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江藤智 (野球)

日本の元プロ野球選手 (1970-) From Wikipedia, the free encyclopedia

江藤 智(えとう あきら、1970年4月15日[2] - )は、東京都東村山市生まれ[3]東大和市出身の元プロ野球選手内野手、右投右打)・プロ野球コーチ

国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1970-04-15) 1970年4月15日(56歳)
身長
体重
182 cm
95 kg
概要 基本情報, 国籍 ...
江藤 智
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京都東大和市[1]
生年月日 (1970-04-15) 1970年4月15日(56歳)
身長
体重
182 cm
95 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 三塁手一塁手捕手
プロ入り 1988年 ドラフト5位
初出場 1990年4月7日
最終出場 2009年8月4日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
  • 読売ジャイアンツ (2010 - 2018)
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現役時代は1989年から1999年まで所属した広島東洋カープで球界を代表するスラッガーとして活躍、1993年にはセントラル・リーグ本塁打王を獲得、1995年にはセ・リーグの本塁打王と打点王の二冠王を獲得した[4]。後に読売ジャイアンツ(巨人)や西武ライオンズ→埼玉西武ライオンズでもプレーし、2009年限りで現役を引退した[4]。通算成績は1834試合出場、1559安打打率.268、364本塁打、1020打点[4]血液型はA型[1]

経歴

プロ入り前

出生時の体重は約3400 gで、幼少期から大柄だった[5]。東村山むさしの幼稚園出身[3]。東村山市立回田小学校1年生の時、2学年上の兄に誘われて地元の少年野球チーム「廻田カープ」に入団して野球を始める[5]。当時は大柄な体格から捕手を任され、友人たちからは「エトウ」の「エ」に由来して「エっちゃん」という愛称で呼ばれていた[3]。中学校に進学する時期に東村山市から東大和市へ引っ越し、東大和市立第三中学校へ進学、東村山シニアに入団する[3]。当時は投手だった[3]

高校進学の際は日大三高への進学を希望していたが、両親の意向で関東高等学校(現:聖徳学園高等学校)へ進学した[1]。高校入学時点では東村山シニア時代と同じく投手だったが、1年先輩に「西東京NO.1」と言われた投手がいたため、一塁手兼投手に転向[3]。後に強肩強打を見込まれ[6]、2年生の秋[1]、もしくは3年生の夏に捕手へ転向した[3]。高校時代は甲子園出場の経験はなかったが、堀越高校東亜学園高校、日大三高などの強豪を擁する西東京地区で[1]、練習試合、公式戦を通じて通算61本塁打を記録した[6]。1年生の秋には都のブロック大会で[3]、甲子園から帰ってきたばかりの東亜学園の川島堅から3打数3安打を記録し[1]、チームも2対1で勝利している[3]。川島は当時からプロ球団のスカウトから注目されていた好投手であり、江藤本人はこの活躍がプロのスカウトの目に留まったことでプロ入りできたのではないかと語っている[3]。一方で本塁打のほとんどが左翼方向であり、流し打ちを身につけることが課題とされていた[1]。高校3年生の時には合宿で、うつ伏せになって仲間たち4人を背中に乗せられるほど大柄だったという[5]。「東の江藤、西の谷繁」と言われるほどの強打の捕手として名を馳せた。

長打力に加え、遠投100 m超の強肩や50メートル走6秒2の俊足を買われ[1]1988年度ドラフト会議広島東洋カープから5位指名を受け、捕手として入団した[7][8]。関東高校からは前年に陸上部のやり投げ選手だった日月哲史西武ライオンズに入団していたが、野球部からのプロ入りは学校創設以来、江藤が初であった[1]。担当スカウトは苑田聡彦で、契約金は3000万、年俸360万円[9]。当時は目標として、当時西武で活躍しており、後に読売ジャイアンツ(巨人)でチームメイトになる清原和博[1]、チームの先輩である小早川毅彦のような一発長打の選手を挙げていた[9]

指名翌日には契約を済ませ、1988年度指名選手の中では12球団入団第1号となった[9]。本人曰く、子供の頃からプロ野球選手になることが夢で、どこの球団から何位で指名されても入団するつもりだったといい、交渉時間はわずか10分だった[1]。当時の背番号51

