ヴェリコ・カディイェヴィッチ
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イモツキGlavina Donja
| ヴェリコ・カディイェヴィッチ Вељко Кадијевић / Veljko Kadijević | |
|---|---|
| 生誕 |
1925年11月21日 イモツキGlavina Donja |
| 死没 | モスクワ |
| 所属組織 |
|
| 軍歴 | 1942年 - 1992年 |
| 最終階級 | 元帥 |
| 戦闘 |
ユーゴスラビア人民解放戦争 十日間戦争 クロアチア紛争 |
| 除隊後 | 軍事顧問 |
ヴェリコ・カディイェヴィッチ(セルビア・クロアチア語:Вељко Кадијевић / Veljko Kadijević 1925年11月21日 - 2014年11月2日)は、ユーゴスラビアの軍人。最終階級はユーゴスラビア人民軍地上軍元帥[1]。1988年から1992年の辞任まで[2]ユーゴスラビア社会主義連邦共和国における国防大臣の職にあり、十日間戦争及びクロアチア紛争初期における事実上のユーゴスラビア人民軍総司令官であった。
カディイェヴィッチはセルビア人の父とクロアチア人の母の元、ユーゴスラビア王国(現在はクロアチア共和国領)のイモツキにあるGlavina Donjaという小さな村で生まれた。父と母の民族が異なるが、彼自身は「ユーゴスラビア人」を自称した。1942年、彼はユーゴスラビア共産党の党員となり、軍事部門である人民解放軍(いわゆるパルチザン)の一員として第二次世界大戦におけるユーゴスラビア戦線に従軍した。戦後もユーゴスラビア人民軍の軍人として現役に留まり、1963年にはアメリカ陸軍の指揮幕僚大学に留学・卒業している。
カディイェヴィッチはユーゴスラビア社会主義連邦共和国の第5代防衛大臣に就任した。ユーゴスラビア共産主義者同盟が解体された後、彼は共産主義者同盟ユーゴスラビア運動なる後継組織の創設者の1人となった。1991年5月、彼は連邦共和国の閣僚に対する公的な声明の中で「平和の確保に失敗した。ユーゴスラビア軍はより効率的にそれが出来るはずだった」と述べた[3]。その後、彼は全ての役職を辞して軍も退役し、セルビアに隠居した。
2001年春、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(ICTY)はカディイェヴィッチへの接触を図った。彼は証人としての召喚を受けたが、翌日にはモスクワへと逃れていた[4]彼はロシア政府当局に対して難民としての申請を行った。この申請は2008年8月13日にドミートリー・メドヴェージェフ大統領によって承認され、ロシアの市民権を獲得した[5]。2008年にはモスクワにて生活していた事が確認されている[4]。
訴訟手続
カディイェヴィッチに対する最初の公訴は、1992年11月にビェロヴァルにて行われ、2002年にはヴコヴァルにて2度目の公訴が行われた。さらに2006年5月にはオシエク=バラニャ郡司法長官による3度目の公訴が行われた。2007年6月21日、クロアチア内務省は「民間人に対する戦争犯罪」を理由にカディイェヴィッチの逮捕状を作成した[6]。またインターポールも2007年3月23日に逮捕状を作成している[7]。
カディイェヴィッチのロシア市民権獲得後、クロアチア政府はロシア連邦政府当局に対してカディイェヴィッチの引渡しを要求しているが、現在までロシア側は対応していない[8]。
元旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(ICTY)職員のマルコ・アッティラ・ホアー(Marko Attila Hoare)によると、ICTY調査団はミロシェヴィッチ、カディイェヴィッチ、 ブラゴイェ・アジッチ、ボリサヴ・ヨヴィッチ、ブランコ・コスティッチ、モミル・ブラトヴィッチら元高官を「協同犯罪組織」(joint criminal enterprise)として起訴しようと試みたという。 しかしカルラ・デル・ポンテ検事はこれを退け起訴状をミロシェヴィッチのものに限定し、結果としてその他の元高官らは起訴されなかった[9][10]。