ロヒンギャの民族運動

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ロヒンギャの旗

ロヒンギャの民族運動(ロヒンギャのみんぞくうんど)は、ミャンマー西部のラカイン州(旧アラカン州)に居住するムスリム集団「ロヒンギャ」による、自治権の確立、市民権の獲得、および民族的アイデンティティの承認を求める政治運動および武装闘争の総称である 。

本運動は、イギリス植民地時代にベンガル地方から流入したムスリム定住者と、先住のラカイン族(仏教徒)との対立を背景に持つ 。第二次世界大戦中のコミュニティ紛争を経て、1948年のビルマ独立前後には、パキスタンへの併合や独立を掲げる武装組織「ムジャーヒディーン」が活動した 。

1950年代には一部が議会政治へ参加し、この過程で「ロヒンギャ」という名称が政治的に用いられ始めた 。しかし、1962年のネ・ウィンによる政権掌握以降、国軍はロヒンギャを「不法移民」とみなし、1982年の国籍法改正で事実上の無国籍状態に置いた。

1990年代以降はロヒンギャ連帯機構(RSO)などの武装活動と、それに対する国軍の掃討作戦が繰り返され、2017年の「ロヒンギャ危機」では累計90万人以上の難民がバングラデシュへ流出した 。現在、州内ではラカイン族武装組織アラカン軍(AA)と国軍の戦闘が激化する中、一部のロヒンギャ武装組織が国軍側に付くなど情勢は複雑化している

前史

ラカイン地方(旧アラカン)の初期史については、歴史学・考古学的な見地と、ロヒンギャ側の民族的アイデンティティにもとづく主張との間で大きな隔たりがある。

歴史学の主流派や考古学者の見解では、9世紀頃にチベット・ビルマ語族ラカイン族がこの地にやってきたと考えられており、それ以前の正確な歴史については未解明な部分が多い。一方で、ロヒンギャの歴史家であるチョーミンティンなどは、ラカイン地方の遺跡に見られるヒンドゥー教の影響や、10世紀以前のミャンマー語碑文の欠如を根拠に、インド系の人々こそがこの地の先住民であり、彼らが後にイスラム教へ改宗した集団がロヒンギャであると主張している[1]

ロヒンギャ側の歴史言説では、以下のような説が自民族の正当性を示す根拠として提示されることがある[1]

  • 1917年、官報の『ビルマ・ガゼット英語版』にアキャブのイギリス人副長官が、マハタイン・サンダヤ(Mahataing Sandaya)の統治期間中(紀元788~810年頃)に「数隻の船がラムリー島で難破し、ムスリムと思われる乗組員がアラカン本土に送られ、村に定住した」と書いているが[注釈 1]、この難破船の生存者はアラブ人男性であり、地元の女性との結婚を通してロヒンギャの祖先となった[2]
  • 「ロヒンギャ」の祖先はアラカンに住み、アラカン仏教徒が到着するずっと前からイスラム教を受け入れており、「アラカン」または「ラカイン」という名称はペルシャ語またはアラビア語(ラハム)に由来している[2]
  • 10世紀までに、多くの地元住民がイスラム教に改宗し、ラカイン地方北西部にムスリムの王国があった[2]
  • ロヒンギャの祖先は、預言者ムハンマドの孫でシーア派の指導者・アリー・イブン・アビー・ターリブを支持し、680年にカルバラーの戦い(現在のイラク)から逃れ、マウンドーに上陸した[2]
  • ロヒンギャは初期のアラブ人とペルシャ人と、アフガニスタン人、ベンガル人、ムガル人、インド洋周辺の他のムスリムとの混血である[3]

しかし、これらの主張に対しては、多くの歴史家や考古学者から「一次資料や考古学的裏付けを欠いている」との批判がある。批判側は、これらの説が事実の自由主義的な解釈や、近現代の政治的目的(土着民族としての承認)に沿った歴史修正主義に基づいていると指摘しており、学術的な合意には至っていない[1]

ただし、ジャーナリストのバーティル・リントナーは、次のように述べて、ロヒンギャ先住民説を唱えている[4]

そこ(ラカイン州)には昔からムスリムが住んでいました。それはたしかです。その地域の自然を見れば、そこはインド亜大陸が終わり、東南アジアが始まる場所です。そこにはナフ川があり、現在はバングラデシュとミャンマーの国境になっています。何世紀にもわたり、川の両岸にはムスリムと仏教徒が住んでいました。何も悪いことはなかったのです。そしてラカイン州北西の隅にも昔からムスリムが住んでいました。そのことにはまったく疑問の余地はありません。バーティル・リントナー

アラカン王国時代(1430年 - 1784年)

アラカン王国は仏教王朝だったが、インド人、アラブ人、ペルシャ人、ポルトガル人などさまざまな人々が訪れる海洋王国であり[注釈 2]、他の民族・宗教・文化に寛容だったと伝えられる。少数派のムスリムも多数派のラカイン族仏教徒と共存しており、初代王のミンソーモン英語版(在位1429年 - 1433年)本人は仏教徒だったが、強大であった隣国・ベンガル王国への忠誠を示すために「スレイマン・シャー」というムスリムの称号を名乗っていた。1531年にアラカン王国が完全に主権を主張できるようになるまで、11代にわたる彼の後継者たちはそのひそみに倣った。また、ミンソーモンは、片面にラカイン語で仏教の称号を、もう片面にベンガル語ペルシャ語シャハーダ[注釈 3]が刻まれた硬貨を発行していた。ラカイン地方の最初の歴史的なモスクと言われている、ミャウウー東部郊外のサンティカン・モスク(Santikan Mosque)は、ミンソーモンとベンガル出身のムスリムの兵士によって、1430年代に建設されたものと伝えられている[5]