広島時代

1989年(1年目)は一軍未出場に終わるが、二軍ウエスタン・リーグ)ではジュニアオールスターゲームに出場するなど、一定の活躍を見せた。同年オフに背番号が33へ変更される[10][11]

1990年4月に一軍初出場。6月に初めてのスタメン出場を経験したが、このときの守備位置は右翼手だった。その後も右翼手・一塁手として38試合に出場し、5本塁打を打ってアピールした[12]

1991年、肩を故障したのと打撃を生かすためにこの年から捕手から内野手(主に三塁手)に転向[13]。正捕手に達川光男がいたなどの理由もあった。7番三塁手で初の開幕スタメン出場。初の2桁本塁打(このシーズンチーム最多の11本)を記録(2003年まで13年連続)、打率は開幕当初は好調に推移したが、後半は不調に陥り、2割前半と振るわず、レギュラー定着はならなかった。

1992年山崎隆造山田和利らと三塁手のレギュラーを争った。5月・6月は不調で一歩後退したが、後半になるにつれ打率を急上昇させ、9月はほとんどの試合で4番に抜擢され翌年への期待を抱かせた[14][15][16]

1993年はレギュラーに定着し、開幕の3試合を除いてすべての試合で4番の座を守り抜き、初めて全試合に出場した。この年初めて規定打席に到達すると、前年の倍以上の34本塁打を放ち、本塁打王のタイトルを獲得、さらに初のベストナインに選ばれた[17][18][8]

1994年は前半に故障で出遅れたが、6月に復帰して以降不動の4番に定着[19][20]。8月には月間16本塁打のNPBタイ記録かつセ・リーグ新記録を記録、17年ぶりに前半戦をセ・リーグ最下位で終えていたチームを一気に2位まで浮上させ、首位争いに加わる原動力になったとして、セ・リーグ野手部門で初の月間MVPを受賞した[21]。打率も、残り1試合を残して.32216で、アロンゾ・パウエルの.32143を抑えて僅差で1位であった。しかし、最終戦では同時に行われていた10.8決戦でパウエルが3打数2安打だったのに対し、江藤はパウエルの動向を見ながら途中出場して2打数0安打だったため、同僚前田智徳にも抜かれて3位に終わった。それでも、自己最高の打率.321を記録した。

1995年は2度目の本塁打王に加え、打点王も獲得したことで二冠王となったが、シーズン終盤に急性虫垂炎で離脱したため、40本塁打には届かなかった[22][8]。また、自己最多の14盗塁も記録した。OPSはリーグ1位。

1996年はシーズン前半から打撃好調で打率3割をキープし、本塁打も32本に達した。開幕戦は4月5日の対中日戦だった一方、シーズン初本塁打は開幕15試合目となる同月23日に広島市民球場で開催された対読売ジャイアンツ(巨人)1回戦となったが[23]、後述の戦線離脱までは開幕から4番打者としてチームで唯一、全イニング出場を続け[24]、同年は中日の山崎武司大豊泰昭や、読売ジャイアンツ(巨人)の松井秀喜とともに本塁打王争い[注 1]およびそれぞれの所属チームのリーグ優勝争いを繰り広げており[25]、8月21日の対中日戦で30号本塁打、同月24日の対阪神戦(阪急西宮スタジアム)で31号本塁打、同月28日の対巨人戦(広島市民球場)で32号本塁打を記録した[23]。しかし打率.314、32本塁打に達していた8月29日の対巨人23回戦(広島市民球場)で、3回表の守備中に仁志敏久が打ったゴロを処理しようとしたところ、不規則にバウンドしたボールを顔面に当てて[26]右目眼窩底を骨折し、戦線離脱[注 2][27]。結果、優勝争いの時期には欠場を強いられ[28]、それ以降は江藤に代わり、それまで六番打者を担っていたルイス・ロペス四番打者を担ったが[29]、チームは江藤や浅井樹の離脱、エース投手である紀藤真琴の不振などから、最大で2位に11.5ゲーム差をつけながら巨人の逆転優勝「メークドラマ」を許す結果となった[23]。最終的には106試合の出場に終わったが、 セ・リーグ規定打席到達者中6位かつチームトップとなる打率.3144(388打数122安打)、32本塁打、79打点を記録した[30]。本塁打と四死球80はチームトップ、打点もロペスに次ぐチーム2位だった[23]。球団は前述の怪我を公傷と判断、成績を高く評価し、オフの契約更改では前年比3000万円増額となる年俸1億9000万円を提示した[31]。しかし江藤は優勝争いの時期に四番打者である自身が24試合にわたって離脱していたことから、増額分の1割となる300万円を「迷惑料」として返上することを申し出、前年比2700万円増額の年俸1億8700万円で更改した[31]。同年は出塁率.431を記録し、初の最高出塁率を獲得[30]ゴールデングラブ賞も受賞し、OPSも2年連続で1位を記録した。また、同年12月6日には挙式している[28]

