1921年のトゥーレ遠征の集合写真。
1906年に、友人であったクヌート・ラスムッセン と共にデンマークを出航、グリーンランドへ初めての遠征に出発した。グリーンランドに到着後、1000キロの道のりを犬ぞりで更に北へ北へと向かい、そこでイヌイット とその文化に初めて出会った。
数年の間グリーンランドのカーナーク に居住し、イヌイットたちと生活を共にした。イヌイット達と交易しながらイヌイット語 を学び、狩りの仕方を学んだ。フロイヘンは身長2メートル1センチと非常に体躯が大きく、狼 を武器無しで素手で仕留めたり、白熊 を一人で狩って毛皮のコートに仕立てたという逸話も残っている。
1910年から1924年には、ラスムッセンと共に更に度々遠征に参加し、グリーンランド氷床 (英語版 ) の横断に成功した[ 6] 。
1910年、ラスムッセンとフロイヘンはグリーンランドのケープヨーク にイヌイット達との交易を行う「トゥーレ交易所」を開設。「トゥーレ 」という名前は交易所が世界最北の地にあることに基づいて、中世地誌などで「既知の世界の境界線」を越えた世界の最果てを意味する“ウルティマ・トゥーレ ”や、古典文学に登場する極北の伝説の地“トゥーレ”から採られた。交易所はその後、1912年から1933年のトゥーレ遠征として知られる7回の遠征で基地として使われた[ 7] 。
1921年のトゥーレ遠征で、氷のブロックを運ぶ当時の様子。
1912年、ラスムッセンとフロイヘンによる最初のトゥーレ遠征は、ピアリーランド がグリーンランドと海峡で隔てられているというアメリカ人探検家ロバート・ピアリー の主張が正しいかどうかを確かめる為に行われた。内陸氷地帯を1000kmにわたって探検し、ピアリーランドが半島 であることを証明し、イギリスの地理学者 で探検家、地理学会の会長 クレメンツ・マーカム に、「犬ぞり でなされた最も優れた業績」と賞賛された[ 8] 。この探検についてフロイヘンは「ヴァグラント・ヴァイキングVagrant Viking (1953) と」 「アイ セイルド ウィズ ラスムッセン I Sailed with Rasmussen (1958) 」の2冊の探検記を出版した。
フロイヘンは著書Vagrant Viking の中で、この遠征が犬ぞりによるグリーンランド横断の史上初の成功と位置づけた。
この遠征の途中で雪崩 に巻き込まれた際には、すぐに雪が氷状に固まり抜け出せなくなり、スーツケース大の空間に30時間弱閉じ込められることになった。掘削器具を持ち合わせていなかったフロイヘンは、自らの大便を短刀の形に凍らせて氷を削り落として脱出した[ 2] 。
1910年から1924年の間、トゥーレを訪れるビジターを対象に、イヌイット文化についての講義を行っていた。またデンマークでもラスムッセンと共に、トゥーレ遠征やイヌイットについての講義を度々行った。
フロイヘンの最初の妻、イヌイットのメクパルクとは1911年にフロイヘンがイヌイットの居住地で暮らした際に出会った。グリーンランドのイヌイットの伝承に登場するナヴァラナという伝説上の人物の名前を有しており、フロイヘンの遠征に何度も同行したことで知られている。
二人の子供をもうけたが、フロイヘンが「白人として育てるより、エスキモーとして育つことがより幸福である」とし、子供たちをイヌイットの居住区で育てた[ 9] 。
彼女が死去した際、フロイヘンはナヴァラナの遺体をグリーンランドのウペルナヴィク にある古いキリスト教教会の墓地に埋葬したいと望んだが、ナヴァラナが洗礼を受けていなかったことを理由に教会は墓地への埋葬を拒否、フロイヘン自身が墓穴を掘り、自らの手で埋葬した。
フロイヘンは後に、イヌイットの文化や伝統を理解、尊重しないままイヌイット達へ宣教活動を行うキリスト教会を強く批判した。クヌート・ラスムッセンは後に、メクパルクに敬意を表し、1933年に東部グリーンランドで撮影された映画“Palos Brudefærd” の主役にナヴァラナと名付けた。
1920年代にフロイヘンはデンマークに戻り、デンマーク社会民主党 の党員となり、党新聞の「ポリティケン Politiken 」に記事を執筆した。