コンバウン朝時代(1784年 - 1826年)

コンバウン朝がアラカン王国を征服すると、その支配を嫌った20万人以上のラカイン族やムスリムは、現バングラデシュ領チッタゴンスンダルバンスに逃亡した。後者はイギリス人とベンガル人から「マグ」、ラカイン地方に残ったラカイン族からはアナウター(Anaukthar)と呼ばれ、そのまま当地に定住した者もいた[6]

イギリス植民地時代(1826年 - 1942年)

ラカイン州の地図

1826年、コンバウン朝は第一次英緬戦争の敗北に伴い、ラカイン地方をイギリスに割譲した。1886年の第三次英緬戦争によって同王朝が滅亡し、ミャンマー全土が英領インドビルマ州に編入された際、ラカイン地方はすでに60年に及ぶ植民地支配下にあった。1948年の独立まで、ミャンマー全土の植民地期が約60年であったのに対し、ラカイン地方はその2倍にあたる約120年にわたりイギリスの統治を受けたことになる。

イギリスは植民地経営において経済的利益を最優先し、国際的な米価格の上昇を背景に、ラカイン地方での稲作拡大を推進。その労働力を確保するため、近隣のベンガル地方(現バングラデシュ等)からの組織的な移民奨励策がとられた。1856年には英印水運会社英語版が設立され、ベンガル地方からラカイン地方への定期船を運用し、多くの移民が流入、その約半数がそのままラカイン地方に定住したという記録も残っている[7]

入植者の大半はムスリムで、彼らは単なる季節労働者ではなく、政府から空き地や荒れ地の貸し付けを受けて定住した耕地所有者であった[8]。また、彼らの多くラカイン北部に定住し、南部のラカイン族との住み分けがなされた[9]1930年1938年ヤンゴンでは大規模な反インド系移民暴動が発生したが、ラカイン地方ではほとんどコミュニティ紛争は見られなかったとされる。その理由について、ラカイン研究の第一人者であるジャックス・P・ライダー英語版は、(1)当時のラカイン地方北部は人口密度が低く、耕作可能な空き地が十分あった、(2)ムスリムとラカイン族との間に住み分けができていた、(3)ラカイン族の耕地所有者がムスリムの季節労働者の労働力に依存していたからと分析している[10]

ただ、こうした共存の裏側で、北部のマウンドー郡区などではムスリム人口が爆発的に増加しており、1921年時点で約6.8万人に達していたという記録もあり、ライダーはラカイン族の人々はこのムスリムの急増に困惑していたと指摘している。この人口動態の変化は、後の独立期における民族間対立や、ミャンマー軍(国軍)が抱く「ミャンマー西門の危機」という脅威認識へと繋がる歴史的伏線となった[7][11]

一方、1937年にミャンマーが英領インドから分離して英領ビルマになると、ムスリムが多数住むインドから切り離されたことを背景に、ラカイン地方のムスリムの間でも民族的な結束の必要性が強く認識されるようになった。こうした流れの中で、オムラ・メア(Omura Meah)という人物がジャミアトゥール・ウラマ・イスラム(Jamiatul Ulama Islam)という組織を設立した[注釈 4][12]

第二次世界大戦時(1941年 - 1945年)

1942年、日本軍の侵攻によりイギリス軍がラカイン地方から撤退すると、それまでの植民地支配による「重し」が外れ、潜在していた仏教徒(ラカイン族)とムスリムの対立が一気に表面化した。この時期の混乱は、両集団の間に決定的な亀裂を生じさせることとなった[13]

1942年4月3日、日本軍より一足先にシットウェ(アキャブ)に到着したビルマ独立義勇軍(BIA)の部隊が、シットウェの南にあるミンビャ(Minbya)、ミエボン(Myebon)、パウトー(Pauktaw)において、現地ムスリム住民への襲撃を開始した。この攻撃によって多くのムスリムが殺害・追放され、さらに6月には、BIAがチャウトー(Kyauktaw)においても、BIAによるムスリム居住区への放火やモスクの破壊が相次いだ。これらの苛烈な行動の背景には、BIAの主力であったビルマ族兵士たちが、ムスリムと接する機会が乏しい中で抱いていた根深い反ムスリム感情があったとされる[14]

一方、ラカイン地方北部のブティダウン英語版マウンドーに逃亡したムスリムも、当地で仏教施設やラカイン族の家屋を襲撃・破壊するなどの報復行動に出た。またこの時期、ラカイン族がビルマ国民軍(BNA)傘下のアラカン防衛軍(Arakan Defence Army:ADA)に編成される一方、ムスリムはイギリス軍が結成したVフォース英語版に編成されて諜報・破壊活動に携わり[15]、双方の対立が悪化した。一説には、この一連のコミュニティ紛争による死者はムスリム・ラカイン族双方で4万人に達したと言われ、現在のバングラデシュ領(当時の英領インド)への避難民も発生した[10][14][16][17]

独立期(1945年 - 1947年)