1997年、出塁率は3割8分と高かったが、打率は.252に終わり、前年まで4年連続で受賞していたベストナインを逃した。

1998年、自己最多の100四死球を記録し、出塁率はこの年も3割8分を超えたが、やはり自己最多となる103三振も記録し、打率は.253となかなか復調せず、終盤は金本知憲に4番を譲る試合もあった。

1999年8月12日の対横浜ベイスターズ戦で1試合10打点のセ・リーグタイ記録をマーク[32]。同年は3割に迫る打率を残した。オフにFA権を行使し、横浜、阪神の他、この年の11月19日には中日も獲得に名乗りを上げる[33]。しかし本人は在京球団希望だったということで一時は横浜への移籍が確実視されていたが、同じ三塁手でありFAでオリックス・ブルーウェーブへの移籍が有力視されていた横浜の進藤達哉が急遽残留に至ったことなどから一転し、12月6日に巨人への移籍が決まった[34][8]背番号33を当時巨人でつけていた監督の長嶋茂雄から「33番を江藤君に譲り、僕は3番をつけます」として譲り受けている[11]

巨人時代

2000年、前半戦は不振に悩む高橋由伸に代わり3番打者として活躍、リーグ最多の勝利打点を挙げ(最多勝利打点のタイトル表彰はこの年限りであったため、江藤が最後の受賞者となった)、セ・リーグ優勝と日本一に貢献。特にリーグ優勝を決めた9月24日の中日戦(東京ドーム)では、4点ビハインドで迎えた9回裏に当時の守護神エディ・ギャラードから同点満塁本塁打を放つなど、勝負強さを発揮した[35]。これは2000年巨人の通算200本塁打であった。福岡ダイエーホークスとの日本シリーズでもホームランを放っている[36]。同年はシーズンの打率は.256と低調だったが32本塁打、91打点をマークした[37]

2001年、移籍後2年連続のベストナイン・30本塁打を記録。スラッガーとして結果を残した[38]

2002年、2割台前半・本塁打18本とレギュラー定着以降最低の成績に終わり、この年から徐々に成績が低迷。

2003年、前年からの不振が続き、二軍イースタン・リーグ)への降格も経験するなど11年ぶりに規定打席に到達しなかった。代打での起用も多くなり、2004年には三塁手である小久保裕紀がダイエーから移籍してきたことで出場機会はさらに減少、スタメン出場は15試合にとどまった。同年は本塁打も4本にとどまり、前年まで13年連続で続いていた2桁本塁打も途切れた。

2005年には、打率も2割を切り、スタメン出場は8試合で完全に代打要員となった[39]。通算350本塁打にあと1本に迫っていたが、7月30日の対中日12回戦で本塁打性の当たりを放ったものの、天井に当たり左翼フライとなり、通算350号本塁打は幻となったため、結局本塁打を1本も打てなかった[40]。同年オフの契約更改では野球協約の限度である40%を超える減俸となった[41][40]。その直後の2006年1月5日、FAで巨人へ移ってきた豊田清の人的補償として西武ライオンズへの移籍が決定[39][42]。「FA移籍」と「別の選手のFA移籍に伴う人的補償選手として移籍」の両方を経験したプロ野球史上初の選手となった。

西武時代

2006年、西武では年齢、キャリア年数ともチーム最高となり、豊富な経験に人柄も手伝い、若い選手の多いチームで貴重な存在感を示した。36歳の誕生日となる4月15日千葉ロッテマリーンズ戦では内竜也から2年越しとなる通算350号本塁打も放った[43]。また7月19日のソフトバンク戦では、主軸のアレックス・カブレラ和田一浩といった主力打者が先発から外れたため7年ぶりに4番に座り(松井秀喜清原和博らの存在もあり、巨人時代は一度も4番を打たなかった)、6回表に佐藤誠からレフトへの二塁打を放ち、通算1500安打を達成した[44][45]。移籍後は主に代打(対左投手)としての起用が多く、時には指名打者や一塁手として先発出場した[46][47]

