バウツェンの戦い (1945年)
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| バウツェンの戦い | |
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ヴイシュケ近郊で戦死したポーランドとソ連の軍民に捧げられたバウツェンの記念碑。 | |
| 戦争:第二次世界大戦(東部戦線) | |
| 年月日:1945年4月21日-4月30日(9日間) | |
| 場所:ドイツ、バウツェンおよびその北西の田園地帯 | |
| 結果:ドイツ軍の勝利 | |
| 交戦勢力 | |
| 指導者・指揮官 | |
| 戦力 | |
50,000名 戦車:300両[1] 大砲:600門 装甲車両:497両 |
ポーランド軍:80,000名[1] 戦車:500両[1] ソ連軍:少なくとも20,000名 |
| 損害 | |
| 戦死:5,000名 | ポーランド軍(公報) 戦死:4,092名 負傷:10,532名 行方不明:2,798名 ソ連軍:不明 |
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バウツェンの戦い(バウツェンのたたかい、ドイツ語: Schlacht um Bautzen、1945年4月)は第二次世界大戦中のヨーロッパにおける東部戦線の最終局面の戦いである。これはシュプレムベルク=トルガウ攻勢の最南端で生起しており、数日間にわたってソビエト連邦第52軍ならびに第5親衛軍[a] の一部の麾下にあるポーランド第2軍と、第4装甲軍そして第17軍の残存兵力から構成されるドイツ軍中央軍集団の一部との間で激しい市街戦が行われた。
この戦いはソ連軍による大規模なベルリンへの攻勢の一環として、イワン・コーネフ麾下の第1ウクライナ戦線がベルリンへ進撃する中で行われた。戦場になったのはバウツェン(高地ソルブ語:ブディシン、ポーランド語:ブジシン)の町と、その北東にあるニースキーを結ぶ道路に沿って存在する田園地帯である。大規模な戦闘は1945年4月21日に始まり4月26日まで続いたが、個別の交戦は4月30日まで継続している。カロル・スヴェルチェフスキ指揮下のポーランド第2軍は著しい損害を被ったが、ソ連軍の増援を得てドイツ軍による後方への突破を防いだ。
戦いの後、双方が勝利を主張したが、現在ではどちらが勝ったのかという点については意見が分かれている。戦争はほぼ終わっており、この戦闘が継続中のベルリンの戦いに戦略的影響を及ぼさなかったため、ドイツ側の歴史記述は戦術的観点により重きを置いている。ドイツ軍はその行動によってバウツェン及び周辺地域の奪還に成功し、終戦まで保持した。
一部の文献は4月26日をこの戦いの終わりとしているが、より小規模で個別の交戦は4月30日まで続いた[1]。他の文献は4月27日も大規模な戦闘が発生し、ドイツ軍の進撃は4月28日になってようやく完全に停止したと述べている[2] 。4月末までにポーランド第2軍とソ連軍はドイツ軍の攻撃を退け、カーメンツ、ドーバーシュッツとダウバン各村を結ぶ戦線を形成し、プラハへの攻勢を準備した[3]。
ズビグニェフ・ヴァヴェルやクシシュトフ・コモロフスキといった歴史学者が述べたように、重大な人的損害にもかかわらずポーランド軍とソ連軍の前線は大規模な突破を免れているので、ドイツ軍の攻勢は失敗に終わったと言える[1][2]。
第二次世界大戦の最後の数か月間、スヴェルチェフスキ中将率いるポーランド第2軍はソ連軍によるベルリン進攻に参加していた[4]。イワン・コーネフ元帥の第1ウクライナ戦線の一部としてポーランド軍は前線の中央部で行動しており、右翼に第5親衛軍、左翼に第7機機械化軍団が展開していた[5]。それらの戦力と対峙していたのは、フェルディナント・シェルナー元帥の中央軍集団に属するフリッツ=フーベルト・グレーザー装甲兵大将指揮下の第4装甲軍であった[4]。
4月17日、ポーランド第2軍はヴァイサー・シェプス川[5] とナイセ川のドイツ軍の防衛線を突破した。ドレスデン方面に退却するドイツ軍への追撃によって、ムスカウ森林地帯に展開する別の諸部隊は分断の危機に瀕した[6][7] 。4月18日と19日、ポーランド第2軍の一部(第8歩兵師団と第1戦車軍団)は南部のドイツ軍と交戦してこれを撃退する一方、残りの諸部隊(第5、第7、第9および第10歩兵師団)はドレスデンへ向かって進撃し、バウツェン北方でシュプレー川に橋頭保を築くとムスカウ森林地帯のドイツ軍部隊を撃破した[7]。翌日、第7機械化軍団所属のソ連軍部隊がバウツェンの一部を占領し、ニースキー南方の道路を確保してヴァイセンベルクを攻略すると一部のドイツ軍部隊を包囲した[8][9]。