独立前後の混乱期、ラカイン地方北部にはバングラデシュ(当時東パキスタン)からムスリムの不法移民が流入し始めた。1947年2月に英ビルマ総督が英インド総督に宛てた手紙には、ブティダウンとマウンドーに約6万3千人の不法移民がいたと記されており、他にも1940年代から1960年代にかけて、バングラデシュ(当時の東パキスタン)からラカイン地方へ絶えず不法移民が流入していたことを示唆する公文書が多数存在する[18]

これらの新たな移民は、それ以前の定住ムスリムとは区別され「ムジャヒッド(Mujahid)」と呼ばれた。彼らは強い分離主義を掲げ、1946年3月にはイスラム解放機構(Muslim Liberation Organization:MLO)を結成して武装闘争の準備を開始したほか、同年7月にはアラカン北部・ムスリム連盟(North Arakan Muslim League:NAML)が結成され、バングラデシュの合併を主張した[19]

ムハンマド・アリー・ジンナー

一方、独立前からラカイン地方に住んでいたムスリム・エリートから構成されるジャミアトゥール・ウラマ・イスラムも、1946年5月と1947年7月の2度、パキスタンのカラチを訪れ、指導者のムハンマド・アリー・ジンナーにラカイン地方北部をパキスタンに併合するよう要請した。しかし、ジンナーはミャンマーの内政問題であると一蹴し、これを拒否[18]。のちに、アウンサン将軍と会談したジンナーは、次のような見解を表明している[20]

ラカイン州マウンドーとブディダウンをパキスタンに併合するよう、 チッタゴン出身のベンガル人らが求めているが、これは絶対に認めてはならない。またムスリムは、 ミャンマーだけでなく、いかなる土地においても占拠または地権譲渡など考えていない。バングラデシュ東部から来たほんの一握りのムスリムの要求であり、 何も心配する必要はない。ムハンマド・アリー・ジンナー

1947年2月に開催された第2回パンロン会議にはラカイン地方のムスリムは招待されず、ジャミアトゥール・ウラマ・イスラムはこれに抗議して、マウンドー、ブティダウン、ラテーダウンの各郡区にムスリムの「自治国家」を創設するようイギリス政府に要求する書簡を送ったが、イギリス側はこれを黙殺した。結局、ラカインは「管区ビルマ」を構成する7つの管区の1つである「アラカン管区」に編成された[21]

こうした拒絶を経て、ムスリム社会の不満は次第に武装闘争へと傾斜していった。1947年8月20日、「ムジャヒッド」の1人であるジャファル・フセイン(Jafar Hussain)という地元の人気歌手が、ブティダウンで数百人の有志を募り、ムジャーヒディーン[注釈 5]という武装組織を結成し、ダボリ・チャウン宣言において「アラカン北部」と呼ばれるムスリム自治国家の設立を宣言した[22]

1948年のビルマ独立後、中央政府の統治能力が及ばない混乱に乗じる形で、ラカインのムスリム住民の間では、自らのアイデンティティ確立と自治権獲得、さらには分離独立を求める機運がかつてないほどに高まっていくこととなった[20]

議会政治時代(1948年 - 1962年)

政党の政治への参加と「ロヒンギャ」の誕生

1940年代末から1950年代にかけてのアラカン管区は、複数の武装勢力が割拠する複雑な紛争地であった。北部山岳地帯では分離独立を標榜するムジャーヒディーンが活動していた一方、中部から南部にかけてはビルマ共産党(CPB)や人民義勇軍(PVO)、さらにラカイン族を主体とするアラカン人民解放党(APLP)が勢力を伸ばしていた。当時、ミャンマー全土が内戦状態に陥っていたため、中央政府および国軍はアラカン管区にまで手が回らず、その権力の空白の隙を突かれた形だった[23]。アラカン管区当局は、1942年~1944年の虐殺の再来を非常に恐れていたという記録が残っている[24]

アブドゥル・ガッファー

こうした武力闘争の一方で、都市部のムスリム・エリート層は議会政治を通じた地位確立を模索した。当時、1947年憲法および1948年国籍法にもとづいて、アラカン管区のムスリムにも『国民登録証(NRC)』が発行され、参政権も認められていた。1947年、1951年、1956年の総選挙では、全国的なムスリム組織・ビルマ・ムスリム会議英語版やジャミアトゥール・ウラマ・イスラムの支援を受けて、マウンドー郡区とブティダウン郡区からムスリム議員を複数輩出した。中でもアブドゥル・ガッファー(Abdul Gaffar)とスルタン・マハムードSultan Mohmud)は有力議員と目されており、スルタン・マハムードは1960年から1962年まで連邦政府の保健大臣も務めた[25]

彼らは武装闘争には否定的であり、1949年10月にはアラカン・ムスリム和平使節団を結成してムジャーヒディーンの元を訪れ、武装解除するように説得を試みたが、失敗に終わった[26]。しかし、反乱の長期化に伴い、地元の仏教徒(ラカイン族)からは「不法移民」や「共産勢力の協力者」という疑念の目が向けられるようになった。こうした社会的・政治的圧力を背景に、アブドゥル・ガッファーらは、自らを「ムジャヒッド」と区別しつつ、政治的主体としての正当性を主張するため、「ロヒンギャ」という民族名称を積極的に用い始めた(cf.ロヒンギャ#「ロヒンギャ」の誕生[注釈 6][27]

マユ辺境行政区とムジャヒディーンの乱鎮圧

マユ辺境行政区

1950年代後半、与党・反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)の分裂という政治的混乱の中で、首相のウー・ヌはムスリム票の確保を目的としてロヒンギャへの譲歩を強めた。この点、SLORC/SPDC時代に第一書記および首相を務めたキンニュンは「AFPFL時代には、選挙に勝つためにベンガル人を呼び寄せ、国民登録証を発行していた」と批判している[28]

