招き猫

商売繁盛の縁起物とされている猫の置物 From Wikipedia, the free encyclopedia

招き猫(まねきねこ)は、前足で人を招くの形の置物

右足上げの招き猫
左足上げの招き猫

猫は農作物やを食べるネズミを駆除するため、古くは養蚕縁起物でもあったが、養蚕が衰退してからは商売繁盛の縁起物とされている。

概要

招き猫の色は従来白または黒が主流だったが、近年は風水ブームの影響もあり各種の色が見られる[1]。それぞれの色に意味付けを行い、得られる御利益も異なるとすることも多い。白、または白地に三毛猫の斑が入るものは汎用の「開運招福」。黒猫は夜目が利くことを買われたのか「厄除安全」[注釈 1]檀王法林寺(京都市左京区)の主夜神尊のお使いでもある。金色は「金運満足」。赤は「健康長寿」。疱瘡神が嫌う色だとされていたことから。ピンクは「恋愛成就」。黄色は「金運繁栄」。風水では黄色は金運を呼ぶ色であり、また五行説では黄色はを表し、土は金を生むことから[2]

福の字が逆さまに書かれていることがあるが、これは倒福を参照。

現在、招き猫の日本一の生産地は愛知県常滑市である。他の名産地としては同県瀬戸市があり、ともに主として陶器製である。ほかに群馬県高崎市近郊などで、特産の達磨と同様な製法で生産されている[注釈 2]。さらに近年はプラスチック製品なども登場し、今でも毎年数多くの招き猫が流通している。ソーラーパネルからの電力で実際に招く動作を繰り返す玩具なども製品化されている。

日本国外の招き猫

中国でも街角にて、手を振る機能を備えた、金色の招き猫を見ることがある。多くは左手に“千両小判”を持っている。台湾では1990年代の日本文化ブーム以来、日本と同じ型の招き猫を店先やレジスターの後ろなどに置いている店が多い。アメリカ合衆国ニューヨークの中国人街では招き猫はポピュラーな存在であり、レストランの入り口などに日本のものとほぼ同じ型の招き猫がよく置かれている。

招き猫はアメリカでも人気があり、お土産用や輸出用としても製作されている。これらは "welcome cat" や "lucky cat" と呼ばれる(特にドル硬貨を抱えたものを "dollar cat" と呼ぶ)。ただし、手の方向が日本と逆向きで、手の甲に当たる部分を前に向けている。これは手招きする手のジェスチャーが、日本とアメリカでは逆である[注釈 3]という文化の相違に起因する。

招き猫にちなんだもの

東急世田谷線車両内の招き猫型つり革
  • 和歌山電鐵貴志川線貴志駅では、招き猫になることを期待され、三毛猫の「たま」が駅長(のち、執行役員駅長)に任命されている。このたま駅長をモデルにして、愛知県瀬戸市の招き猫メーカーが制作した特製の招き猫が貴志駅に贈られており、これは乗降客の増加を願う意味から左手を上げる形となっている。
  • 成瀬善久投手東京ヤクルトスワローズ時代、その招き猫のような投げ方から、投球フォームに招き猫投法というニックネームをつけられた。
  • 常滑市の公式マスコットキャラクター「トコタン」は招き猫をモチーフとしている[3]

由来

浅草寺・浅草神社(丸〆猫)説

今戸焼 丸〆猫 嘉永安政風型
歌川広重「浄るり町繁花の図」(1852年)に見える丸〆猫の販売店(部分拡大)。

東京都台東区浅草寺及び浅草神社を発祥の地とする説がある。

この説は、江戸時代末期に浅草寺・浅草神社周辺で販売されていた招き猫「丸〆猫(まるしめのねこ)」の存在を根拠としている。丸〆猫は、今戸焼による今戸人形の一種であり、浅草神社の鳥居前において販売されていたことが、江戸時代の複数の文献から確認されている。

全国には「招き猫発祥の地」とされる神社仏閣が複数存在するが、その多くは伝承に基づくものであり、実物や史料による裏付けを欠いている。一方、丸〆猫は、江戸時代の複数の文献に加え、考古学的調査による出土品によって実在が確認されている最古の招き猫である。この点から、浅草寺・浅草神社は、招き猫の起源に関わる場所として位置づけられている。

嘉永5年(1852年)に記された『藤岡屋日記』には、「草随神門内三社権現鳥居際へ老女出て、今戸焼の猫をならべて商ふ、是を丸〆猫共、招き猫共いふなり」との記述があり、当時すでに「招き猫」という名称が用いられていたことが確認できる。

丸〆猫の形状は、江戸時代の今戸焼製の招き猫に特有な、横座りの姿勢で頭部を正面に向け、前脚で招く意匠を基本としており、伏せた姿勢で招く古い作例も確認されている。背面腰部付近には「〇」に「〆」の陽刻が施されており、これは「金銭や福徳を丸く勢〆(せしめ)る」という縁起担ぎの意味を持つ。

