アジャシュリ

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アジャシュリモンゴル語: Aǰaširi、生没年不詳)は、チンギス・カンの弟のテムゲ・オッチギンの子孫で、元末明初に活躍したモンゴル帝国の皇族。朝に一時的に降伏してウリヤンハイ三衛の一つ泰寧衛指揮使に任ぜられ、泰寧衛の創始者となった。『明実録』では阿札失里と漢字表記される。

元明交代期

アジャシュリの来歴は不明であるが、元末明初期にオッチギン家の当主であったヤナシュリの近親者(あるいは息子)であったと見られる。

北元時代初期、明朝の攻撃によって北元が領土を失っていく中でも、ヤナシュリ・アジャシュリ率いるオッチギン王家はモンゴルのハーンに仕え続けており、ヤナシュリはハーン配下の有力諸侯の一人として知られていた。1380年代、北元の中で最も有力な勢力は遼東に蟠踞するジャライル部のナガチュであったが、ウスハル・ハーン(天元帝トグス・テムル)はナガチュを制御することができず、他の有力臣下であるカラジャン・マンジ・ヤナシュリらも互いに猜疑心を抱いており北元政権は不安定な状態にあった。そのため、胡昱洪武帝に対して明軍をハーンに向ければ、一挙にこれを捕らえることができるであろう、と進言している[1]

明朝への投降

洪武21年(1388年)4月、藍玉率いる明軍がブイル・ノールの戦いでウスハル・ハーン率いるモンゴル軍を撃ち破り、ウスハル・ハーンが敗走中にイェスデルによって殺されると、アジャシュリ配下の部衆は明軍からの攻撃に晒されるようになってしまった。同年8月にはアジャシュリの臣下49人が明朝に投降する事件が起き[2]、もはや現状維持は不可能であると見たアジャシュリは洪武22年(1389年)に配下のタビン・テムルを派遣し、明朝に降伏した[3]。後に永楽帝はこの間の事情を「韃靼(ハーン率いる部族連合)の掠奪によって安定した生活が送れなかったため、明朝に帰順した」とも述べている[4]

洪武22年(1389年)5月、洪武帝は降伏したアジャシュリらに対し、使者を派遣して明朝への降伏を称えた上で、アジャシュリの率いる勢力を3つの衛所に分割し、それぞれを泰寧衛朶顔衛福余衛と名付けた。その上でタビン・テムルを泰寧衛指揮同知に、トルクチャルを朶顔衛指揮同知に、海撒男答渓を福余衛指揮同知とし、アジャシュリをこれらより一段上の泰寧衛指揮使に任じた[5]。泰寧衛は後世モンゴル人より「オンリュート」(Ongliγud、「王に従うものたち」の意)と呼ばれていたが、これは「遼王」を称するアジャシュリとその一族が泰寧衛を支配していたためと考えられている。また、この時に洪武帝よりアジャシュリにもたらされた詔書はモンゴル語で記されており、モンゴル語の漢字転写・漢訳が「詔阿札失里」として『華夷訳語』に収められて『元朝秘史』と同様に明朝のモンゴル語学習テキストとして用いられた。

明朝からの離反

しかしウスハル・ハーン死後の混乱が収まってくると一度はやむなく明朝に降伏したモンゴルの領侯達の多くは明朝に叛旗を翻すようになり、アジャシュリもまた明朝への侵攻を繰り返した。このようなアジャシュリの行動に対し、洪武帝は傅友徳・郭英らにドヤン山に駐屯するアジャシュリを攻撃するよう命じ、洪武24年(1391年)5月-7月にかけて明軍はノーン河流域のウリヤンハイ三衛を攻撃した[6]

更に洪武25年(1392年)、周興がモンゴル北部のウルジャ川オノン川方面に遠征に出た際には、その帰路においてアジャシュリを招諭している[7]。この時、周興はオイラトのアンダ・ナガチュを討伐した帰りであったため、あるいはアジャシュリは西方のオイラトと連携を図っていたのではないかと推定されている[8]。しかし、これ以後モンゴル高原は極度の混乱状態に陥ってほとんど動向が分からなくなり、アジャシュリの動向も明朝側に伝わらなくなる。

15世紀以後

15世紀初、靖難の変を経て即位した永楽帝1403年(永楽元年)に三衛に使者を派遣したが、この時泰衡の代表として都督に任命されたのは忽剌班胡なる人物であった[9][10]。忽剌班胡の出自は全く不明であるが、三衛の首領の中で最も下位として名を挙げられており、少なくとも遼王家(オッチギン家)にかかる高貴な出自ではなかったようである[10]。恐らく、アジャシュリとその一族は洪武25年より引き続いて明朝と敵対的な立場にあったために永楽帝から公認されず、アジャシュリよりも地位は低いが明朝に従順な忽剌班胡に官職が与えられたものと推定されている[11]