しかし、ロヒンギャのエリート層はこの政治的不安定を好機と捉え、自分たちの自治権拡大の要求するため、ロヒンギャの名前を冠したさまざまな政治団体を結成した。1961年5月1日には、ロヒンギャの「行政分離」の要求を一部受け入れる形で、政府はアラカン管区北部にマユ辺境行政区(MFA)を設立した。これは政府直轄地であり、その性格は、ムスリムの自治を認めるというより、むしろ1958年~1960年のネ・ウィン選挙管理内閣下で設立された反乱軍、密輸業者、不法移民の取締りを目的とした国境地域管理局(FAA)の後継組織と言えるものだった[28]。しかし、ロヒンギャにとっては、「自分たちの人種的地位が政府に認められた」証として、現在でも憧憬の念をもって振り返られることが多いと言われている[29]

MFA設置により、分離独立を掲げていたムジャーヒディーンは存在意義を失い、1961年7月4日に政府へ降伏した。しかし、ロヒンギャが獲得したこれらの特権は、地元のラカイン族の強い反発と、軍部が抱く「人口動態の変化による国家安全保障への脅威」という危機感を増幅させることとなった[30][31]

ビルマ社会主義計画党(BSPP)時代(1962年 - 1988年)

ロヒンギャ独立戦線(RIF)結成

1962年にクーデターを起こして成立したネ・ウィン率いる革命評議会[注釈 7]は、国民を土着民族(タインインダー)とそれ以外に二分した。その姿勢は、ネ・ウィン自身が起草した唯一の演説と言われる、1964年2月12日連邦記念日の演説に表れている[32]

すべてのタインインダーの友愛と団結が経済、社会が繁栄し、また安定して統一された国家を建設するうえで基本となることを、すべてのタインインダーは受け入れる必要がある。タインインダー間の友愛と団結のためには、カチン族、カレンニー族、カレン族、チン族、ビルマ族、シャン族その他のビルマ連邦に住むタインインダーたちは、どんなことがあっても、生涯に渡ってともに協力する必要がある。それができたときだけ、タインインダーたちはお互いに手と手をとって、連邦やそこに住む諸民族のために、信頼とともに働けるだろう。ネ・ウィン

これにより、行政用語と学校教育のミャンマー語化、非ミャンマー語の出版物の禁止といった同化主義的な政策が推進され[33]、ロヒンギャが公職に就けなくなったり、ロヒンギャ語のラジオ放送が廃止されたり、ロヒンギャの名を冠した組織が解散させられた[注釈 8][34]。1964年2月1日にはMFAも解体された[35]

こうした風潮に反発を覚えた、ヤンゴン大学に通うロヒンギャ学生・ジャファル・ハビブ(Jafar Habib)が、1964年4月26日、ロヒンギャ独立戦線(RIF)という組織を結成した。ロヒンギャの名前を冠した最初の武装組織であり、スルタン・マハムードが後見人となった[36]。彼らはサウジアラビア、イラク、アルジェリア、スーダン、シリア、クウェート、モロッコ、エジプト、ヨルダンなどムスリム諸国の各大使館を回りロヒンギャの窮状を訴えるロビー活動を繰り広げた[37]。また若手メンバーは、ムジャーヒディーンの残党であるロヒンギャ解放党(RLP)に参加して戦闘経験を積み[38]、1973年にRLPが壊滅した後は、その残党も加えてロヒンギャ愛国戦線(RPF)に改組した[39]

ナガーミン作戦

この時代は、不法移民が大きな社会問題となっていた。シャン州カチン州チン州などからも不法移民が流入していたが、ラカイン州[注釈 9]からの流入はそれらよりはるかに大規模であり[40]、1970年代後半にはラカイン州北部に住むロヒンギャにはNRCは発行されなくなり、多くのNRCが当局に押収されたとも伝えられる[注釈 10]。1971年に第3次印パ戦争が勃発した際には、約50万人の難民がバングラデシュからラカインに流入したとも言われているが、推計には大きな幅がある[41]

このような事情を背景に、ラカイン州においては、チーガン作戦(1966年10月~12月)、シュエチーガン作戦(時期不明)、ミャッモン作戦(1969年)、ザベー作戦(1974年)と名づけられた不法移民取り締まりを目的とした人口調査が頻繁に実施された。しかし、取り締まりが不徹底であったため、違法移民の流入は止まらなかったのだという[42]

1977年には、カチン州チン州ヤンゴンで不法移民取締りを目的とした、より大規模な「ナガーミン作戦」が実施された。ラカイン州でも1978年2月から実施されたが、これが住民にパニックを引き起こし、約30万人のロヒンギャ難民がバングラデシュに流出する事態が生じた。この際、スルタン・マフムードもバングラデシュに逃れ、3年後に当地で亡くなっている。その後、ミャンマー・バングラデシュ両国の協定にもとづき、大半の難民が帰国した[43][44]

ロヒンギャ連帯機構(RSO)結成

しかし、このロヒンギャ大量流出劇の際になんら有効な手を打てなかったことで、RPFの組織内の不和が生じ、1982年の国籍法改正によりロヒンギャが実質無国籍状態に陥ったのを機に、元弁護士のヌルル・イスラームと医師のモハメド・ユヌス(Mohammed Yunus)がRPFの過激派を率いてロヒンギャ連帯機構(RSO)を結成した[45]

