芦屋競艇場
福岡県芦屋町にある競艇場
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概要

主催者は芦屋町[1]。施設名の通称は、BOAT RACE芦屋(ボートレースあしや)。1952年(昭和27年)に開場[4]、1969年(昭和44年)に現在地に移転した[5]。
隣の北九州市若松区にも若松競艇場があり、競艇場間の距離が日本一短いことでも知られる。以前は同じ宿舎を共同使用していたが、現在では若松が新たな宿舎を建設したため、別々の建物になっており、併催が可能である。2010年(平成22年)7月9日からの開催で業界初モーニングレース「サンライズレース」を実施。これにより、ナイター競走の若松競艇場との併催時には、同じ日に芦屋と若松のレースを観戦することが可能になっている。
2010年以降、人口2万人以下の町村部の自治体では唯一の競艇場である[† 1]。遠賀川の支流・西川からは数百メートル離れている。
マスコットキャラクターはアシカの「アシ夢(あしむ)」。
歴史
開場まで
誘致運動の開始
芦屋町は江戸時代から明治にかけて遠賀郡の中核的な町として発展したが、明治末期から大正にかけて鉄道の発展とともに衰退[6]。太平洋戦争の戦後間もなく米軍の空軍基地が置かれたが、町財政は基地への目に見えない経費や、新制中学校や自治体警察の設置などの財政負担を抱えていた[6]。当時の予算規模は5300万円だったのに対し、中学校の建設費は800万円に上ったという[7]。町職員への給与の支払い遅延も起きていた[6]。1951年(昭和26年)の第2回統一地方選挙で黒山高麿が町長に初当選、町議の22人のうち半数も初当選となり、町政を刷新しようという機運が生まれた[6]。モーターボート競走法の施行を受け、同年6月末、町議会副議長の坂口新と議員の藤崎一馬が、町政立て直しのために黒山へモーターボートの施行を進言[6]。黒山は2人に対し極秘裏に調査を進めるように依頼を出した[6]。同年11月から12月ごろまでに調査が続けられ、黒山は実行の意思を固めていった[6]。1952年(昭和27年)1月、黒山は町議会の全員協議会で、議会の賛成と協力を求めた。議場は一瞬ざわついたというが、全会一致で承認を得た[6]。
競艇事業に賛同する町の有志である吉田三郎は黒山に協力を申し入れ、東京で友人の有力者、三浦義一に支援を乞うた[6]。町でも、同町出身の県議会議員、三原朝雄の支援を受けながら運動を行った[6]。当時、芦屋町が競艇の施行者となるためには県のモーターボート競走会設置が必要で、町はその準備を進めた[6]。同町出身で西日本新聞社の社長だった田中斉之、福岡証券取引所理事長の吉次鹿蔵を通じ、木曾鉱業社長の木曾重義が県競走会の会長に就くことが決まった[6]。県知事の杉本勝次にも面会を重ね、県の承認も得た[6]。
当時、運輸省(現国土交通省)の内規では人口3万人以上が施行者の要件とされていたため、黒山は隣接する遠賀郡遠賀村(現遠賀町)、岡垣村(現岡垣町)の村長に協力を懇願[6]。両議会で承諾され、人口38,000人あまりの3町村から成る「芦屋町外二ケ村競艇施行組合」として誘致活動を展開した[6]。
若松市との誘致争い
一方、1952年に入り、同じ県内で芦屋町に隣接する若松市(現北九州市[† 2])でも競艇事業の誘致が盛んになる。当時、運輸省は1都道府県に1ヶ所の競艇場の設置を認可するという内規があった[6]。若松市は当時の人口10万人あまりで筑豊本線が通っており、バス網しか持たない芦屋町にとって「大敵」となった[6]。同時期、町は芦屋中学校の講堂や寺院の本堂に自治会長や有力者を集め、競艇事業の説明会を開催。町と住民の討議により、計画の賛成を得た[6]。また、衆議院議員の渕上房太郎、岡部得三、麻生太賀吉、平井義一、政治家の大久保留次郎などに援助斡旋を要請[6]。三浦義一、安岡正篤、日本曹達社長の大和田悌二、久富達夫などの応援を得て、東京での陳情運動も積極的に行った[6]。
同年7月下旬、黒山らに急きょ上京するように連絡が入り、運輸省政務次官の佐々木秀世と面会。佐々木は1都道府県で2ヶ所以上の競艇場の設置許可ができるように内規を改め、芦屋と若松の出願を認める旨、説明した[6]。佐々木は県モーターボート競走会の役員が芦屋側に偏っていることを指摘し、若松の役員を数人加えることを条件として示した[6]。競走会の役員構成は本来、競走会に属することだったが、事態が急を要すると判断した黒山は二つ返事で応諾したという[6]。これにより芦屋でのボートレース施行の見通しがついた[6]。
福岡県モーターボート競走会は1952年7月25日に設立認可、芦屋町外二ケ村競艇施行組合は8月12日付で競艇場の設置認可を受けた[6]。
建設工事