一方で、洪武25年から20年以上の時を経て、1415年(永楽13年)12月に「アルクタイ所部」の都督僉事「阿者失里(=アジャシュリ)」が明朝に使者を派遣したとの記録がある[12][10]。このころ、三衛はモンゴル高原東部を統べるアルクタイと協力関係にあり、1410年(永楽8年)にアルクタイが永楽帝の親征軍に敗れた時には、三衛に逃れたとの記録がある [13]。敗戦によって弱体化したアルクタイは 1413年(永楽11年)に明朝に降って和寧王に封ぜられており、この縁によって アジャシュリもまた明朝との交流を再開させたのではないか、と推定されている[13]1417年(永楽15年)6月にも「兀良哈泰寧・朶顔等衛都督」の阿者失里が息子のサイン・ブカ(賽因不花/Sayin buqa)を派遣したとの記録があるが[14]、これ以後再びアジャシュリについての記録は途絶える[13]。なお、後述のように同じ1410年代に活動した「泰寧衛都督阿只罕」がアジャシュリと同一人物ではないかとする説がある[15]

泰寧衛都督「阿只罕」

上述の通り、永楽年間初頭には忽剌班胡という人物が泰寧衛の代表として永楽帝より公認されていたが、1410年代からは阿只罕という人物が三衛の代表として登場する。1413年(永楽11年)9月に始めて明朝に朝貢した際には三衛の首領の中で筆頭として名を挙げられており[16]、少なくとも忽剌班胡よりは地位の高い人物であったことが窺える[10]。続いて、1419年(永楽17年)12月には指揮の阿剌哈ら68人を派遣して朝貢を行っている[17]

北元史研究の先駆者である和田清は、「阿只罕」と「阿者失里」が同時期に史料上に登場すること、またいずれも三衛の首領の中で最高位に位置づけられることなどから、両者が同人物ではないかと推定した[15]。しかし、名称の前半部分は類似するが全体で見ると同じ名前とは言い難いこと、両者が同一人物であると断言できる史料が存在しないことなどから、この説については懐疑的な立場の研究者も多い[13]

一方、永楽年間の朝貢を通じて阿只罕の家族構成について『明実録』に多くの記録が残されている。まず、1421年(永楽19年)正月の朝貢では弟の哈剌孩と子の者赤を派遣しており、両者はそれぞれ都指揮僉事と指揮使に任命されている[18]。また、1425年(洪熙元年)7月には阿只罕の妻「歪剌失里」が自ら来して明側に馬を献上したと記録されている[19]

しかし、1431年(宣徳6年)8月には阿只罕の息子で指揮僉事であったトゴチ(脱火赤)が地位を継承しており[20]、この頃には地位を退いたようである[10]。さらに、1433年(宣徳8年)5月にはトゴチも早くに死去したため、弟のジョチが跡を継いで都督僉事に任じられた[21][10]。これ以後の泰寧衛首領の家系は不明な点も多いが、15世紀後半に活躍するウネ・テムルは劉王(=遼王の誤記)を称しており、遼王アジャシュリの子孫ではないかと推定されている。

親族

ここでは、「阿者失里」と「阿只罕」を同一人物と仮定して、両者の親族を列挙する。

サイン・ブカ(賽因不花)

先述の通り、1417年(永楽15年)6月に「阿者失里」が派遣した息子として名が挙げられる。この記事以外では言及されず、生没年やどのような地位にあったかも不明である。

トゴチ(脱火赤)

1427年(宣徳2年)10月に初見する人物で、1431年(宣徳6年)8月に「阿者罕子脱火赤襲職」と記録されることから、「阿者罕」の息子でその地位を継承したことが分かる[13]。しかし、当時三衛を勢力下に置いていたアルクタイと対立したためか、早くに引退し弟のジョチに地位を譲った[13]。都指揮使の地位にあったテギン(討勤)という息子もいた[13]

ジョチ(拙赤)

1433年(宣徳8年)10月に初見する人物であるが、前述の通り兄のトゴチに代わって泰寧衛で最高位の人物となり、正統年間中は都指揮同知のゲゲン・テムル(隔干帖木児)や都指揮僉事のコルチタイ(火児赤台)よりも上位の人物として明側の史料に現れる[13]。オイラトのエセンと姻戚関係を結んで勢力を強化し、その治世は泰寧衛の全盛期とも評されるが、最後にはエセンの攻撃を受けて殺されるに至った[22]

シネ・テムル(失南帖木児)

1436年(正統元年)より「阿者罕の子」の「失連帖木児」という人物が史料上で登場するようになり、この人物は「失南帖木児」「失念帖木児」とも表記される[22]。「失連」と「失念・失南」では音が違うようであるが、モンゴル語名を漢字転写する際にL音とN音が混同される(ölǰiei→完沢、altan→按灘)のはよくある事例のため、いずれもŠine temürという名前の転写とみられる[23]

カラハイ(哈剌孩)

先述の通り、1421年(永楽19年)より「阿只罕」の弟として登場し、トゴチ・ジョチ兄弟としばしば名を連ねて登場する[10]。ナガチュ(納哈出)という息子がおり、史料上では「灰王」ナガチュと呼ばれることもある[10]

速満答児

アルクタイの息子のホルフダスンに嫁いだ速満答児という女性がいるが、この人物は1437年(正統2年)・1438年(正統3年)に三衛の首領とともに明朝から下賜を受けたとの記録がある[13]。このため、速満答児は三衛の首領の娘ではないかと考えられており、李艶潔は阿只罕の娘ではないかと推定している[13]

オッチギン王家

脚注

参考文献

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