RSOはより厳格なムスリム路線を取り、チッタゴンのウキアにキャンプを設け、サウジアラビアの慈善団体がコックスバザールに建設した難民キャンプを維持しつつ、バングラデシュのジャマーアテ・イスラーミー、アフガニスタンのヒズベ・イスラーミー・ヘクマティヤール派(Hizb-e-Islami)、インド・カシミール地方のヒズブル・ムジャーヒディーン、マレーシアのイスラーム青年運動(Angkatan Belia Islam )などと連携した[45]。当時、ソ連軍と戦った経験のあるアフガニスタン人の退役軍人の教官がおり、100人ほどのRSO兵士が、アフガニスタンのホースト州でヒズベ・イスラーミー・ヘクマティヤール派の軍事訓練を受けたと伝えられる[16]。また、タイの武器商人から購入したRPG、機関銃、ライフルなどの兵器をバングラデシュの武装組織に供給し、件の武装組織のメンバーに軍事訓練を施したとも言われている[45]

しかし、他のロヒンギャ指導者たちが組織の急速な方向転換に反対し、結局、RSOはミャンマー国内ではまったく武装闘争を行えなかった[46]。1986年から1987年にかけて、ヌルル・イスラーム率いるRSOの一派とRPFの残党が同盟を組み、アラカン・ロヒンギャ・イスラム戦線(ARIF)を結成した[47]

「非ロヒンギャ」組織・アラカン解放機構(ALO)の設立

一方、ロヒンギャの武装勢力が台頭する懸念を抱いていたラカイン族の人々と、必ずしも「ロヒンギャ」と自認しておらず、「アラカン・ムスリム」と自認していた多くのラカイン州のムスリムの人々の意を汲んで、「アラカン・ムスリム」を自認し、妻はカマン族[注釈 11]という背景を持つウー・チャウフラー(U Kyaw Hla)という人物が、アラカン解放機構(Arakan Liberation Organisation:ALO)を結成した[48]

彼はラカイン州のムスリムを「非ロヒンギャ」と定義づけることで、他の武装勢力と協力して勢力拡大を図り、少数民族武装勢力の同盟・民族民主戦線(NDF)への加盟を模索した。しかし、反ロヒンギャの方針を打ち出していたラカイン族の武装組織・アラカン解放軍(ALA)の反対に遭って実現しなかった[注釈 12]。その後、ALOはカレンニー軍(KA)から軍事訓練を受け、1986年にバングラデシュとの国境地帯に拠点を設けようとしたが、これも他のロヒンギャの武装勢力によって武装解除され挫折、実質、活動停止に追い込まれた[49]

その後、ALOはビルマ・ムスリム解放機構(Muslim Liberation Organisaition of Burma:MLOB)に改組され、その後10年間、一定の政治力を持ち続け[49]8888民主化運動後、少数民族武装勢力と民主派勢力の連帯の機運が高まった際には、ビルマ民主同盟(DAB)とビルマ連邦国民政府(NCGUB)の創設にも関与した[50]

SLORC/SPDC時代 (1988年 - 2011年)

マウンドーの暴動と1990年総選挙

1988年、全土で8888民主化運動が激化するなか、中央政府の統治能力が著しく低下し、地方行政において権力の空白が生じた。この隙を突く形で、同年5月13日、約5万人のロヒンギャがマウンドー郡区を包囲し、ラカイン族の村々や政府機関、寺院を標的とした大規模な襲撃・虐殺未遂事件が発生した[20]

暴徒らは「イスラム国家の樹立」を叫び、ラカイン族の住居や宗教施設を次々と破壊・放火したとされる。現地に駐屯していた国軍の第18野戦砲兵大隊などが武力介入し、辛うじて全面的な虐殺の事態は回避されたものの、この事件は現地のラカイン族コミュニティに深刻な恐怖と不信感を植え付けた[20]

1990年に実施された総選挙では、ロヒンギャにも参政権が与えられ、ロヒンギャ政党・人権国民民主党英語版(NDPHR)が4議席を獲得した[注釈 13]。しかし、選挙結果を受け入れなかった国家法秩序回復評議会(SLORC)は、各政党に対する弾圧を開始し、NDPHRも1992年に活動禁止処分を受けた[51]

清潔で美しい作戦

1980年代末、国軍は民主化運動の混乱に乗じたロヒンギャやラカイン族武装勢力の活発化に強い警戒を抱いていた。当時、国軍はラカイン州に関する3つの不穏な情報を入手していたとされる[52]

  1. 反政府勢力の合流:元ALA司令官ボー・カインラザ(Bo Khaing Raza)率いるアラカン軍(AA)[注釈 14]が、アラカン民族統一戦線(NUFA)[注釈 15]などと協力するためにカレン民族同盟(KNU)支配地域から三国境地帯[注釈 16]まで海路で移動し始めた。
  2. 武装の強化:RSOとARIFが新たな兵器と資金を得て、三国境地帯で軍事訓練を強化していた。
  3. KNUの進出:KNUがエーヤワディ・デルタ地帯に再進出しようとしていた。