芦屋町は、山鹿地区の城山山鹿(山鹿城址の麓)の川沿いの土地と遠賀川の水面を施設計画地としていた[6]。河岸に接する丘を半分ほど除去する必要があり、十数年前の洪水で陥没したままの芦屋橋の残骸を取り除かなければならないなど、整地作業は難航した[6]。一方、建築作業が可能な部分は早速工事が始まり、昼夜兼行で行われたという[6]。
財政難の芦屋町は、競艇事業のすべてを借財に頼る他ない状況だったが、ほとんどの銀行から融資を受けることは絶望的だった[6]。黒山は木曾に相談[6]。木曾は、木曾鉱業が持つ福岡銀行の年間融資枠の一部を芦屋町に譲ることを承諾した[6]。また、吉次や町の有力者、梅林忠春のはからいで、梅林が専務を務める梅林組が持つ福岡銀行の融資枠の一部を芦屋町に融通した[6]。これにより3500万円の借財が可能になった[6]。担保として、役場庁舎や学校などの公共施設を差し入れた[6]。ボートやエンジンの購入資金は、町民や周辺市町村の有志から募り、一定の利息をつけて借財した[6]。福岡市にある芦屋町の郷土人会も資金調整に協力した[6]。
開場後
1952年11月初旬、競艇場の整備が予定どおり完了した[6]。11月6日、芦屋競艇場の登録が終わり、11月7日午前11時10分、初レースが行われた[6]。福岡県内では初めての競艇開催となった。初開催の節は3日間開催で連日5000人が来場。次節の3日間を合わせた売上高は2199万8600万円となった[6]。一方、開場当初はターンマークをドラム缶で代用したり、冬はドラム缶で雑木を燃やし暖を取り、夏の暑いときは氷の塊を置いたり、と運営には苦労したようである[4]。レースのスタート時刻を告げた後に漁船が通りかかると、通り過ぎるのを待ったというエピソードも残っている[4]。
レースの売り上げは堅調で、1954年(昭和29年)の前半には福岡銀行からの借り入れやボート、エンジン購入の借財、建設費などの負債の大半を完済した[6]。芦屋町の財政も改善し、それまで重い負担を課していた住民税、資産税を1955年(昭和30年)度から標準レベルに引き下げた。道路、学校などの補修、増改築のほか、町役場庁舎も新築した[6]。なお、1954年に全国で初めてのオール女子戦である「水の女王決定戦」の開催が行われた。
遠賀川右岸河川敷堤内地に存在した競艇場は、遠賀川自体を競走水面として利用していたため、荒天によるレース中止が頻繁にあるばかりか、上流から流れてくるごみなどの浮遊物に悩まされた。1967年(昭和42年)、運輸省はモーターボート競走場の構造及び施設の規格に関する告示を出した[6]。規格に合致した施設とするため、移転が検討されることになり、山鹿の大君地区と、町南東にある航空自衛隊の芦屋基地に接する大城地区の2ヶ所が候補とされた[8]。大君地区は6万坪の広大な農地の買収に難航し、大城地区へ移転することを決定[5][6]。総工費10億円を投じた2代目芦屋競艇場は1969年(昭和44年)3月に完成し、同年4月10日に初開催が行われた[5]。移転初年度の売上高は前年度から46%増え、69億円だった[5]。
2001年(平成13年)、新スタンドが完成。2002年(平成14年)から芦屋町外二ケ町競艇施行組合の赤字が発生した[9]。収益が改善せず3町への利益配当金が支払われない状況が続いたことから、2010年(平成22年)3月、施行組合を解散することを3町で議決。芦屋町はこれに替わる事業形態として「芦屋町モーターボート競走事業」を創設し[10]、これ以降は主催が芦屋町のみとなった。
2010年7月、第1レースの開始時間を約1時間40分早める「サンライズレース」を開始[11]。12レース終了後も他場のナイターを楽しんでもらおうという取り組みで、当時の公営競技で最も開始時間が早かった[11]。
施設

2001年(平成13年)に竣工したスタンドは建築面積3,489平方メートル、延床面積10,012平方メートルの5階建て[13]。高さ45メートルの展望タワーを併設する[† 3]。設計・監理は安井建築設計事務所[13]。
観覧席は、3階に各席にモニターを完備した「ロイヤル席」48席、2階にシングル席やペア席、半個室などの指定席、1階に無料の一般席1600席を備える。水面に接した立見席は地下1階にある。同階にはキッズ・レディースルームがあり、窓越しにレースが観戦できるようになっている[11]。屋外の2マーク前の芝生にも傾斜を設け、寝転がりながら観戦できるように工夫されている[11]。
2021年には屋内型の遊具施設「Mooovi(モーヴィ)芦屋」がオープンした[12]。モーヴィはBOAT RACE振興会が競艇場に設置を進める施設で、全国で4番目に出来た[12]。屋外にも遊具広場がある。
外向発売所
