ヴォイスラヴ・シェシェリ
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| ヴォイスラヴ・シェシェリ Војислав Шешељ Vojislav Šešelj | |
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2016年 | |
| 生年月日 | 1954年10月11日(71歳) |
| 出生地 |
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| 出身校 | サラエヴォ大学 |
| 現職 | セルビア急進党党首 |
| 所属政党 | セルビア急進党 |
| 配偶者 | ヤドランカ(Jadranka) |
| 公式サイト | Војислав Шешељ |
ヴォイスラヴ・シェシェリ(セルビア語:Војислав Шешељ / Vojislav Šešelj、IPA:[ˈvɔjislav ˈʃɛʃɛʎ]、1954年10月11日 - )は、セルビアの政治家、セルビア急進党の創設者券党首。ユーゴスラビア紛争に加担した民兵組織「白い鷹」の創設者。ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国サラエヴォ(現在のボスニア・ヘルツェゴビナサラエヴォ)出身。
戦争犯罪および人道に対する罪の容疑で旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷から訴追を受け[1]、2003年2月にハーグに移送された。裁判は2007年11月に開始された[2]。
初期
シェシェリの家族は、ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国のトレビニェ(Trebinje)近くのポポヴォ・ポリェ(Popovo Polje)から移住した。父はモンテネグロ出身で、母はヘルツェゴビナの古いセルビア人の家系の出身であった。シェシェリはサラエヴォ大学で法学を学んで卒業し、後には博士号も取得した。成績優秀であり、ユーゴスラビアで最も若い博士号取得者となった[4]。
アメリカ合衆国アナーバーにあるミシガン大学で政治学を教え、その後サラエヴォに移り1984年まで続けた。1984年にユーゴスラビアの共産主義当局はシェシェリを反革命活動の罪で有罪として、懲役8年を言い渡された。しかし最高裁判所によって減刑され、1986年に出所した。
政治家として
1989年、アメリカ合衆国に戻る。そこで、第二次世界大戦時のチェトニックの指導者モムチロ・ジュイッチ(Momčilo Đujić)によって「チェトニックのヴォイヴォド」(voivoda)の称号を与えられた。ヴク・ドラシュコヴィッチ(Vuk Drašković)やミルコ・ヨヴィッチ(Mirko Jović)と共に、反共主義組織、セルビア民族復興党(SNO)を設立した。後に彼の率いるその分派はセルビア急進党となった。
セルビア大統領でセルビア社会党のスロボダン・ミロシェヴィッチとの関係は、1993年9月ごろまでのユーゴスラビア紛争の初期においては良好であったが、ミロシェヴィッチがボスニア・ヘルツェゴビナ紛争においてスルプスカ共和国の支援から手を引いたことにより対立関係となった。シェシェリはミロシェヴィッチと対立したことにより、1994年から1995年にかけて再び収監された。
1998年、セルビア領のコソボでの暴力が激化したため、ミロシェヴィッチの挙国一致内閣に加わった。
ユーゴスラビア国内で活動する外国メディアや人権団体に反論し、「もし我々が北大西洋条約機構の計画を全てつかむことができないのなら、我々は、各種のヘルシンキ人権委員会や売国奴組織などの手の届く範囲のものはつかむことができる」「外国のプロパガンダの流布に加担したと我々が証明する者たち、ボイス・オブ・アメリカやドイチェ・ヴェレ、ラジオ・フリー・ヨーロッパ、ラジオ・フランス・アンテルナショナル、BBCラジオなどだ。もし彼らが侵略行為をしている場面を我々がおさえたら、彼らは何も良いことを期待することはできない。」[5]と話した。
1998年から2000年までセルビアの副大統領を務めた。コソボ紛争とNATOによるセルビア空爆の間、シェシェリと党はミロシェヴィッチ支持を表明していたが、空爆の続いた3箇月間の後、シェシェリの党は北大西洋条約機構への投降に反対する唯一の政党となった。
ICTYによる拘置
2003年2月、「8件の人道に対する罪と、組織犯罪への加担の疑いによる6件の戦時国際法違反」の罪で旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(ICTY)に自首した[6]。
拘留の間、「重罪人・戦争犯罪者ハビエル・ソラナ」(原題:Kriminalac i ratni zločinac Havijer Solana)と題する著書を発表し、NATOの事務総長がコソボ紛争を引き起こしたとして非難した[7]。
旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(ICTY)は、シェシェリが自身の弁護団を自由に選ぶ権利を否定した後、ハーグで拘束されているシェシェリが28日間のハンガー・ストライキのさなかにあった2006年12月2日、セルビアのベオグラードで3万人がシェシェリ支持の集会を開いた。
セルビア急進党の幹事アレクサンダル・ヴチッチは、「彼は自身の人生だけのために戦っているのではない。彼はここに集まった我々全てのために戦っているのだ。ヴォイスラヴ・シェシェリはセルビアのために戦っているのだ!」と訴えた[8][9]。シェシェリは12月8日に自身の弁護を選ぶことが認められたことにより、ハンガーストライキを終えた[10]。
ハーグに拘置されてはいるものの、2007年1月のセルビア議会選挙(en)の候補者名簿のトップにあった。[11]。
ICTYによると、シェシェリはユーゴスラビア紛争の最中にヴォイヴォディナのクロアチア人追放を組織し加担したとされている[12]。
2016年3月31日、シェシェリ不在の中で無罪判決が言い渡された[13]。
2018年4月11日、ICTYを継承した国際刑事法廷メカニズムは戦争犯罪6件については一審の無罪判決を支持した一方で人道に対する罪3件を有罪とし、禁錮10年の有罪判決を言い渡された。しかしシェシェリはすでに12年勾留されていたため、改めて身柄を拘束されることはないという[14]。