メンリ・テムル
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永楽9年(1411年)、哈密忠順王トクトが亡くなると、トクトの従兄弟でエンケ・テムルの息子のメンリ・テムルが後を継ぎ、永楽帝より新たに哈密忠義王に封ぜられた。この際の永楽帝の発言によると、暴虐な人柄であった先代哈密王トクトに比べメンリ・テムルは誠実な人柄で、周囲に推戴されてハミル君主になったという。「忠義王位」とはメンリ・テムルのため新たに増設された王位で、これ以後ハミルではトクトに始まる「忠順王位」とメンリ・テムルに始まる「忠義王位」が並存することとなる[1]。
永楽10年(1412年)にはアドル・ホージャ(阿都児火者)を明朝に派遣して朝貢を行った[2]。この時僧綱司を設置することを永楽帝に請願し、許されている[3]。永楽11年(1413年)にも朝貢を行い、年末にはメンリ・テムル及び先代君主トクトの母親に下賜品が与えられている[4]。これ以後、永楽18年(1420年)まで定期的に明朝への朝貢が続く。
永楽19年(1421年)に入ると、ハミルはドルベン・オイラト(オイラト部族連合)の攻撃を受けるようになる[5]。この頃、ドルベン・オイラトではチョロース部の順寧王マフムードとダルバク・ハーンが相継いで亡くなり、彼等に代わってケレヌート部の賢義王タイピンとオイラダイ・ハーンらが実権を握るようになっており、ハミル侵攻も賢義王タイピンが主導して行われたものであった。これに対しメンリ・テムルは永楽帝に救援を要請し[6][7]、永楽帝の仲裁を受けて賢義王タイピンは謝罪の使者を派遣した[8]。
永楽22年(1424年)、永楽帝が死去して洪熙帝が即位して以後もメンリ・テムルは朝貢を続けた[9][10][11]が、宣徳元年(1426年)に入って亡くなった。即位したばかりの宣徳帝は先代君主トクトが元々「忠順王」であったこと、またトクトの息子のブダシリが成長していることを考慮し、ブダシリを哈密忠順王に封じることを通達した[12]。