パークウー洞窟
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歴史
考古学的な証拠によれば、上・下の洞窟は数百万年前には海の下に沈んでいたことが証明されている。海が後退した後、美しい景色と洞窟が残された。その後1,000年以上後、古代の部族がこの洞窟に定住していたと考えらている。アミニズムを崇拝していた時代には、信仰上の目的としても洞窟を使用していた[3]。
ナーガ信仰
仏教が伝来する以前から、この洞窟は「蛇神(ナーガ)」信仰に捧げられた聖地であった。ラオスの伝承によれば、この洞窟の真の住人は、王都ルアンパバーンとその象徴であるプーシーの丘を守護する蛇神と同族の「聖なる蛇」であると信じられている[4]。
仏教との習合
仏教が浸透するにつれ、この土着の聖地は仏教的な意味が付加された。メコン川を往来する舟乗りたちが、航海の安全を祈願して、また信者や個人が功徳を積むため、個人的な祈願、官舎のために、仏像を洞窟内に奉納する習慣が伝統的に受け継がれてきた。この積み重ねにより、洞窟は無数の仏像で埋め尽くされている[4][5]。シロアリの被害などによって寺院の祭壇で祀ることができなくなった古い像を、人々が廃棄を恐れてこの聖なる洞窟へ持ち込み、安置したものもある[6]。
現在でもこの場所を管理する僧侶たちは、ここが本来は水中に住まう蛇神たちの領分であることを自覚している[4]。
王室儀礼と新年の伝統
さらに、パークウー洞窟は、歴史的にラオス王室と極めて密接な関係を維持してきた。
パクーウー洞窟は、14世紀から18世紀にかけて栄えたランサーン王国の歴史と深く結びついており、伝説によれば、王国の創始者であるファーグム王(1316–1393年)(ラーオ語:ຟ້າງຸ່ມ)が瞑想の場を探している際にこの洞窟を発見し、地元の隠者の許可を得て祠を建てたのが始まりとされる。この場所は、ファーグム王が自身の王国に初めて仏教を導入した聖地であると信じられている[2]。
以後、この洞窟は歴代のラオス王室から篤い保護を受け、巡礼地となった。かつて国王の戴冠式は、王宮やワット・プーシーと並び、このパクウー洞窟でも執り行われていた[2]。
新年儀礼
ラーンサーン王国時代、伝統的なラオス正月の際、国王や皇太子は丸木舟でナムウー川を遡り、この洞窟を公式に訪問することが義務付けられていた[7][4]。
王室のスケジュールによれば、この儀式は元日(ラーオ語:ສັງຂານຂຶ້ນ)から数えて3日後に行われるのが通例である[8]。

国王夫妻、王太子、および政府の高官たちは、午前中にルアンパバーンを船団となり出発する。直行せずに、途中のメコン川の中州ドーン・クーン島 (ラーオ語:ດອນຄູນ)に立ち寄って祈りを捧げるのが伝統的な作法である。これは儀礼的な境界設定の意味を持つ[8]。パークウー洞窟に到着後、岩壁を削って作られた険しい石段を登り、薄暗い洞窟の内部に入った王は、銀の水差しに入った香水、あるいは特定の洞窟から汲まれた聖水(ラーオ語:ນ້ຳທ່ຽນ)を、ナーガ(蛇神)(ラーオ語:ພະຍານາກ)を模した木の樋「ハーン・リン(ラーオ語:ຮາງລິນ)」に注ぐ。水は樋を伝って仏像を清め、これによって王国の不運が洗い流されると信じられている[8]。王国の繁栄と安寧を祈念する浄化の儀式である[4]。
灌仏を終えた王家は対岸のパクウー村(ラーオ語:ບ້ານປາກອູ)へ渡り、そこで宿泊する。随行する30人ほどの護衛隊は、伝統的な太鼓、籐の鞭、鉾、剣、そして王権の象徴である日傘で重武装し、聖なる夜を守護する[8]。
以下は1974年のパークウー洞窟への王族の儀礼のスケジュールである[8]。
1974年4月19日(金)
| 時間 | 項目・場所 |
| 07:00 | ルアンパバーン王宮の船着き場に要人および市民が集合 |
| 07:30 | ピローグで出発 |
| 午前 | ドーン・クーン島での祈祷 |
| 午前 | パークウー洞窟に到着 |
| 正午頃 | パークウー 村の貴賓席に到着。地元有力者および市民が一行を迎える |
| 午後 | ワット・パクウー寺院での祈祷および潅仏の儀式 |
| 夕刻 | 国王陛下を讃える儀式 |
| 20:00 | ワット・パクウー 寺院にて伝統に則った祝宴 |
| 翌08:00 | 王室行列がパクウーからルアンパバーンへ帰還 |
一般人による儀式
一般信徒は、王族の出発に合わせ、住民たちもまた大小様々なピローグ(丸木舟)やモーターボートに乗り込み、メコン川を遡る大行列を形成する[8]。王族の儀式が終わった後に一般の参列者も、洞窟へ入ることが許される。人々は持参した花、線香、蝋燭を仏像に供え、自らの健康や富、そして家族の安寧を願うとともに、新年の幸運を祈る[8]。
厳粛な儀式が終わると、午後はパクウー村全体が祝祭の場と化す。近隣の村からも人々が集まり、深夜まで音楽や歌が鳴り響く中、お祭り騒ぎが繰り広げられる[8]。
現在もラオス正月の時期には、多くの信者が仏像を清めるために訪れる重要な巡礼地である。また、地元の伝承ではパクウーにはメコンオオナマズ(ラーオ語:ປາບຶກ)の姿をした川の精霊が宿るとされる[2]
構造と特徴
下の洞窟(タム・ティン)、上の洞窟(タム・プーム)どちらの洞窟にも仏像と祭壇がある。
下の洞窟:タム・ティン (ラーオ語:ຖ້ຳຕິ່ງ 英:Tham Ting)

