ヘンリー・ジャーミン (初代セント・オールバンズ伯爵)

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ヘンリー・ジャーミン
Henry Jermyn
初代セント・オールバンズ伯
初代セント・オールバンズ伯爵ヘンリー・ジャーミン(ピーター・レリー画)
在位 1660年 - 1684年

称号 初代ジャーミン男爵
出生 1605年
グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国サフォークラッシュブルーク英語版
死去 1684年1月
グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国ロンドンセント・ジェームズ・スクエア英語版
家名 ジャーミン家
父親 トマス・ジャーミン英語版
母親 キャサリン・キリグリュー
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初代セント・オールバンズ伯爵ヘンリー・ジャーミン:Henry Jermyn, 1st Earl of Saint Albans, KG, 1605年3月25日洗礼日) - 1684年1月)は、清教徒革命イングランド内戦)期から王政復古期にかけてのイングランドの貴族・廷臣。

サフォークラッシュブルーク英語版チャールズ1世副宮内長官英語版となるサートマス・ジャーミン英語版とキャサリン・キリグリュー夫妻の4人の子のうち、生き残った2番目の子として誕生。1605年3月25日にロンドンセント・マーガレット・ロスバリー英語版で受洗。

1625年ボドミン選挙区英語版から庶民院議員に選出、翌1626年に再選[1]1628年リヴァプール選挙区英語版から選出、チャールズ1世の王妃ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランスの信頼を獲得し、同年に王妃の副宮内長官になり、1639年には主馬頭になった[2]

1640年4月の短期議会では兄弟のトマス英語版と共にコーフ城選挙区英語版から選出[1]、11月の長期議会バリー・セント・エドマンズ選挙区英語版から選出、熱心な王党派として活動したが、1641年に軍を使い議会をクーデターで制圧する計画(陸軍陰謀事件英語版)に関わったことが発覚、フランスへ亡命した。しかし2年後の1643年第一次イングランド内戦の最中に帰国、ヘンリエッタ・マリアの秘書として再出仕した。王妃の信頼は厚く小部隊の指揮と武器購入を任され、王妃の懇願を聞き入れた国王チャールズ1世により、7月13日にジャーミン男爵に叙爵され貴族に昇格した。また王妃が提案したカトリックアイルランド・カトリック同盟と国王の休戦提案をジョージ・ディグビー英語版と共に支持していた[2][3]

1644年にヘンリエッタ・マリアと共にフランスへ亡命、以後パリに留まった。亡命中はフランスとオランダから軍事支援を得たい王妃の意向でフランス宰相ジュール・マザランオランダ総督フレデリック・ヘンドリックと交渉したが、どちらからも拒否され成功しなかった。また王妃や他の顧問官共々スコットランド国民盟約盟約派)と国王の和睦を願っていたが、盟約を拒む国王から和睦反対の手紙を送られた。やがて1649年にチャールズ1世が議会派に処刑されると王妃に報告、後から亡命したチャールズ王太子(後のチャールズ2世)とも連絡を取り合い、貧困に苦しむ王家のためフランス宮廷に資金援助を訴えたこともある[2][4]

1660年の王政復古で帰国、セント・オールバンズ伯爵に叙爵、1671年には宮内長官英語版に任命されチャールズ2世の側近として働き、ドーヴァーの密約の事前交渉に当たった。この間王妃の世話をしたといわれるが、彼女と関係があったともいう。現在ロンドンの高級品店街として知られるジャーミン・ストリート英語版はチャールズ2世から王妃の世話をした褒賞として与えられた土地で、それを含めセント・ジェームズ・スクエア英語版もセント・オールバンズ伯が開発して生まれた道路に彼の名が付けられたものである[5]エイブラハム・カウリーウィリアム・ダヴェナント英語版のパトロンでもあった。

1684年1月、セント・ジェームズ・スクエアで死去。独身だったため1代でセント・オールバンズ伯位は消滅、ジャーミン男爵位は財産と共に甥のトマス・ジャーミン英語版に継承、彼の死後はその弟でもう1人の甥ヘンリー・ジャーミン英語版に受け継がれた。

脚注

参考文献

関連項目

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