スタンドから競走水面を挟んだ反対側に外向発売所「アシ夢テラス」がある。2010年7月5日にオープンした。全国で初めて競走水面対岸に観覧スペースを設け、開催日に目の前で競走観戦ができる[11]。
外向発売所のとなりには「ASHIMU CAFE」が併設されている。新規ファンの獲得を目的にBOAT RACE振興会が設置を推進する特別観覧施設「ROKU」のひとつとして、2015年11月1日、全国7ヶ所目にオープンした[15]。
あしや夢リアホール
施設内のスタンドに接する形で多目的ホール「あしや夢リアホール」がある。2001年のスタンド竣工と同時に「夢リア」としてオープンし、競艇関連のイベントや町内の行事に使用されていたが、コンサートや演劇にも対応しようと全面改修を行い、2021年(令和3年)のオープンと同時に名称を変更した[16][17]。客席数は1〜3階に合計706席ある。
福岡市に拠点を置く劇団「劇団ショーマンシップ」に運営が委託されている[18]。改修後の初演は2021年8月1日に行われた同劇団の演劇『ノートルダム物語』[19]。
水面の特徴
運営
主要開催競走
周年記念 (GI) のタイトルは「全日本王座決定戦」。企業杯競走(GIII)として、「アサヒビールカップ」が行なわれている。
正月には「福岡県内選手権大会」、ゴールデンウィークには「ゴールデンウィーク特選レース」、お盆には「オール九州選抜戦」、他にはマスコットキャラにちなんで「アシ夢ダービー」が行なわれている。
サンライズレース
2010年(平成22年)から「サンライズレース」を開催。第1レースのスタート展示時刻が通常より1時間40分早い午前9時5分となり、最終第12レースの発売締切時刻が午後2時42分となっている。当初は10月19日までの夏季限定の予定だったが、電話投票利用者などからの反響が大きかったため、2010年度いっぱい継続することになった。その後も、好調なことから2011年度以降も継続開催が決定している(同7月からは電話投票受付開始がさらに繰り上げられたため、第1競走の展示を午前8時32分と、全公営競技で最も早い発走開始となった)。なおGII以上のレースはこれまでと同じ昼間開催となる[23]。
2011年8月3日から、電話投票発売開始時刻の繰り上げに合わせて進行時間を切り上げ、同時に企画レースの拡大を行った[24]。当初は10月30日までの予定だったが、好評だったことから11月以降も継続することが決定した[25]。
午前中の第5レースまでと昼の第8レースをA級・B級の混合戦とし、次のような選手構成でレースをする。
- 現在のレース構成
- 第1レース「サンライズV戦」 1号艇のみA級、他B級(これはGII以上のクラス以外の一般開催では常時第1レースで組まれているもの)
- 第2レース「サンライズW戦」 1号艇・4号艇をA級、他B級
- 第3レース「サンライズX(クロス)戦」 奇数番がA級、偶数番がB級
- 第4レース「サンライズY戦」 1号艇にA級かつ進入固定
- 第5レース「サンライズZ戦」 1・2号艇にA級
- 第8レース「昼どき戦」 1号艇にA級(2010年10月30日より実施)
- 過去のレース構成
- 第4レース「進入固定競走」(1号艇A級とは限らない、2011年7月まで。通常開催時は第5レースであった。)
- 第9レース「昼どきどき戦」 1号艇にA級(2011年8月3日~2012年7月2日)
レース実況
SG開催実績
| 年度 | 施行回 | 競走名 | 優勝者 | 登番 | 出身 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1958 | 第4回 | モーターボート記念 | H 前田道積 R 山岡貫太 | 1056 303 | 長崎 三重 |
| 1964 | 第10回 | モーターボート記念 | 倉田栄一 | 318 | 三重 |
| 1986 | 第32回 | モーターボート記念 | 倉重宏明 | 2036 | 福岡 |
| 2005 | 第8回 | 競艇王チャレンジカップ | 上瀧和則 | 3307 | 佐賀 |
| 2008 | 第18回 | グランドチャンピオン決定戦 | 湯川浩司 | 4044 | 大阪 |
| 2012 | 第22回 | グランドチャンピオン決定戦 | 太田和美 | 3557 | 奈良 |
| 2015 | 第18回 | チャレンジカップ | 笠原亮 | 4019 | 静岡 |
| 2018 | 第21回 | チャレンジカップ | 馬場貴也 | 4262 | 滋賀 |
| 2021 | 第26回 | オーシャンカップ | 濱野谷憲吾 | 3590 | 東京 |
| 2023 | 第50回 | ボートレースオールスター | 石野貴之 | 3590 | 大阪 |
2027年11月には第30回チャレンジカップが当地で開催予定[26]