これが実現すれば、カレン州 - エーヤワディー地方域 - ラカイン州が1つに繋がり、反政府統一戦線を構築される危険性があった。そこで国軍は、1991年から1992年にかけて大掛かりな掃討作戦を開始。まず1991年4月にAAとNUFAとの合流を阻止し、1991年後半には、エーヤワディー地方域ボガレ英語版に侵入したカレン民族解放軍(KNLA)の小部隊を壊滅させた。さらに、1991年から1992年にかけては、ラカイン州北部でRSOおよびARIF掃討を目的とした「清潔で美しい国作戦」を発動し、約25万人のロヒンギャ難民がバングラデシュに流出する事態となった。この際も、ミャンマー・バングラデシュ両国の協定にもとづき、大半の難民が帰国した[53]

国境地帯入国管理機構(ナサカ)

その後政府は、1992年6月にラカイン州北部に「国境地帯入国管理機構(ナサカ)」を設置した[注釈 17]。ナサカは軍情報局員によって率いられた組織で、軍情報部、法執行部、入国管理局、税関で構成され、その任務は(1)不法入国の取締り、(2)密輸の取締り、(3)治安維持、(4)諜報活動だった[54]

しかし、強大な権限を持つナサカでは汚職が蔓延し、賄賂と引き換えに不法入国を見逃すケースも散見された。一方、政府は「人口動態の是正」を目的に、仏教徒のためのモデル村(ナタラ村)を24か所設置した。ここには全国の刑務所からの出所者なども移住させられ、2007年時点で約1,700世帯が居住していた[16]

ロヒンギャ武装勢力の活動停滞

清潔で美しい国作戦で大打撃を受けたRSOは再起を図り、1994年4月28日、マウンドーで爆弾テロ事件を起こしたが、民間人に4人の死傷者を出しただけに終わり、逆に国軍の反撃を受け、30人ほどの兵士を失った[55]。この失敗によりRSOは武装闘争に見切りをつけ、1998年にはARIFと再合併してアラカン・ロヒンギャ民族機構英語版(ARNO)を結成した。さらに2000年には、NUPAと連帯してアラカン独立同盟(Arakan Independence Alliance:AIA)を結成。これは長年対立してきたロヒンギャとラカイン族が同盟を組む画期的な試みだったが、むしろこの組織への対応を巡ってラカイン族の武装組織同士、さらにロヒンギャとラカイン族の対立が深まり、AIAが泰緬国境に軍事基地を設立しようとすると、ALAはこれを阻止する事態が生じた[56]

2003年には、バングラデシュ当局がチッタゴンとコックスバザールにあるARNO事務所を捜索し、数百人のARNOのメンバーが銃器密売・麻薬密売の容疑で一斉検挙され壊滅的打撃を受け、武装闘争からの引退を表明した。同年4月、ARNOの武装組織・ロヒンギャ民族軍(Rohingya National Army:RNA)がマウンドーのナサカの事務所を2度攻撃して少なくとも4人の警察官を殺害したという事件が発生したが[57]、以降、大規模な組織的武装闘争は沈静化した。その後、ARNOから分裂した複数の武装組織がRSOを名乗り、ハルカトゥル・ジハード・アル・イスラーミー(HuJI)などのバングラデシュの過激派組織と連携して、潜伏活動を続けていたと伝えられる[45][58]

イスラーム復興運動とコミュニティ紛争の萌芽

この時代には、イスラーム復興運動の影響がミャンマーにも及び、ミャンマー国内のムスリムがムスリムらしい格好をして、モスクでの礼拝に列をなし、「786」と書かれたムスリム商店が街中に増える現象が起きた。その変化を感じ取った仏教徒の間では、ムスリムの武装勢力だけではなく、ムスリムの存在そのものを脅威とみなす雰囲気が強まり、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件でそれは決定的となったとされる。またロヒンギャ難民に対する国際機関や国際NGOの支援も、「ロヒンギャを優遇している」と特にラカイン族の人々の反感を買ったと伝えられる[59]

またこの頃、仏教徒・ムスリム間のコミュニティ紛争の萌芽が見られた。1997年3月16日、マンダレーでムスリムの男性が仏教徒の少女を強姦したという噂が広がり、僧侶を含む仏教徒の暴徒がモスクを襲撃、警察の治安部隊(ロンテイン)がこれに発砲し、少なくとも修行僧1人が死亡した。この暴動は、ヤンゴン、モーラミャインピンマナタウングーピイにも波及し、各地で夜間外出禁止令が出された。2003年10月19日には、タンシュエSPDC議長の故郷であるチャウセ英語版で、仏教徒・ムスリム間の衝突が発生してムスリム10人が殺害される事件が起きた。この際、5人の僧侶が逮捕され懲役25年の刑を受けたが、そのうちの1人がのちに969運動ミャンマー愛国協会(マバタ)で活躍するはアシン・ウィラトゥである。この後、僧侶たちの逮捕理由を問い質すために600人の群衆が集まったが、国軍がこれに向かって発砲し、僧侶3人が死亡した。これをきっかけに暴動が全国に拡大し、托鉢で使う鉢を伏せて布施を拒否する覆鉢(ふくばち)も行われ、さらに僧侶20人が逮捕された[60]

テインセイン時代(2011 - 2015年)