2007年も代打や指名打者として活躍。西武移籍後初めて三塁の守備につき三塁手として9試合にスタメン起用され、カブレラがエラーを繰り返した際はカブレラが指名打者に回り、江藤が一塁手を守るなど、大ベテランだが守備でも健在ぶりを示した[48]。9月29日の対オリックス・バファローズ22回戦で、プロ野球史上33人目の通算1000打点を達成[49]。「一生懸命振った。迷惑をかけたけど伊東監督、みんなに感謝です」とコメントした。

2008年、前年までと同じく代打の切り札として、また、クレイグ・ブラゼルが故障したときなどは4番一塁手でスタメン起用された[50][51]。打率は.206と低かったが、20本の安打のうち本塁打が7本と、長打力は発揮した。この年に再度FA権を取得したが、行使せず残留することで合意[52]日本シリーズ制覇や球団史上初のアジアチャンピオンに貢献した[53]

2009年、代打での出場が多かったが、打率1割台と不振に陥り、8月6日に二軍へ降格。その後は再度一軍に昇格することなく、10月2日に現役引退を発表、11月4日に任意引退選手として公示された[54]

引退後

2009年11月10日に古巣巨人の二軍育成担当コーチに就任し、2010年シーズンを迎えた[55]

2011年からは一軍打撃コーチを務めていたが、2014年に二軍打撃コーチへ配置転換となった[56][57]

2015年10月27日、2016年から巨人の一軍打撃コーチに再び就任することが発表された[58]

2018年からは三軍監督に配置転換されたが、10月22日に2019年シーズンのコーチ契約を結ばないことが発表され、そのまま退団した[59]。退団後はどのような職業についているかは公にされず、表舞台への登場は後述の「Carp Legend Game」に限られている。

2022年3月21日MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島(江藤退団後の2009年より、広島市民球場に代わるカープの本拠地になっている)で開催されたカープのOB戦「Carp Legend Game」に出場[60]。1999年オフにカープをFAで去って以来、久々にカープのユニフォームを着用してプレーした[61][62]。江藤本人は尾関高文(ザ・ギース)の取材に対し、当初は「FAで出ていった自分が出場する資格はない」という理由から参加を辞退するつもりでいたが、周囲の友人から強く出場を勧められたことや、同じくFAでカープを去った金本知憲も参加することを聞いたことから、自身も参加を決意したと述べている[63]。また、2025年11月29日に同球場で行われた「CARP LEGEND GAME 2025」にも出場している。

選手としての特徴・人物

夏場に強い「夏男」として知られ、歴史的猛暑となった1994年8月をはじめ、夏季に月間MVPを複数回獲得している[64][65][66]。チームメイトだった前田智徳は、夏の気候が特に厳しい旧広島市民球場のロッカールームで、真夏に体力が落ちてフルーツしか食べられない自分を後目に、江藤がうどんやラーメンを平気で平らげる姿に驚愕したと語っている[67]

安打に比しての本塁打が多く、通算のIsoPは0.236になる。しかし、巨人時代は一度も4番でのスタメン出場はなかった[68]。自身が巨人に在籍していた時期には、清原和博松井秀喜、高橋由伸、ペタジーニ、小久保裕紀などが4番を打っていたためである。

大洋・横浜戦にめっぽう強く初めて本塁打王をとった1993年から、巨人移籍後の2001年まで毎年8本以上の本塁打を放ち1995年は14本の本塁打を放ち、通算で98本の本塁打を放つ。大洋・横浜戦98本はセリーグ一筋で当人より通算本塁打の多い衣笠祥雄(505本、96本)や金本知憲(476本、92本)、長嶋茂雄(444本、81本)、阿部慎之助(406本、83本)より多く、王貞治(165本)、山本浩二(113本)に次ぐ第3位である。敵地・横浜スタジアムでは通算42本の本塁打を放ち、プロ生活で1試合3本塁打を3回記録したが、3回とも横浜スタジアムでの記録である(1994年、1998年、1999年)

