トクト (忠順王)
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明朝の記録によると、トクトは先代ハミル君主エンケ・テムルの甥(=エンケ・テムルの兄のグナシリの息子)で、幼い頃捕虜となって明朝に連れてこられたという。即位した永楽帝はトクトを自らのケシクで養い、後にトクトをハミルの王位につけることでハミルへの影響力を強化しようとした[1]。永楽帝は明朝より送り込まれたトクトがハミルで受け容れられないことを恐れ、事前にトクトの祖母のスゲシリ(速可失里)やハミルの有力者に使者を派遣してトクトの存在を通告していた。そして永楽3年(1405年)、それまでハミルを統治していた忠順王エンケ・テムル(トクトの叔父)が亡くなったとの報告が届くと、満を持して永楽帝はトクトをハミルに送り込み、「忠順王」の称号を与えた[2]。忠順王となったトクトは早速同年中に返礼の使者を派遣している[3]。
しかしトクトは永楽帝の薫陶を受けながら王者としては不適格な人物であったようで、即位直後からハミルの人々から拒絶を受けた。永楽4年(1406年)初、永楽帝の下にトクトがその祖母のスゲシリから追放されたことが報告された。この報告を聞いた永楽帝はトクトの過失を認めつつも、スゲシリらが明朝の立てた王を追放したことを強く非難し、再びトクトをハミル王として受け容れるよう宣告した[4]。更にトクトによるハミル統治を安定させるため、永楽帝はこの時始めて哈密衛を設置し、マフムード・ホージャ(馬哈麻火者)を鎮撫とし、ハッジ・マフムード(哈只馬哈麻)とし、また漢人の辜思誠・周安・劉行らにも官職を授け、トクトを輔弼させた[5]。
このような永楽帝の対応を受けて、同年半ばにスゲシリとハミルの有力者たちは永楽帝に使者を派遣して謝罪し、再びトクトを王として受け容れた[6]。この後、トクトの要請に従ってアリー(阿里)ら19人に哈密衛の官職が新たに授けられ[7]、トクトとスゲシリによるハミル統治が復活した[8][9]。
永楽5年(1407年)には、西方のティムール朝に亡命していたオルジェイ・テムルが東方に帰還し、ハミルでオルク・テムル・ハーンの勢力を接触していた[10]。同年、再びトクトに不満を抱いたルーシャン(陸十)らが叛乱を起こした。トクトはこの叛乱を鎮圧しルーシャンを殺害したが、この内乱に乗じて外部の勢力が侵入することを恐れて明朝に援軍を要請した。実際、この頃先代君主エンケ・テムルの妻子が北元のオルク・テムル・ハーンの下に亡命しており、オルク・テムル・ハーンの介入を恐れた永楽帝はトクトの要請に従って援軍を派遣した[11]。
これ以後、トクトは永楽7年(1409年)まで、定期的に明朝に使者を派遣した[12][13][14][15]。また、永楽6年(1408年)にはモンゴル高原への帰還を狙うオルジェイ・テムルの動向を探るよう永楽帝より指令を受けている[16]。
永楽8年(1410年)、トクトが酒に溺れ明朝の使者を凌辱した上、部下の諫言も聞かないとの報告がもたらされたため、永楽帝は指揮のムーサー(毋撒)をハミルに派遣した[17]。永楽9年(1411年)、ハミルから帰還したムーサーがトクトが急病によって亡くなった事を報告し、間もなくハミルからもナスールデッィーン(那速児丁)が派遣されて正式にトクトの死が報ぜられた[18]。トクトの死後、トクトの従兄弟でエンケ・テムルの息子のメンリ・テムルが後を継ぎ、忠順王として哈密衛を統治した。