スヴェルチェフスキは自軍の南方を確保するよりもドレスデンの攻略を優先することとし、コーネフに託された計画から逸脱した[1]。その間にシェルナーは麾下の諸隊(「ゲルリッツ集団」)をゲルリッツとライヒェンバッハ一帯に集め、ポーランド軍の南面への反撃を計画した。その目的は第1ウクライナ戦線の前進を停止させ、ベルリンへ突破して包囲下の第9軍を救援することにあった[7][10][2]。ドイツ軍は、ベルリンが西側諸国の連合軍に降伏するまでソ連軍を退けられるかも知れないという構想に希望を託していたのである[10]。 シェルナー指揮下の諸隊の集合は、ソ連軍とポーランド軍による偵察によって察知されなかった[1]。
前哨戦
対峙した部隊
ドイツ軍は第4装甲軍の一部によって構成されており、グロースドイチュラント師団と第57装甲軍団の司令部に指揮されていた。この戦いに向けて、ドイツ軍は2個装甲師団(第20および「ヘルマン・ゲーリング」)、2個機械化師団(「ブランデンブルク」と「ヘルマン・ゲーリング第2」)、1個歩兵師団(第17)ならびに1個歩兵師団戦闘団(第545国民擲弾兵師団の残存兵力)擁していた。この戦力は兵員約50,000名、戦車300両と大砲600門で構成されていた[11]。第10SS装甲師団の輜重隊もバウツェン付近に存在していた[12][b]。
ポーランド第2軍は5個歩兵師団(第5、第7、第8、第9、第10、第1戦車軍団とより小規模な部隊)から構成されており、兵員約84,000名から90,000名と戦車500両を擁していた[1][2]。その多くは実戦の経験がない新兵であり、奪還したばかりのポーランド領で召集されていた[1]。将校団の質も疑問視されていた[1]。ポーランド人民軍が直面する大きな問題の一つに、適任な幹部の不足があった。1944年のある推計によれば、同軍の士官は兵1200名につき1名であった[13]。ポーランド軍の士官の多くは、ポーランドに出自を持つソ連軍将校であった[14]。
全体的にみればドイツ軍部隊はポーランド軍より小規模で、装備はより損耗しており補給事情も劣悪であった。ポーランド側の文献はドイツ軍の方が経験豊富であったと記述しているが、ドイツ側の文献はそれらが経験に富む兵と不慣れなヒトラーユーゲントや国民突撃隊の混成部隊であったことを強調している[15][1]。
戦闘




ドレスデンへの進撃
4月21日、ドレスデンへ進撃するポーランド軍歩兵部隊(第8と第9歩兵師団)、第1戦車軍団とムスカウの森を確保するポーランド軍部隊との間に間隙が形成された[8]。第7および第10歩兵師団はナイセ川付近で迎撃され、第5歩兵師団と第16戦車旅団はこれら二つの集団の間にあって移動中であった[8]。ポーランド軍の諸隊は50kmもの戦線にわたって展開していた。ドイツ軍は機会を活かし、この間隙を突いた[8]。戦闘は4月21日に始まった[1] 。西方では第20装甲師団がドレスデンへの進軍を開始した一方、東方では第17歩兵師団がニースキーとヴァイセンベルクに前進し、その途中で包囲されていた友軍部隊を解囲した[16] 。
ドイツ軍はドレスデンの北東40km、ゲルリッツの西方25kmの地点でバウツェン周辺のポーランド第2軍とソ連第52軍の間隙を進撃し、ソ連第48狙撃兵軍団の諸隊を駆逐し、シュプレムベルクへ前進した[1][8][10][17]。第52軍・第73狙撃兵軍団に属する第254狙撃兵師団指揮官ミハイル・プテイコ少将はバウツェン近郊で致命傷を負った[18] 。当初、ポーランド軍のスヴェルチェフスキ中将はドレスデン攻略の試みを継続し、数多くの連絡線が寸断される中で同軍の混乱を深刻化させた[1]。
