1948年のビルマ独立後、現在のラカイン州北部では、ムスリムの住民[2]と仏教徒のラカイン族との間で緊張が高まっていた。1950年代には、ムスリム自治権を求める「ムジャヒディーンの乱」が発生し、治安が悪化していた。
1958年から1960年にかけてのネ・ウィン選挙管理内閣の時代には、ミャンマー軍(国軍)はこの地域の治安回復のため「国境地域管理局(Frontier Areas Administration:FAA)」を設置して直接統治を行った。1961年、ウー・ヌが再び首相に就任すると、「アラカン州」と「モン州」の設置が発表された。
当時、ラカインのムスリムの指導者層は、「ロヒンギャ」としてのアイデンティティを主張するアブドゥル・ガッファー(Abdul Gaffar)の一派と、より広義な「ラカイン・ムスリム(アラカン・ムスリム)」としてのアイデンティティを主張するスルタン・マハムード(Sultan Mohmud)の一派に別れていた。
両者はともにラカイン北部選出の国会議員で、後者はウー・ヌに近く、1960年から1962年まで連邦政府の保健大臣も務めた。両者は「アラカン州」の設置には反対しなかったが、アブドゥル・ガッファーらがラカイン北部にムスリムの「特別区」の設置を求めたのに対し、スルタン・マハムードはアラカン州の下でムスリムと仏教徒の知事が交互に就任することを提案していた。
1961年5月1日、ウー・ヌはラカイン北部にマユ辺境行政区(MFA)を設立した。これは、ムジャヒディーンの乱鎮圧のために、「ロヒンギャ」のアイデンティティを主張するアブドゥル・ガッファーらの意見に与したものであった。
設置記念式典では、当時国軍ナンバー2だったアウンジーが「ロヒンギャ民族、ロヒンギャ指導者、ロヒンギャ宗教指導者」という言葉を使って、国軍への協力と情報提供を呼びかけたという記録が残っている。ミャンマー学者の中西嘉宏は、アウンジーの発言は、国境の東側にいるのがロヒンギャで、西側にいるがパキスタン人という認識にもとづいており、ロヒンギャを「土着民族」と見なしているものだと指摘している。
ただ、MFAは政府直轄地と言っても、国軍の管理下にあり、その性格は、ムスリムの自治を認めるというより、むしろネ・ウィン選挙管理内閣下で設立されたFAAの後継組織と言えるものだった。
ともあれ、これによって「アラカン北部」設立を目的に掲げるムジャーヒディーンの存在意義はなくなり、同年6月29日、マウンドーにおいて、ムジャヒディーンのメンバー291人が政府に降伏し、反乱は事実上終結した。
1962年ビルマクーデターにより、ネ・ウィン率いるビルマ連邦革命評議会がすると、社会のビルマ化が推進され、1964年2月、MFAは廃止され、再びアラカン管区に組み込まれた。
MFAが存在した短期間、ラカイン州北部における国軍および治安部隊のムスリムへの対応は改善を見せた。当時、ロヒンギャの名を冠した団体やロヒンギャ語のラジオ放送などが認められていたこともあり、MFAの時代は自由と雇用機会が保障された「黄金期」として、今なおロヒンギャの人々の間で憧憬をもって語り継がれている[11]。