ナゴヤアバンガルドクラブ

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ナゴヤアバンガルドクラブ(ナゴヤアヴァンガルドクラブ)は、1937年11月に名古屋市で結成された前衛芸術グループである[1][2]山中散生下郷羊雄を中心に、絵画・写真・詩の領域を横断して活動した[1][2]海外超現実主義作品展を契機として活動が本格化し、1938年6月には第1回展を開催して機関誌『ナゴヤアバンガルドクラブ』第1号を刊行した[2]。 写真部会はのちに独立してナゴヤ・フォトアバンガルドとなり、戦前名古屋におけるシュルレアリスムと前衛写真運動を接続する母体の一つとなった[3][4]

名古屋におけるシュルレアリスム運動は、1930年代半ばに下郷羊雄山中散生を中心として展開した[2]。 1935年9月の下郷羊雄個展を機に両者の交友が深まり、1936年6月の新造型名古屋展は名古屋画壇にシュルレアリスム絵画を紹介する機会となった[2]。 また、下郷が収集した海外のシュルレアリスム文献をめぐって若い画家たちが集まり、そのアトリエは名古屋におけるシュルレアリスムのサロンとして機能した[2]

結成と活動

1937年11月、本クラブは芸術各分野における研究と発表を目的として結成された[2]。 創立会員は、美術評論家として山中散生、画家として下郷羊雄、岡田徹、戸川金雄、吉川三伸、大口登、今井達雄、猪飼重明、安藤かをる、鈴木鎮、光崎一之、写真家として坂田稔、佐溝勢光の13人であった[2]。 1938年6月の第1回展では、松岡美一、福原武夫、白木正一、船橋清治が新たに加わり、同展に合わせて機関誌『ナゴヤアバンガルドクラブ』第1号が刊行された[2]。 同誌の会員欄には、吉田泰雄、太田士郎、吉川明敏の名も記されている[2]

写真部会と分裂

写真部会は本クラブの重要な構成要素であり、この部門から1939年2月にナゴヤ・フォトアバンガルドが独立した[3][4]山本悍右は1937年11月のクラブ結成時に写真部会に加わり、その後ナゴヤ・フォトアバンガルドにも参加した[5][3]。 しかし、戦時下の状況が強まるなかで、坂田稔の側が「写真による革新」と「民族主義」の交叉を志向する方向へ転じると、山本はその決定を受け入れず、1939年秋に坂田と訣別した[6][7]。 山本はのちにこの時期を回想して、「写真による革新と民族主義の交合。そういうことが考えられるのか。その決定にぼくは納得することができなかった」と記している[7]。 ナゴヤ・フォトアバンガルドはその後「名古屋写真文化協会」と改称し、1941年に解散した[7]。 本クラブ自体は第1回展と機関誌第1号を残したのち、1939年4月までに分裂・解散した[2]。 下郷と山中の周辺から離れた画家たちは、同年の美術文化協会結成に合流し、あわせて逎誘会を結成した[2]

戦時下の周辺状況

関連項目

脚注

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