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ドミンゴ・マルティネス

ドミニカ共和国の野球選手 (1965 - ) From Wikipedia, the free encyclopedia

ドミンゴ・エミリオ・マルティネス・ラフォンタイン(Domingo Emilio Martínez Lafontaine、1965年8月4日 - )は、ドミニカ共和国・サントドミンゴ出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)。

生年月日 (1965-08-04) 1965年8月4日(61歳)
身長
体重
6' 1" =約185.4 cm
225 lb =約102.1 kg
概要 基本情報, 国籍 ...
ドミンゴ・マルティネス
Domingo Martínez
トロント・ブルージェイズ時代
(1988年)
基本情報
国籍 ドミニカ共和国の旗 ドミニカ共和国
出身地 首都地区サントドミンゴ
生年月日 (1965-08-04) 1965年8月4日(61歳)
身長
体重
6' 1" =約185.4 cm
225 lb =約102.1 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 一塁手、左翼手
プロ入り 1984年 アマチュアFA
初出場 MLB / 1992年9月11日
NPB / 1997年4月5日
最終出場 MLB / 1993年10月3日
NPB / 2001年9月27日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
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NPBでは1997年から1998年まで西武ライオンズ、1999年から2001年まで読売ジャイアンツ(巨人)でプレー[1]。西武時代は2年連続で30本塁打以上を記録して、チームのパシフィック・リーグ優勝に[2][3]、巨人時代も2000年のセントラル・リーグ優勝と、日本シリーズ優勝にそれぞれ貢献した。NPBにおける5年間の通算成績は、538試合出場、1696打数、497安打、打率.293、104本塁打[1]、350打点[4]。なお、西武入団当初はドミンゴ・マルチネスと表記されていた[5][6][7]。

2006年から、中日ドラゴンズで外国人選手のスカウトを担当している。

愛称はマルちゃん。西武時代は年齢を2歳若くサバ読みしていた[8]。

経歴

来日前はトロント・ブルージェイズ時代にメジャー経験がわずかにあったが、ほとんどはマイナーリーグAAA級でプレーしており、1992年にはAAA級シラキュース時代に21本塁打を記録した一方で、1990年にブルージェイズAA級ノックスビル時代に、シーズン24個の失策数1位を記録していた[9]。西武入団直前の1996年11月時点ではボルティモア・オリオールズに在籍していた[9]。

西武時代

1996年12月18日に、新外国人として西武ライオンズへの入団が発表された[5][6]。年俸8000万円の1年契約で、背番号は60[6][7]。入団当初は5番打者・一塁手としての起用が見込まれており[5]、同年限りでフリーエージェント (FA) の権利を行使して読売ジャイアンツ(巨人)へ移籍した清原和博に代わり、一塁手として中軸を打てる選手と期待された[9]。

1997年は開幕戦こそ無安打であったものの、第2戦には初本塁打を放つ。幸先のいいスタートを切ったかに見えたが、キャンプ・オープン戦でも、不安視されていた守備面を気にしすぎるあまり打撃に影響が出てしまい、4月27日には平凡なフライを落球したことによって、以後は優勝が決まるまですべて指名打者 (DH) での出場となった。しかし、4月下旬にマルティネスの妻子が来日し、ポジションも5番・DHに固定されると自慢の打力が目を覚まし、勝負強い打撃でチームを牽引した。「マルちゃん」のニックネームをつけられてチームの人気者となり、打席に入ると観客席から「マルちゃん」コールが入った。1997年にはDHとして、打率.305、31本塁打、108打点と西武打線の中核として活躍し、エースである西口文也とともに、西武のパシフィック・リーグ優勝の原動力となった[10]。またベストナインに選出されている。しかし、ヤクルトスワローズとの日本シリーズでは、共にクリーンナップを打っていた、髙木大成、鈴木健と守れるポジションが重なり、左翼手としての出場も検討されたが、あまりの守備の酷さに西武首脳陣は断念したという。このシリーズではヤクルトの投手陣からの厳しいマークを受け、16打数3安打と不振に終わった[11]。特に、第1戦から第2戦では、相手捕手である古田敦也のリードに翻弄され、通算9打数1安打、打率.111とかなりの不振に陥っており、第3戦からの明治神宮野球場では、セ・リーグの主催試合であるためにDH制がなく、日ごろは守備に就いていないマルティネスを先発出場させる場合は、一塁で起用しなければならないためにスターティングメンバーを外された[10]。同年10月24日、翌1998年シーズンも西武に残留することが発表された[12][13]。

