バグラト (ギオルギ12世の子)
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| バグラト ბაგრატ | |
|---|---|
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バグラト | |
| ジョージア王室家長 | |
| 在位 | 1830年9月21日 – 1841年5月8日 |
| 先代 | グリゴル・バグラティオニ |
| 次代 | アレクサンドレ・バグラティオン=グルジンスキ |
| 配偶者 | ケテヴァン・チョロカシヴィリ |
| 家名 | バグラティオニ家 |
| 父親 | ギオルギ12世 |
| 母親 | ケテヴァン・アンドロニカシヴィリ |
| 出生 |
1776年5月8日 トビリシ |
| 死亡 |
1841年5月8日 サンクトペテルブルク |
| 埋葬 | スモレンスク正教会墓地 |
| サイン |
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| 宗教 | ジョージア正教会 |
バグラト・バトニシヴィリ(ジョージア語: ბაგრატ ბატონიშვილი、ジョージア語ラテン翻字: Bagrat Batonishvili、1776年5月8日 – 1841年5月8日)は、ジョージアのバグラティオニ朝の王族(バトニシヴィリ)、著述家。カルトリ=カヘティ王ギオルギ12世の息子であり、王政末期に王国の重要な行政職に就いた。1801年にロシア帝国が王政を廃止した後は、ロシア帝国の文官職に就いた。ロシア語名ではバグラト・ゲオルギエヴィチ・グルジンスキー(ロシア語: Баграт Георгиевич Грузинский、ロシア語ラテン翻字: Bagrat Georgiyevich Gruzinskiy)公として知られた。ジョージアの歴史、獣医学、経済学に関する著作がある。バグラトの系統を通じて、ジョージア最後の国王ギオルギ12世の男系は2025年までその系譜を繋いだ。
バグラトはトビリシにおいて、後のカルトリ=カヘティ国王ギオルギ12世と、その最初の妻ケテヴァン・アンドロニカシヴィリの間に生まれた。1790年、当時14歳であったバグラトは、クサニ渓谷の領地を与えられた。この領地は、当時の国王エレクレ2世が、政敵のクヴェニプネヴェリ家からクサニ公国領を没収し、それを3分割したものの一つであった。残りの2つは、バグラトの兄イオアネと、異母叔父イウロンにそれぞれ与えられた。さらに父ギオルギ12世の治世(1798年–1800年)の間、バグラトはカヘティを領有した。この時期、バグラトはエレクレ2世とギオルギ12世の子や孫たちによる一族内での内紛に巻き込まれることとなった。1800年11月、カヘティで起こったニハウラの戦いにおいて、バグラトはロシア=ジョージア連合軍の指揮官の一人として、アヴァール・ハン国のウンマ・ハン5世とバグラトの異母叔父アレクサンドレの共同侵攻軍を撃破した[1]。
ロシアでの生涯
1800年に父ギオルギ12世が崩御した後、ロシア帝国は1801年にカルトリ=カヘティ王国を併合し、バグラティオニ家による統治は終焉を迎えた。ジョージアの王族たちは領地を剥奪され、ロシア本土へと移送された。多くの王族とは異なり、バグラトはロシア政権に対して反抗することはなかった。1803年、バグラトはロシア当局の指示に従い、モスクワへの強制移住に応じた。バグラトは1801年10月12日に聖アンナ勲章一等を授与された[2]。バグラトは1万ルーブルの年金を支給され、1804年には15万ルーブルの土地購入費が支給された。
1812年のナポレオンによるロシア侵攻(1812年ロシア戦役)の際、バグラトはフランス軍がモスクワを占領する前日に同地を離れた。その後はサンクトペテルブルクに移り、没するまで同地で暮らした。バグラトは1818年にロシア皇帝アレクサンドル1世の侍従に任命され、1828年には枢密顧問官および元老院議員となった[3]。
著作
バグラトはロシアでの生活において、『新しい物語』や『ロシア=ペルシア戦争……』といった歴史書を執筆した。前者は、バグラトの兄ダヴィトによる著作の続編にあたるものである。バグラトは、18世紀半ばから1840年代までのジョージアにおける歴史的事象を時系列に沿って叙述した。この著作には、ロシア政府によるカルトリ=カヘティ王国の廃止に対する不満の念が込められている。
またバグラトは、獣医学や経済学の性質を持つ著作も残している。バグラトの獣医学に関する著作の中でも、1818年にサンクトペテルブルクで出版された『馬およびその他の家畜の治療』は、ジョージア語で書かれた初の獣医学書として、特に注目に値する[4]。さらにバグラトは、1807年に馬の疾患に関する治療本も編纂しており、これは実質的な獣医学の処方集となっている。
バグラトは、1812年のナポレオン率いるフランスとの戦争においてロシア軍側で戦ったジョージア人の名簿も編纂している[4]。
家族
バグラトはプシャヴィ=ヘヴレスティの代官(モウラヴィ)ドゥルミシハン・チョロカシヴィリの娘ケテヴァン(1781年–1831年6月30日)と結婚した。ケテヴァンはサンクトペテルブルクでコレラにより死去し、スモレンスク正教会墓地に埋葬された。バグラトとケテヴァンの間には10人の子供が生まれたが、成人したのはそのうち3人のみであった。