ドイツ軍はムスカウの森に残存していた友軍との連携に成功し、現地のポーランド軍およびソ連軍部隊を混乱に陥れる[8]。ポーランド第2軍は連携を失い、4個の集団に分断された[2]。同軍の一部の部隊は、気づいた時には包囲されていた[8]。特にポーランド軍第5歩兵師団と第16戦車旅団は後背から襲撃され、著しい損害を被った[1][8]。工兵ならびに訓練大隊のみが守備していた第5師団司令部も攻撃を受けた[14] 。指揮班そのものは突破して第16戦車旅団との合流を果たしたが、それもフェルストゲンで壊滅した。兵員1300名の内、生き残ったのは約100名のみである[1]。ポーランド軍第5歩兵師団の指揮官、アレクサンデル・ヴァシュキエヴィッチ准将は戦死した[8][14]。他方、現在はバウツェンの一部であるニーダーカイナ村で国民突撃隊に属する捕虜のドイツ兵約200名が、撤退するソ連軍部隊に惨殺されている(ニーダーカイナの虐殺)[15][19][20]。
4月23日までにドイツ軍は東部でシュヴァルツァー・シェプス川まで、西部でローザ、オピッツとグロースドゥブラウまで突破した。そのドイツ軍の主力はローザ付近の森林地帯にあった[2]。同軍はケーニヒスヴァルタとホイアースヴェルダへ向かって進撃を継続する[2]。
ポーランド軍の退却
遂にスヴェルチェフスキはドレスデンへの進撃を停止し、退却と突破口の保全を命じた[3][21] 。4月22日、彼は第1戦車軍団にドレスデンからの撤退と中央部の支援を命令する。第8歩兵師団も呼び戻された。しかし第9歩兵師団はドレスデン付近に留まった。一時的にスヴェルチェフスキは、コーネフ元帥を含む上官との連絡を絶たれる[17]。またコーネフは麾下の参謀長、イワン・ペトロフ大将と作戦局長、ウラジミール・イワノヴィッチ・コスティレフ将軍を事態の視察に派遣した[10][17] 。ペトロフは連絡の再構築に成功し、コスティレフを責任者として残した[10]。スヴェルチェフスキは能力不足として一時的に任を解かれる[1]。事態を安定させるため、コーネフはウクライナ戦線から8個師団をポーランド軍陣地の補強に差し向けた[1] 。ソ連軍第14ならびに第95親衛狙撃兵師団と第4親衛戦車師団は、ドイツ軍のさらなる北進を阻むためカーメンツ、ケーニヒスヴァルタとスディーアへ進攻するよう命じられる[2]。第2航空軍もこの戦場に配された[17]。
その間に、ドイツ軍はバウツェン南東部への前進に成功する。ソ連軍第294狙撃兵師団はヴァイセンベルクでブランデンブルク師団に包囲された[16] 。その後の突破戦で4月24日、同狙撃兵師団のほとんどが撃破された。同じ頃、バウツェンで第20装甲師団が町に閉じ込められていた友軍と南方からの接触に成功する。ヘルマン・フォン・オッペルン=ブロニコフスキー少将は間髪を入れずバウツェン市内への進攻を命じた。包囲されていた友軍と連携し、少将は町への突入に成功する。急いで組織されたポーランド軍による反撃は失敗し、バウツェンの大部分は数日間にわたる凄惨な市街戦を経てドイツ軍に奪還された。いくつか残った市内の抵抗拠点は、その後の数日間で掃討された[22][23]。市外では燃料の不足により、ドイツ軍の進撃が行き詰る[15][1][10][17][3]。バウツェンの奪還は、東部戦線におけるドイツ軍最後の戦術的勝利の一つである[24]。
4月25日までに、ポーランド軍はカーメンツ、クッカウ、バウツェン北部、シュプレー川、シュプレーヴィーゼ、ハイデアンガーにかけて防衛線の構築に成功した[2][3]。同日、ヒトラーはシェルナーの「勝利」を祝福している[25]。ポーランド軍第7および第10歩兵師団はスディーアとハイデアンガーへの前進を命じられた[2] 。両師団はゆっくりと進み、第10師団はシュプレーフルト北部に到達する。ソ連軍部隊を右翼に控えながら、同師団はケーニヒスヴァルタへの道路も確保した[3]。
第9歩兵師団はポーランド軍のドレスデンへの進撃が断念された後、その先鋒にあって気づいた時には孤立していた。退却命令が届いたのは4月26日のことである[26] 。迅速な撤退と主力への合流を試みる中、師団はドイツ軍に迎撃され著しい損害を被った[1]。諸隊は退路が安全であるという推測の下、安全を充分に確保しないまま移動していた。同じ頃、ドイツ軍は退路の詳細な計画を伴うポーランド軍の命令書を奪取していたのである[1]。諸隊の連携も不足していた[2] 。第9師団所属の第26歩兵連隊はパンシュヴィッツ=クッカウとクロストヴィッツの付近にある「死の谷」で非常に大きな損害(75パーセント)を被った[1]。同師団の野戦病院部隊はホルカ近郊で奇襲され、ほとんどの人員と負傷者が処刑された(犠牲者約300名。「ホルカの虐殺」と呼ばれる)。生存者は従軍聖職者のヤン・ルザネクのみである[1][27]。師団の指揮官、アレクサンデル・ワスキ大佐は捕虜となった[1]。これらの損害の結果、第9師団の戦力は消滅した。残った人員はソ連軍第19親衛狙撃兵師団に編入されている[2]。
