マケドニア紛争
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・63~77名が死亡 ・戦車4台、装甲兵員輸送車3台 ・ Mi-17 1機 | ・64~105人が死亡 | ||||||
マケドニア紛争(マケドニアふんそう、マケドニア語: Воен конфликт во Македонија,、アルバニア語:Lufta e vitit 2001 në Maqedoni)は、マケドニア旧ユーゴスラビア共和国(現・北マケドニア共和国)北部で2001年に発生した紛争。
初期の民族解放軍による攻撃
ユーゴスラビアから独立後、おおむね安定していたマケドニア旧ユーゴスラビア共和国国内でも、コソボ紛争によって約25万人[1]のコソボ地域のアルバニア系住民が難民として押し寄せてきた。
人口の3割を占めるアルバニア系住民はかねてより高度な自治を要求していたが、難民流入によってアルバニア民族主義が高まった。
2001年1月22日に紛争は始まり武装したアルバニア人の一団がテトヴォ近郊にある警察署を襲撃した事件が発生した。
同月民族解放軍を名乗る団体が警察署への襲撃を主張した。マケドニアの大統領は民族解放軍はコソボ解放軍によって構成されており隣国コソボから侵入してきたと主張したが民族解放軍は構成員はマケドニア出身であるとした。その後1ヶ月にわたった衝突のあとマケドニア警察特殊部隊が民族解放軍をコソボへと追いやった。
テトヴォでの戦闘

同年3月中旬に民族解放軍はテトヴォ近郊の丘陵地帯に再び現れた、民族解放軍は機関銃、迫撃砲を用いてマケドニア軍の陣地に攻撃を加えた。民族解放軍はすでにコソボ国境付近の7つの村を占領しておりまた山の上にあるため防衛が容易であった。[2]
マケドニア側による反攻作戦
テトヴォでの5日間に及ぶ民族解放軍による攻撃ののち3月18日にマケドニア政府は予備役の総動員令を発令しテトヴォ近郊の民族解放軍に反撃を行った。マケドニア政府は3月25日民族解放軍の陣地に対して攻撃を行い激しい反撃に遭いながらも戦車や迫撃砲の支援を受けながらも丘を登り複数の村を奪還した。その後の攻撃により民族解放軍は多くの陣地を放棄しコソボ国境地帯へと撤退した。[3]民族解放軍がテトヴォ近郊から撤退したことにより紛争は1ヶ月の間沈静化した。
クマノヴォでの戦闘
同年5月初旬大規模な民族解放軍の部隊がコソボからマケドニアのクマノヴォに侵入しいくつかの村を占領した、ファディル・ニマニ(Fadil Nimani)率いる同部隊は5月3日クマノヴォ近郊で待ち伏せ攻撃を行い2名のマケドニア軍兵士を殺害し1人を誘拐したこの3人はマケドニア国境警備隊に所属しており勤務からの帰路で襲撃された。マケドニア側は新たな攻勢を実施するとしたその後数日間複数の村にある民族解放軍の陣地を砲撃し歩兵部隊とマケドニア警察が砲撃ののち前進し複数の村を奪還した2001年6月8日占領されていた残りの村々を占領した。
アラチノヴォの戦い

2001年6月12日にスコピエから北に数キロの位置にあるアラチノヴォに民族解放軍は「自由領土」設置を宣言した6月22日民族解放軍の部隊を一掃するために大規模な攻撃を実施した翌日にはマケドニア軍のSu-25が2機攻撃を加えたマケドニア軍は攻勢を強め民族解放軍の部隊を包囲し戦闘は僅か3日で終結した。
NATOの介入
事件は3月後半から国際社会で認知され、ヨーロッパ各国は行方を憂慮していたが、数か月にわたって小競り合いが続いたため、北大西洋条約機構(NATO)が8月に介入(欠かせない収穫作戦)して、アルバニア系住民の権利拡大を認める和平合意文書(オフリド合意)に調印して停戦、NATO軍が駐留を開始した(オペレーション・アンバー・フォックス)。
その後
11月に合意に基づき議会が憲法を改正、2002年9月の総選挙では、マケドニア人政党「社会民主同盟」が政権を奪還し、NLAが改組したアルバニア人政党「民主統合連合」と連立政権を組んだ。

その後もアルバニア系武装勢力によるテロ事件や、警察との衝突が散発的に起こったが、現在は落ち着き、治安は安定している。