnes)にある牧場で生まれた。白斑のない鹿毛馬である。父のダライアス(Darius)は1954年の2000ギニーと1955年のエクリプスステークスの優勝馬である。ダライアスの代表産駒にはオークス馬のパイア(Pia)やフランス1000ギニー優勝馬のポーラベラ(Pola Bella)がいる。デリングドゥの母は下級戦で2勝したシプシーブリッジ(Sipsey Bridge)といい、三代母ニアリー(Nearly)の子孫には2000ギニー勝馬のドユーン(Doyoun)やオークス馬アレクサンドロヴァ(Alexandrova)がいる。[1]

1歳の時に、H・レンショー夫人(Mrs H Renshaw)の代理人がデリングドゥを1200ギニーで購買した[2]。デリングドゥはオックスフォードシャーのワトコム(Whatcombe)に厩舎を持つアーサー・バジェット(Arthur Budgett)調教師に預けられた[3]。デリングドゥの主戦騎手はオーストラリア出身のアーサー・"スコービー"・ブリースリー騎手(Scobie Breasley)である。

競走馬時代

2歳時(1963年)

デリングドゥのデビュー戦はサンダウン競馬場のナショナルステークス(5ハロン≒1005メートル)である。デリングドゥは2着に敗れたが、勝ったアイルランド牝馬のプールパーラー(Pourparler)は翌年の1000ギニーに優勝する馬だった。次戦はケンプトン競馬場のインペリアルステークス(6ハロン≒1206メートル)で、ホイスリングブイ(Whistling Buoy)を破って優勝した。2歳最後のレースはケンプトン競馬場で9月に行われたコーンウォリスステークス(5ハロン≒1005メートル)である。ブリースリー騎手を背に、8対13(2.625倍)の人気で出走したデリングドゥは牝馬のゴールデンアポロ(Golden Apollo)を僅差で破って優勝した[4]

3歳時(1964年)

デリングドゥは1964年(3歳時)には5回出走した。7月にグッドウッド競馬場サセックスステークスでは、ローンロケット(Roan Rocket)に次ぐ2着になった。そのあとデリングドゥはニューベリー競馬場ハンガーフォードステークス(7ハロン≒1408メートル)に2対1(3倍)の人気で出て、この年の唯一の勝利を上げた[4]。9月にはアスコット競馬場クイーンエリザベス2世ステークスに出走し、アイルランドのリネカー(Linacre)に次ぐ2着になった[2]

4歳時(1965年)

4歳時、デリングドゥは6戦3勝の成績をあげた。サンダウン競馬場のキャヴェンディッシュステークス(Cavendish Stakes)に勝ち、フランスのドーヴィル競馬場のクインシー賞(Prix Quincey)で3着になった(勝馬はホワイトファイア(White Fire))。9月にはグッドウッド競馬場のヴォルドーステークス(10ハロン≒2011メートル)に4対11(1.36倍)の人気で勝った[4]。1か月後、クイーンエリザベス2世ステークスに2度めの挑戦をした[3]。いつものようにブリースリー騎手が乗り、9対4(3.25倍)の人気で、バリシピティク(Ballyciptic)とマイナーポーション(Minor Portion)を退けて優勝した。

評価

デリングドゥは1963年(2歳時)のタイムフォーム誌による評価で131ポンドを与えられた。これは首位のサンタクロースとショウダウン(Showdown)より2ポンド低い。一方、イギリスで走った馬だけが対象のフリーハンデでは首位のタラハッシー(Tallahassee)から3ポンド下の130ポンドと評価された[5][注 2]

種牡馬時代

血統

脚注

Related Articles

Wikiwand AI