いくつかの文献によれば、この戦いが終わったのは4月26日であるとされているが、この地域におけるより小規模で個別の戦闘は4月30日まで続いた[1]。他の文献は4月27日になってもなお大規模な戦闘が発生し、ドイツ軍の進撃は4月28日にようやく停止したと指摘している[2] 。同月の末までにポーランド第2軍とソ連軍はドイツ軍の攻撃を退けカーメンツ、ドーバーシュッツからダウバンにかけて戦線を形成し、プラハへの攻勢を準備していた[3]。
影響

双方とも大きな損害を被っている[2][3]。ポーランド軍の犠牲者は特に夥しかった[1]。比較的短期間でポーランド第2軍は人員の22パーセントと戦車・装甲戦闘車両の57パーセント以上(合計約200両)を失っている[1][2]。公報の推計によれば、ほぼ5,000名の戦死者を含む約18,000名の犠牲者が出た。他のいくつかの推計によれば、ポーランド軍の犠牲者は最大25,000名に及ぶ[1] 。ポーランドの歴史学者ズビグニェフ・ヴァヴェルによれば、これは1939年のブズラ川の戦い以来、ポーランド陸軍が参加した中でも最も凄惨な戦いであった[1]。
ドイツ軍の犠牲も著しかったが、ポーランド軍やソ連軍よりも少ない。現代のポーランドの文献はドイツ軍の損害を6,500名としているが、今では過大な推計と見なされている[1]。ドイツ軍は、目的としていた第1ウクライナ戦線の突破とベルリンへの来援を果たせなかった[3][28]。しかし現地のポーランド軍とソ連軍に非常に深刻な損害を与え、ポーランド軍によるドレスデンへの進撃の阻止に成功している[1](同市は5月8日のドイツの降伏時、いまだにドイツ軍が掌握していた)。
バウツェン、ヴァイセンベルクとその周辺地域の奪還は、この戦争における「ドイツ装甲部隊が成功させた最後の反撃の一つ」と呼ばれている。バウツェンとその周辺地域は、ドイツの降伏までドイツ軍が手中に収めていた。この戦いはベルリンで進行中の激戦に戦略的影響を及ぼすことこそなかったが、参加したドイツ軍部隊の大部分と東部から避難する数多くの難民に西部への脱出と、西側連合軍への投降を果たせしめた[1][23][29]。
歴史記述

ポーランド軍の大損害にもかかわらず、あるいはそれゆえにこそ、この戦いはポーランドの歴史記述においてほとんど無視されている[1] 。ポーランド人民共和国の時代、それは単に困難ながらも勝利した戦いとして描写されていた[1][3][28]。しかし共産主義の失墜以降、現代ポーランドの歴史学者はスヴェルチェフスキの指揮に遥かに批判的になっており、そのドレスデンへの進撃をほとんどポーランド軍への破壊行為であるとして批難している[1]。一部の文献によれば、スヴェルチェフスキの能力不足には泥酔中の戦闘指揮までもが含まれている[1][30] 。彼はコーネフ元帥[1]によって一時的に任を解かれたものの、ソ連軍上級司令部(恐らく内務人民委員部)の支持により地位を保ったのみならず、全ての論争が封殺され、戦後は英雄として称揚された[1]。例えば充分な偵察や随伴部隊を欠いたまま前進した[1][2]第9歩兵師団指揮官の判断のように、他のポーランド軍士官の行動も疑問視されている。
現代ポーランドでは、この戦いの結果はポーランド軍とソ連軍の犠牲が大きかったとしても、両軍の勝利と見なされている[1]。ヴァヴェルやコモロフスキといった歴史学者が述べたように、重大な人的損害にもかかわらずポーランド軍とソ連軍の前線は大規模な突破を免れているため、ドイツ軍の攻勢は失敗に終わったとされている[1][2]。
脚注
b ^ ヴァヴェルとソラクは第2SS装甲師団も戦闘に参加したと主張している。しかし、第2SS装甲師団は1945年1月から終戦までハンガリーとオーストリアで戦っていたため、誤った説である[31] 。第21装甲師団にもこの戦いと関連して言及されているが、同師団はすでに第4装甲軍から第9軍への増援として北方へ移動済みであった。バウツェンの戦いが始まった時、第21装甲師団と第10SS装甲師団(輜重隊を除く)は第9軍の支援に派遣され、どちらもハルベで包囲されていた。ポーランドの歴史学者コモルニキ、ジェラク、ドイツ国防軍少将フォン・アールフェンはいずれも第21装甲師団と第10SS装甲師団を含まない戦闘序列を支持している。