2010年の総選挙では、再びロヒンギャにも参政権が認められた。ロヒンギャ政党としては国民発展民主党(National Democratic Party for Development:NDPD)と国民発展平和党(National Development and Peace Party:NDPP)が選挙に参加した。後者はロヒンギャの政治活動家で、国軍系政党・連邦団結発展党(USDP)の候補者だった不動産王・アウンゾーウィン英語版がNDPD潰しのために結成した政党と言われており、人々の支持は薄かった。選挙の際、USDPは、USDPへの投票と引き換えに、ラカイン州のロヒンギャに『仮登録証明書(TRC)』を発行した。選挙の結果、NDPDは連邦議会では議席を獲得できなかったが、州議会で2議席を獲得。USDPからは連邦議会と州議会合わせて5人のムスリム議員が当選したが、その中にはロヒンギャを自認するアウンゾーウィンとシュエマウン英語版がおり、2人とも連邦議会で当選を果たした[61]。ただ、テインセイン政権下で推進された全国停戦合意(NCA)において、ロヒンギャやムスリムの代表が招待されることはなかった[62]

また、テインセイン政権下で言論の自由が広がり、ネットが自由化されたことにより、Facebook[注釈 18]にはムスリムヘイトが溢れるという皮肉な現象が起きた。これはアシン・ウィラトゥが率いる969運動、それを受け継いだミャンマー愛国協会(マバタ)が扇動したものであると考えられていた。2012年5月にはラカイン族の少女が、ロヒンギャの男性に強姦されて殺害された事件をきっかけに両者の間で衝突が発生。10月までに150人以上が死亡、10万人以上のロヒンギャがバングラデシュに流出する事態が生じた[63]。この事件以降もラカイン州ではムスリムと仏教徒の衝突が頻発し、ラカイン州以外でもメイティーラ、ヤンゴン近郊のオッカン、ラーショーで反ムスリムの暴動が発生し、多数の死傷者が出た。激しい国際的非難を受けて、政府は、以前よりロヒンギャの人権を侵害していると国内外から批判されていたナサカを解散した[注釈 19]。しかしその一方で、2015年にはムスリムに対して差別的な民族保護法4法(改宗法、女性仏教徒の特別婚姻法、人口抑制保健法、一夫一婦法)を制定した[64]

また同年2月、テインセイン大統領が、『仮登録証明書(TRC)』を所持するロヒンギャに選挙権を付与する案を提示すると、マバタが主導する激しい反対運動が巻き起こり、政府は撤回を余儀なくされた。さらに政府は、TRCは同年3月31日に失効するため、5月末までに返却するよう発表し、代わりに6月から『国民証明書(NVC)』の交付を開始した。しかし交付の際、当局がロヒンギャに対して「ベンガル人」と自認することを求めたり、NVCを受け取ろうとした者が正体不明の集団に脅迫されたりしたことから、交付率は著しく低くとどまり、結果として約50万人の成人ロヒンギャが2015年総選挙での参政権を失うこととなった[注釈 20][65]

NLD時代(2016 - 2020年)

ロヒンギャ難民

2015年の総選挙国民民主連盟(NLD)が大勝利を収めNLD政権が成立すると、国家顧問に就任したアウンサンスーチーは、元国連事務総長コフィー・アナンを長とするラカイン州諮問委員会英語版を設置して、ロヒンギャ問題を含むラカイン州のさまざまな課題に取り組む姿勢を見せた。しかし、同時並行で取り組んでいた少数民族武装勢力との和平会議・連邦和平会議 - 21世紀パンロンには、ロヒンギャの代表は1度も呼ばれなかった[66]

2016年10月19日、正体不明の武装組織が、ラカイン州の国境警備隊の複数の監視所を銃や爆弾で襲撃して、警察官9名が殺害される事件が発生。2017年8月25日、ラカイン州諮問委員会が最終報告書を提出した翌日、今度はアラカン・ロヒンギャ救世軍(ARSA)と名乗っていた武装組織が、鉈や竹槍で武装した約5,000人住民を引き連れて、約30ヶ所の警察署を襲撃するという事件が発生し、約70万人のロヒンギャ難民がバングラデシュに流出するという未曾有の流出劇が発生した(ロヒンギャ危機)。

このようにして、新たにバングラデシュに逃れたロヒンギャ難民は、2016年10月から2017年6月15日までに7万5千人、2017年8月25日から2018年8月までに72万5千人、以前の難民を含めると90万人以上のロヒンギャが難民となった[67]

SAC/SSPC時代 (2021 - 2026年)

2021年2月1日、国軍がクーデターを起こして、スーチーが拘束された際、難民キャンプに住むロヒンギャの間からは歓喜の声が上がったのだという[68]

その後、亡命した元NLD議員は、臨時政府に相当する「連邦議会代表委員会(CRPH)」、さらには「国民統一政府(NUG)」を設立した。そして2021年6月3日、NUGはロヒンギャに市民権を付与するという声明を発表。しかし、この市民権の内容は不明瞭であり、ロヒンギャの識者の間からも苦し紛れの策ではないかという疑義が呈された[69]。2023年7月、ロヒンギャ男性のアウンチョーモー英語版がNUG人権省の副大臣に任命された[70]。しかし2024年3月、NUGラジオがロヒンギャを「ベンガル人」と呼称し、批判を受けた後も「最近軍事訓練を受けた人々」としか訂正せず、頑としてロヒンギャの名称を使わなかったという事件が発生し、ロヒンギャに市民権を認めるとした方針と矛盾するのではないかと批判された[71]

ラカイン州では、2023年11月13日にラカイン族の武装勢力・アラカン軍(AA)が停戦合意を破ったことにより、国軍との戦闘が再開。その際、ARSA、RSO、アラカン・ロヒンギャ軍英語版(ARA)、ロヒンギャ・イスラミ・マハズ英語版(RIM)、ムンナウ・グループ(Munnah group)などのロヒンギャの武装組織は国軍の指揮下に入ってAAと戦った。ロヒンギャ危機のきっかけを作ったARSAが国軍の指揮下にあるというのはかなり奇妙で、地元住民の間ではARSAは国軍に吸収されたか、もともと国軍によって創設された組織なのではないかと噂されているのだという[72]