西武時代は精神的支柱として若手選手から慕われ、5歳年上の渡辺久信監督からも「江藤さん」とさん付けで呼ばれていたという[69]

プロ入り以来サヨナラヒットに縁がなく、初めてのサヨナラは巨人時代の2001年8月7日の阪神20回戦(東京ドーム)で、サヨナラ本塁打に関しては引退まで1本も打てなかった[70]。なお、サヨナラ本塁打「ゼロ」の選手では、通算で最多の本塁打を打っている。

広島時代に対戦した巨人の斎藤雅樹に弱く、本塁打はおろか、対斎藤の初安打は1999年4月15日の巨人3回戦に第3打席にレフト前にヒットを打つまで45打席かかり、ヒットはこの1本だけだった。

体型はどちらかというと筋肉と共に脂肪が付いたアンコ型であった[71]

高校の同級生に漫画家安野モヨコと元バレーボール日本代表の泉川正幸、また1年先輩にMr.Children桜井和寿がいる。

西武入団会見で少年時代にライオンズ友の会(ファンクラブ)に加入していたことを明らかにした。

西武での登場テーマ曲はジョン・レノンの「Power to the people」で、間に「江藤!」という合いの手が入る。

文化放送文化放送ライオンズナイター』では江藤を「微笑みのバズーカ」と称している。

詳細情報

年度別打撃成績

さらに見る 年 度, 球団 ...
















































O
P
S
1990 広島 388171111732539100010801162.239.325.549.874
1991 91317260335691111003104414606875.215.345.385.730
1992 893172774180140161424522323223514.289.366.513.879
1993 13156948288136151342558274037816949.282.387.529.916
1994 10546639083125210282308171066911816.321.418.5901.008
1995 12756646292132301392811061450129082936.286.396.6081.004
1996 10646938893122191322397983017327682.314.431.6161.047
1997 1104793937899123282017630018144926.252.384.511.896
1998 132580475881201702822181730597131037.253.379.465.845
1999 12151743782127293272437993027523805.291.397.556.953
2000 巨人 12752845784117171322329171465803924.256.340.508.847
2001 134568485861382113025187973373047211.285.381.518.898
2002 125471414531001211816856535249016312.242.322.406.728
2003 105296269307241171294321142002433.268.319.480.798
2004 55111971422404381510001301251.227.324.392.716
2005 811119371640020400021600253.172.288.215.503
2006 西武 521461241530705521910012100312.242.349.419.769
2007 43118109102551341170000801282.229.288.376.664
2008 4211197920107421700011300212.206.297.433.730
2009 20443945200710010301100.128.209.179.389
NPB:20年 183468655819100115592461736429311020823722529232149117592.268.370.504.874
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  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績

さらに見る 年度, 球 団 ...


捕手一塁三塁外野


















































1990 広島 2200001.0006160031.000-17140001.000
1991 -2417014117.995533782117.915-
1992 -1978826.97769439786.946-
1993 -5026219428.98611072163713.971-
1994 --105821771319.938-
1995 --127942351124.968-
1996 --106632081423.951-
1997 --110821651313.950-
1998 --1321002481823.950-
1999 -2420013215.991100831571013.960-
2000 巨人 -2657210.983123781801516.945-
2001 -22433021.000133851851513.947-
2002 -7950231337.994733571610.946-
2003 -291118114.99267319567.955-
2004 -1058312.984151121031.000-
2005 -33133519.99310000--
2006 西武 -7484041.000--
2007 -201119311.9769314021.000-
2008 -2416370121.000--
2009 -435011.972--
通算 2200001.000383198712620161.99113428892093147192.95317140001.000
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タイトル

表彰

記録

初記録
節目の記録
その他の記録
  • オールスターゲーム出場:6回 (1993年、1995年、1996年、1998年、1999年、2001年) ※2000年も選出されるも出場辞退[72]
  • シーズン12犠飛:1995年 ※セ・リーグタイ記録
  • 1試合10打点:1999年8月12日、対横浜ベイスターズ20回戦(横浜スタジアム)※セ・リーグタイ記録
  • 西宮スタジアム公式戦最後の本塁打:1996年8月24日、対阪神タイガース21回戦、9回表に湯舟敏郎から

背番号

  • 51 (1989年)
  • 33 (1990年 - 2009年)
  • 80 (2010年 - 2017年)
  • 77 (2018年)

登場曲

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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