1924年にマグダレーナ・ヴァン・ラウリッドセン(1881年-1960年)と再婚した。ラウリッドセン家は、父の国立銀行での仕事のみならず、マーガリン を製造する会社などを所有し、デンマークでも大変著名な大富豪の一族であった。マグダレーナの両親はフロイヘンを大変気に入っており、1926年から1932年には、フロイヘンを家族が所有していたデンマークの女性向け週刊誌Ude og Hjemme ,の初代編集長とした。Ude og Hjemmeは今日でも引き続き存続しており、デンマークで最も長く続く雑誌となっている[ 10] 。また映画会社の主任も務めていた。
大富豪と結婚したものの、探検への意欲は衰えることなく、引き続き幾度もの遠征に参加していた。
1926年のグリーンランド探検では、キャンプに戻った際につま先が壊疽 を起こしており、左足全体が凍傷 にかかっているのを発見。凍傷を食い止める為に、手持ちのペンチを使い、麻酔なしで自ら足首から下を大きくちぎり落とし、鉤針を義足代わりとして探検を続けた[ 11] [ 1] 。
フロイヘンの著作「エスキモー Eskimo」[ 12] は既に何ヶ国語かに翻訳されており、本の講演の為にアメリカを訪れた。ハリウッド は「エスキモー」の内容にインスピレーションを受け映画製作を決意、1932年、フィルムスタジオ MGM(メトロ ゴールドウィン メイヤー ) の出資により映画撮影を目的とするアラスカ 遠征が行われた。フロイヘンはコンサルタント、北極関連の脚本のスペシャリストとして雇われた。この遠征が、MGMが製作した、第7回アカデミー賞編集賞受賞映画 「エスキモー Eskimo/Mala The Magnificent 」となった。この映画では、アラスカイヌイットの母をもつアラスカンハリウッドスター、レイ・マラ が主演を務めた。また史上初の、イヌイット言語が使われた映画となった。最初フロイヘン自身は演技に全く興味が無かったが、フロイヘンの著作に登場する探検家にふさわしい人物を探せず、探検家として自身が映画に出演することとなった。
「エスキモー」のプレミア上映にて、ヒットラー お抱えの映画監督でナチス・ドイツ プロパガンダ映画を多く撮影したレニ・リーフェンシュタール と出会ったフロイヘンは、酔ったフリをして彼女を掴み上げると、頭の上高くまで彼女の体を抱えてくるくると振り回すという嫌がらせをした。
1935年には南アフリカ を訪れ、また1940年代にはシベリア に旅行している[ 13] 。
Eventyremes Klub会合の様子、1938年。
1938年フロイヘンはデンマークに探検クラブ(デンマーク語: Eventyrernes Klub )を設立、今日までクラブは存続している。クラブは後に、フロイヘンの軌跡を記念し、フロイヘンが1906年に始めてデンマークからグリーンランドに渡った場所に、柏の木を植樹し、イヌイット伝統の積み石「ケアン 」を配した。記念碑はコペンハーゲンの中心地で、人魚姫 の彫像から程遠くない位置にある[ 14] 。
妻のダグマー・コーンと、1950年代。
第二次世界大戦 中は、1926年の凍傷 で片足を失っていたにもかかわらず、デンマークレジスタンス 運動に積極的に関わり、ナチス・ドイツ によるデンマーク占領 (英語版 ) に真っ向から反対の意を表明した。街中で反ユダヤ主義 を口にする者がいるとにじり寄り、「自分はユダヤ人だ!」とナチスの将校 たちの前で大声でふれ回って歩いた[ 15] 。アドルフ・ヒットラー 自身に目を付けられ、フランス にて逮捕、ナチスにより投獄され死刑を宣告されるが、スウェーデン への脱出に成功し、ニューヨークへ移住した。1944年、友人の集まりでユダヤ系デンマーク人のダグマー・フロイヘン・ゲイルと出会い、結婚した。ファッションイラストレーターだった妻ダグマーは、アメリカの有名ファッション雑誌「ヴォーグ 」と「ハーパーズ バザー 」で仕事をしていた。1947年には、ダグマーのイラストがアメリカンヴォーグの表紙を飾っている。
1956年にはアメリカの有名クイズ番組The $64,000 Question に出演し、世界の海というクイズテーマで、史上5人目、最高賞金である64000ドル(2019年の通貨価値で約3千8百万円)を獲得している[ 2] 。
著書Vagrant Vikingによれば、フロイヘンは北欧 やその他諸国の王族と交友関係があったとされており、更にニューヨーク での社交やハリウッドでの映画製作活動が影響し、アメリカ政界にも顔を売るきっかけとなった[ 2] 。