今戸神社説

東京都台東区今戸神社を発祥の地とする説がある。

この説は、浅草寺・浅草神社周辺で販売されていた今戸焼の招き猫について、その制作地である浅草今戸町との地縁と、招き猫誕生を語る伝承に着目したものとされる。江戸時代の地誌『武江年表嘉永5年(1852年)の条には、浅草花川戸に住んでいた老婆が、貧しさのために愛猫を手放したところ、その猫が夢枕に現れ、「自分の姿を人形にすれば福徳を授かる」と告げたという逸話が記されている。老婆はこの夢告に従い、猫の姿を今戸焼の人形として作り、浅草神社(三社様)鳥居脇で売ったところ評判になったとされる。この記述は、江戸時代に今戸焼の招き猫・丸〆猫が制作・流通していた事実と符合するとされる。

郷土玩具研究家・有坂与太郎は、今戸を招き猫の主要な生産地として挙げ、その隆盛が文化・文政年間以降であったことを指摘している。現在の今戸神社は、江戸時代に今戸焼の産地であった浅草今戸町の産土神である旧今戸八幡にあたり、この地縁的背景から、今戸神社今戸焼および招き猫の由来と結びつけて語られるようになった。

豪徳寺説

豪徳寺招猫殿脇の招福猫児

東京都世田谷区豪徳寺を発祥の地とする説がある[4]

江戸時代彦根藩第三代藩主井伊直孝が、鷹狩りの帰りに弘徳院という小寺の前を通りかかった[注釈 4]。この寺の和尚の飼い猫が門前で手招きするような仕草をしていたため、藩主一行は寺に立ち寄り休憩した。すると雷雨となり、雨に降られずに済んだことを喜んだ直孝は、寛永10年(1633年)、弘徳庵に多額の寄進をし井伊家の江戸の菩提寺と定め、弘徳庵は大寺院の豪徳寺となった[注釈 5][5]。歴代藩主や正室の墓所が所在する。

和尚はこの猫が死ぬと墓を建てて弔った。後には境内に招猫堂が建てられ、猫が片手を挙げている姿をかたどった招福猫児(まねぎねこ)が作られるようになった。

また、同じ豪徳寺説でも別の話もある。直孝一行が豪徳寺の一本の木の下で雨宿りをしていたところ、一匹の三毛猫が手招きをしていた。直孝がその猫に近づいたところ、先ほど雨宿りをしていた木に雷が落ちた。それを避けられたことを感謝し、直孝は豪徳寺に多くの寄進をした、というものである。

これらの猫をモデルとした著名なキャラクターが、井伊家の居城であった滋賀県彦根市彦根城の築城400年祭マスコット「ひこにゃん」である[6]

招き猫は一般に右手若しくは左手を掲げ小判を掲示しているが、豪徳寺の境内で販売されている招き猫は全部右手(右前足)を掲げ、小判を持っていない。これは商家ではなく武家である井伊家の菩提寺であるためであるとされる。豪徳寺は小判を持っていない理由として「招き猫は機会を与えてくれるが、結果(=この場合小判)までついてくるわけではなく、機会を生かせるかは本人次第」という考え方から、としている。

豪徳寺近くを通る東急世田谷線2017年平成29年)9月25日から2018年(平成30年)9月末まで、開業110周年記念として「幸運の招き猫電車」を運行している[7][8]

自性院説

東京都新宿区自性院を発祥の地とする説がある。

ひとつは、江古田・沼袋原の戦いで、劣勢に立たされ道に迷った太田道灌の前に黒猫が現れて手招きをし、自性院に案内した。これをきっかけに盛り返すことに成功した太田道灌は、この猫の地蔵尊を奉納したことから、猫地蔵を経由して招き猫が成立したというもの。

もうひとつは、江戸時代中期に、豪商が子供を亡くし、その冥福を祈るために顔が猫面の「猫地蔵」を自性院に奉納したことが起源である、とするもの。

西方寺説

東京都豊島区西方寺を発祥の地とする説がある。

かつて当寺が吉原遊廓に近い浅草聖天町に所在していた頃、吉原に薄雲太夫という花魁がいた。彼女は「玉」と名付けた一匹の猫を可愛がっていたが、ある日、太夫が厠に入ろうとすると、猫が着物の裾を噛んで離さなかった。駆けつけた楼主の治郎衛門が猫の首を切り落とすと、猫の首は厠の下溜めへと飛び、潜んでいた大蛇を噛み殺した。薄雲太夫は自分を守ろうとした猫を死なせてしまったことを後悔し、西方寺に猫塚を祀り、また愛猫を失い失意の太夫に馴染み客が贈った猫の木彫像[注釈 6]を大切にし、太夫の死後に西方寺に寄進された。これが縁起物として広まった、とするものある。なお、当寺は江戸時代末期に火災で全焼し同像も焼失したとされる。

伏見稲荷説

京都府京都市伏見区伏見稲荷大社を発祥の地とする説がある。


招き猫の由来については諸説があり、上記に挙げたもののほか、民間信仰に基づくとする説なども存在する。また、招き猫の仕草の由来については、猫が毛繕いの際に前脚で顔をこする動作、いわゆる「猫が顔を洗う」様子に着想を得たものではないかとする説もある。

脚注

関連項目

外部リンク

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