1998年は、ほぼすべての試合にDHで出場した。ただし、同年9月8日の対オリックス・ブルーウェーブ19回戦(グリーンスタジアム神戸)では、11回裏の守備で捕手の中嶋聡がベースカバーの際に足を負傷し、一塁を守っていた髙木大成が急遽捕手に就いたため、代わってDHに入っていたマルティネスが一塁の守備に就くことになった[14]。同シーズンは133試合に出場して打率.283、30本塁打、95打点を記録し[15]、本塁打・打点の2部門でチーム二冠王となり、2年連続のパ・リーグ優勝に貢献した[3]。しかし、後半戦は膝の不安による打撃不振が目立った[3]。同年のオールスターゲーム以降は不振が続き、ペンバートンに4番の座を明け渡した[11]。横浜ベイスターズとの日本シリーズでは、DH制のない横浜主催試合の、第1、2、6戦(横浜スタジアム)では、すべて代打での出場であった[16][17][18]。本拠地の西武ドームで開催された第4戦ではDHとして先発出場し、6回裏に野村弘樹からシリーズ9打席目で初安打、そして決勝打となる2点本塁打を放ったが[19]、シリーズを通して打った安打はその本塁打のみに終わり[3]、チームも横浜に2勝4敗で敗退した。本人は代理人を通じ、来季は体重を10 kg減量し、膝の強化を約束するとして残留を希望しており、営業面でもファンから親しまれ、手放しがたい部分があったため[20]、球団オーナーの堤義明や球団社長の小野賢二らフロントは、マルティネスの解雇に反対していたが、日本シリーズ終了後の同年11月に開催されたスタッフ会議では、DH制に制限のある日本シリーズで使いにくいこと、松井稼頭央に続く打力と足を兼ね備えた選手の育成には、マルティネスの存在が障害になることなどから、ヘッドコーチの須藤豊ら一部のコーチ陣がマルティネスは不要であると主張した。最終的には監督の東尾修が解雇を決断した[21][22]。マルティネスに代わる新外国人が日本に適応できるかを見極めるまでは、マルティネスを保有しておくという「保険案」も却下され[21]、前述の事情に加えて、右足の故障などから、当時の西武のチームカラーであった「走る野球」に対応できなくなったこともあり[2]、シリーズ終了後の同年11月19日、西武から来季の契約を結ばないことが発表された[3]。しかし、1999年にマルティネスに代わって、西武に入団したアーキー・シアンフロッコとグレッグ・ブロッサーが揃って期待外れに終わり[23]、4番を担った鈴木健も、打率.261、13本塁打と、巨人で83試合に出場して16本塁打、打率.324の成績を残したマルティネスよりも低調な結果に終わり、チームはリーグ3連覇を逃した[24]。2000年に入団したトニー・フェルナンデスは、打率こそ.327を記録したが、本塁打は11本と長打が期待できず、西武は2001年に、アレックス・カブレラ、スコット・マクレーンが入団するまでは、長距離打者不在に悩まされた。

普段は温厚な性格であるが、1998年5月19日の日本ハムファイターズ戦(東京ドーム)において、芝草宇宙からデッドボールを受けると激昂して芝草に突進して乱闘を起こし、暴力行為で退場処分を受けた。これはマルティネスが打席に入る前に、日本ハムベンチにいたジェリー・ブルックスとナイジェル・ウィルソンから「今度は(死球)行くぞ」「ぶつけろ」という内容の野次を英語で浴びせられ、実際に死球を受けたことで感情が一気にたかぶったとされており、試合後に監督の東尾修は「普段おとなしくて温厚なマルちゃんがあれだけ怒るんだから、ひどいことを言われたんだよ」とコメントしている[25]。車を持っていなかったために、ホームゲームでは西武ライオンズ球場に西武鉄道で電車通勤をしていた。

好調時と不調時のフォームをビデオで熱心に見比べており[26]、当時の西武打撃コーチであった土井正博は、「こんな研究熱心な外国人選手は珍しい」と語った[26]。

巨人時代

西武退団後の翌1999年は、リーガ・メヒカーナ・デ・ベイスボルでプレーしていたが[27]、打線の迫力不足に悩んでいた巨人がシーズン途中の5月27日に獲得を発表し[28]、6月4日に入団会見が行われた[29](同年の巨人は、当初は「純国産打線」を方針に掲げていたために、外国人野手を一切獲得していなかった)。当時の巨人は、広澤克実や清原といった右打ちの強打者が相次いで故障したために、右の代打が手薄になっていたことから、マルティネスの長打力と勝負強さに注目して獲得に乗り出したものである[30]。入団当初は、代打で7打席無安打であったものの、同年6月19日の対阪神タイガース戦(東京ドーム)にレフトでスタメン起用されると、ダレル・メイから2打席連続本塁打を放つなどの活躍を見せた。これをきっかけに、同年は不振と故障に喘いだ清原に代わって、4番・ファーストに入ることも多かった。レフトでのスタメン起用については、試合前に長嶋監督の直感で急に決まったものであり、試合前の練習機会すらない起用であった[31]。また、メジャー・マイナーを通じて、外野は2試合しか守ったことがなかった。