通称「千仏洞」として知られるこの洞窟は、河岸から約60メートルの高さにある。奥行きは約20メートルであるが、内部の床が約50度の急勾配で上昇しているのが特徴である。この斜面に沿って仏像を置くための棚状の台座が幾層にも作られており、地元住民や巡礼者による礼拝の場となっている[2]。
タム・ティン内部には住民らが運び込んだ大小、新旧さまざまの約2,500体の仏像が複雑な洞内に所狭しと置かれている[3]。入り口の基壇のすぐ上には、薬草と関わりのあるラーマーヤナ彫刻がある。最も高い基壇の上には大きな仏塔がそびえる[3]。
上の洞窟:タム・プーム (ラーオ語:ຖ້ຳພູມ 英:Tham Phum)

タム・ティンから5分程度、278段の階段を登った場所にあり、奥行きは約50メートル、幅17メートル[3]。タム・プームは、横穴で自然光が届かず、真っ暗な内部に仏像が点在し懐中電灯が必要(有料の貸し出しあり)[1]。
1559年から1560年にかけてサイ・セーターティラート王が父を記念して建立したとされる仏塔や、聖なる結界石、小部屋などがある[2]。
入り口の脇には小さなストゥーパがあり、伝承によれば、この街を守護する夫婦「プーニュー・ニャーニュー」の遺骨が納められている場所とされている。かつては国王が毎年ラオス正月にこの洞窟を訪れ、このストゥーパに灌頂していた。入り口の扉は木製で、ラオス様式の彫刻が施されている[3]。
また、仏教的利用以前のものから近代に至るまで、多層的な岩面画が残されている[2]。
- 擬人像と花: タム・プームの入り口付近には、赤や黒で描かれた様式化された人物像や蓮の花に似た絵が見られる,。
- 「蒸気船」の絵: タム・プームの北側の壁面には、緑色の顔料で描かれた「蒸気船」に似た特異な絵が存在する。

フランスの蒸気船 - ピーの彫刻: 洞窟内には「ピー(精霊)(ラーオ語:ຜີ)」、あるいは神話上の獅子を象った彫刻もあり、アニミズムと仏教が習合したラオスの精神世界を象徴している。
調査と保護

西洋人による最初期の記録は、メコン川を探検したフランスのドゥダール・ド・ラグレ、フランシス・ガルニエらによってなされた。1867年5月25日に洞窟を訪問した彼らは洞窟内に無数の仏像が安置され、対岸のパクオー村から多くの僧侶や巡礼者が訪れる様子を記述した[2]。
1992年から1997年にかけて、オーストラリア政府の援助プログラムの一環として、キャンベラ大学の協力による大規模な修復と保存プロジェクトが実施された[9]。1997年の調査では、洞窟内に安置された仏像は約6,000体に達していたが、2011年の再調査では観光客の往来により600体以上が紛失したことが報告されている[2]
観光案内と交通アクセス

- 自然光が差し込む午前中の訪問が、洞窟内の仏像を最も美しく観察できるためお勧めである[6]。
- 上のタム・プームを探索する場合は非常に暗いため、強力な懐中電灯の持参が必須(現地でレンタルも可能)[6]。
- 聖域ですので、肩や膝を露出した服装は避け、敬意ある身なりで訪問が必要[6]。
- ボート:ルアンプラバーン市内の一般スローボート発着場よりやや上流の専用発着場があり、幅の小さく細長い独自の形状のエンジン付きロングテールボートで往路所要2時間、復路1時間。通常、往路に酒造りの村バーン・サーンハイへ立ち寄る[1]。
- トゥクトゥクやレンタカー:ボートよりも早いが、風情はないため利用は少ない。最後は渡し舟で対岸へ渡る必要がある。
- 入場料 20,000kip(船内で集金する場合がある)。
メコン川もこのあたりまで遡ると周囲の山々の織りなす景観が、中国の桂林のような雰囲気を呈し始める。洞窟へは通常、乗り合いの観光船を利用するが、通常、往路にバーン・サーンハイ(Ban Xang Hai)の村へ立ち寄る。バーン・サーンハイは、壷造りと蒸留酒「ラオ・ラーオ」造りでも有名であり、試飲などもできる。土産物店が建ち並ぶ村の奥には小さな村に似つかわしくない立派な寺がある[1]。



