ハッラーンの戦い
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1104年、エデッサ伯ボードゥアン2世はハッラーンに対する攻撃を仕掛け、包囲戦を執り行った。ボードゥアン伯は包囲戦に際して援軍を要請し、それに応えてアンティオキア公ボエモン1世、ガリラヤ公タンクレードはアンティオキアからハッラーンの向けて北進を開始。ボードゥアン伯をはじめ、ジョスラン・ド・クルトネー、ラテン・アンティオキア総大司教ベルナール・ド・バランス、ラテン・エルサレム総大司教ダゴベルト・ダ・ピサらが率いる包囲軍に参加した。
対するセルジューク諸侯は、モースル領主ジェケルミシュ、アルトゥク系マルディン領主スクマーンの両名が軍勢を率いてカーブル川流域地域(恐らく現在のラース・アル=アイン)に集結した。そしてムスリム軍は1104年5月にエデッサに攻撃を仕掛けた。十字軍の気をハッラーンから逸らすためであったとも、また十字軍が不在の隙にエデッサを奪い取る目的であったともされている。
戦い
12世紀のアラブ人歴史家en:Ibn al-Qalanisiによると、タンクレード公・ボエモン公は包囲戦の最中にエデッサに到着したとされ、1234年の年代記によれば、彼らはハッラーンの城門に最初に到着したとされている。どちらにせよ、セルジューク軍は十字軍から離れるように偽装退却を行い、十字軍はセルジューク軍を追跡した。
セルジューク軍は戦闘が前哨的に行われた小競り合いの最中に偽装退却を開始し、十字軍は退却するセルジューク軍を南方に向けて追跡した。当時の歴史家マシュー・ド・エデッサによれば、十字軍の追跡は2日間続いたというが、別のノルマン人歴史家ラウール・ド・カーンによれば3日間続いたという[5]。ムスリムの歴史家イブン・アスィールによれば、本戦はハッラーンから12キロメートルほど離れた場所で行われたとされる。
現在の歴史家たちの大半は、アルベール・ド・アーヘンやフルチャー・ド・シャルトルといった当時の歴史家の主張におおむね賛同しており、彼らの文献によれば、ラッカ市街に面した平原で戦闘が行われたとされている。ラッカはハッラーンから二日の距離に位置している。
戦闘において、ボードゥアン伯とジョスランは左翼に布陣したエデッサ軍を指揮し、ボエモン公とタンクレード公は右翼に布陣したアンティオキア軍を指揮した[6]。ラウール・ド・カーンによれば、セルジューク軍が退却から反転して攻めかかってきた際、十字軍は応戦準備が整っておらず、ボードゥアン伯やボエモン公は鎧を身にまとう暇もなくテュルク兵と戦わざるを得なかったとされる。
戦いはセルジューク軍が優勢であり、ボードゥアン伯の軍勢は完全に打ち負かされ、ボードゥアン伯並びにジョスランはセルジューク軍に捕らえられた[7]。ボエモン公率いるアンティオキア軍は何とか戦場から脱し、エデッサに落ちのびることができた。優勢であったセルジューク軍ではあるが、セルジューク軍の指揮官ジキルミシュは戦利品をあまり獲得することができず、同じくセルジューク軍指揮官のスクマーンの陣営から捕虜のボードゥアン伯を誘拐したという。ジョスランとボードゥアン伯は身代金を支払われたにもかかわらず、それぞれ1108年、1109年まで身柄を解放されなかった。