7月10日の対広島戦で、満塁の場面で左翼ポール際の本塁打かファウルかという大飛球を打った際に、本塁ベース上で小首を傾げ、右手をまるで招き猫のようなポーズをとって打球の行方を見ていた。本塁打と判定されて、ヘルメットがずり落ちるほどにガッツポーズをとった。このシーンは同年の珍プレーで度々放送された。また、この場面が写った野球カードもある。

2000年も、前半は負傷の清原の穴を埋め、ミレニアム打線の5番打者として定着し、6月終了時点で17本塁打を放っていたが、清原が復帰すると間もなくベンチ要員となり、自身も下降線を辿って7月以降の本塁打は0であった。同年のオールスターゲームにファン投票で初選出されるも、出場を辞退した[32]。

翌2001年は、清原が故障から復調したために、主に代打要員として起用されたが[4]、81試合の出場にとどまった[1]。同年オフに長嶋茂雄に代わって新監督に就任した原辰徳の戦力構想から外れ、球団から戦力外通告を受けた[1]。

現役引退後

現役引退後はスカウトに転身すると、2006年に中日ドラゴンズの国際スカウトに就任した。西武時代にコーチであった森繁和の要望でもあった。森も中日コーチになってからは、ドミニカに渡って外国人選手の調査などをしており、マルティネスが加わったことで現地出身の選手を多く輩出している[33]。なお、森がチームを一旦去った2012年と2013年も、マルティネスは中日に残ってスカウトを続けており、実際に2012年オフにドミニカ出身のエクトル・ルナを獲得している。

人物

山田哲人の幼少期の憧れは、巨人時代のマルティネスであったとされる[34]。

巨人時代は清原とのレギュラー争いを各マスコミが煽ったが、マルティネスは「私は代打でもいいし、清原選手が代打で、自分がスタメンでもいい。それは監督が考えて使うこと」「個人の記録は関係ない。優勝のために全力を尽くすだけ」と大人の対応をしていた[35]。

スカウトに就任してからは、トニ・ブランコ、エクトル・ルナといった有望な選手を発掘しており、「日本のプロ野球の練習は本当にきつい。ドミニカ人が適応するにはメンタルの強さが必要だ。そういう選手を探し出している」という言葉を残している[36]。

2019年4月にフルカウントのインタビューに応じ、「日本最終年の2001年以来行っていないんだ。機会があれば是非また行きたいね」と語っている。日本に居た時代にすごいと思った投手は、上原浩治、西口文也、工藤公康という。すごいと思った打者に、鈴木健、松井秀喜、高橋由伸、江藤智、前田智徳、緒方孝市の名前を挙げている[37]。

詳細情報

年度別打撃成績

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年

度
球

団
試

合
打

席
打

数
得

点
安

打
二
塁
打
三
塁
打
本
塁
打
塁

打
打

点
盗

塁
盗
塁
死
犠

打
犠

飛
四

球
敬

遠
死

球
三

振
併
殺
打
打

率
出
塁
率
長
打
率
O
P
S
1992 TOR 7882500183000000010.625.6251.0001.625
1993 815142400173000010070.286.333.500.833
1997 西武 13055848863149241312681083005619410318.305.384.549.933
1998 1335634916513916130247954408596510121.283.361.503.864
1999 巨人 8329126231851401614756100224135512.324.385.561.946
2000 11134832042921611716164000421336512.288.333.503.836
2001 8114713513326010682710021020376.237.286.504.789
MLB:2年 15232249002156000010080.409.435.6821.117
NPB:5年 5381907169621449776310489135094021175211536169.293.360.525.886
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年度別守備成績

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年
度
球
団
一塁(1B)三塁(3B)
試

合
刺

殺
補

殺
失

策
併

殺
守
備
率
試

合
刺

殺
補

殺
失

策
併

殺
守
備
率
1992 TOR 7120021.000-
1993 7254021.00010000----
MLB 14374041.00010000----
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表彰

記録

NPB

背番号

  • 19 (1992年)
  • 5 (1993年)
  • 60 (1997年 - 1998年)
  • 48 (1999年 - 2001年)

脚注

関連項目

外部リンク

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