当初、国軍・各ロヒンギャ武装勢力の徴兵は強制的なものだったが、AAがロヒンギャ虐殺を行うに及び、志願兵も増加していき、各武装勢力は、コックスバザールにあるロヒンギャ難民キャンプで激しく支配権を争い、新兵獲得合戦を行った。しかし、2024年11月8日、ARSA、RSO、ARA、RIMの4組織は、国軍・国境警察隊と親密だったロヒンギャ実業家・ディル・ムハンマド(Dil Mohammad)の仲介で、「ミッション・ハーモニー」(その後、四兄弟同盟〈Four Brothers Alliance〉に改組)という非公式合意を締結し、難民キャンプでの停戦と協力してAAと戦うことで合意した[73][74]

この合意により、難民キャンプ内の殺人等の暴力事件は激減して治安が回復する一方、各武装勢力はより組織的かつ公然と徴兵を行うようになり、志願兵も増加していった。キャンプ内では団結集会が頻繁に開催され、AAとの戦いをジハードと定義づけ、人々を鼓舞していると報じられている。2024年末~2025年半ばまでに徴兵されたロヒンギャの若者の数は3,000~4,000人にも上ると言われている[73]

ラカイン州で活動した武装勢力

武装勢力

組織名 活動期間 説明
アラカン防衛軍(Arakan Defence Army:ADA) 1942–1945 ビルマ国民軍(BNA)傘下にあった部隊。
アラカン人民解放党(Arakan People’s Liberation Party:APLP) 1945–1958 過激派僧侶・ウー・セインダが率いた。
赤旗共産党 1945–1992
ビルマ共産党(CPB) 1945–1997
人民義勇軍(PVO) 1945–1958 反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)の私兵組織。
ムジャヒディーン 1947–1961
部族民族機構(アラカン地区)(Tribal Nationalities Organisation 〈Akyab District〉) 1957–1972 アラカン北部のチン族やその他の丘陵部族の3つの小さな勢力が結成。ビルマ共産党(CPB)と協力関係にあったが、1972年のCPBに吸収された。
アラカン民族解放軍(Arakan National Liberation Army:ANLA) 1960–1994 退役軍人のマウンセインニュンが元APLP幹部30人とともに結成した、親マルクス主義グループ。
アラカン共産党(CPA) 1962–1994 赤旗共産党の分派。
ロヒンギャ解放党(RLP) 1962–1973 ムジャヒディーンの残党
ロヒンギャ愛国戦線(RPF) 1973–1986 前身のロヒンギャ独立戦線(RIF)は「ロヒンギャ」の名を冠した最初の武装組織とされる。
ミゾ国民戦線(MNF) 1966–1986 インドアッサム州に居住するミゾ族の武装組織。
アラカン独立機構 (Arakan Independence Organisation:AIO) 1970–1988 マンダレー大学の学生組織が結成。
アラカン解放党/軍(ALP/A) 1973–現在
アラカン解放機構(Arakan Liberation Organisation:ALO) 1982–1988 カマン族の妻を持つ「アラカン・ムスリム」を自認するウー・チョーフラが結成。ラカイン州のムスリムを「非ロヒンギャ」と定義づけ、他の武装勢力との連携を模索。その後、ビルマ・ムスリム解放機構(MLOB)に改組。
ロヒンギャ連帯機構(RSO) 1982–現在
アラカン・ロヒンギャ・イスラム戦線(ARIF) 1986–1998
部族民続党(アラカン)(Tribal Nationalities Party 〈Arakan〉) 1987–1994 ビルマ共産党(CPB)を離脱したチン族とムロ族のメンバーが結成した武装組織。
アラカン民族解放軍(Arakan National Liberation Army:ANLA) ラカイン族の若手活動家が結成。
全アラカン学生同盟(All Arakan Student Union:AASU) 1988-?
チン民族戦線/軍(CNF/A) 1988–現在 チン族の武装組織。
全ビルマ学生民主戦線(ABSDF) (アラカン) 1988–1995
アラカン軍(AA) 1991–1994 のちに「ラカインープレイ軍(AA2)」と改名。
アラカン民族統一党(The National United Party of Arakan:NUPA) 1994–2014 アラカン民族統一戦線(NUFA)が単一組織に改組。軍事部門はアラカン軍(Arakan Army)を名乗った。
アラカン民主党(Democratic Party of Arakan:DPA) 1994–2014 アラカン民族統一党(NUPA)を脱退した元アラカン共産党(CPA)のメンバーが結成。
全アラカン学生青年会議(All Arakan Students and Youth Congress :AASYC) 1995–現在 ABSDF(アラカン)の他、ラカイン州、バングラデシュ、インド、タイの若者や若い僧侶が参加。
アラカン・ロヒンギャ民族機構英語版(ARNO) 1998–現在 ロヒンギャ連帯機構(RSO)とアラカン・ロヒンギャ・イスラム戦線(ARIF)が再合併して結成。
アラカン軍(AA) 2009–現在
アラカン・ロヒンギャ救世軍(ARSA) 2016–現在
アラカン・ロヒンギャ軍英語版(ARA) 2020–現在
ロヒンギャ・イスラミ・マハズ英語版(RIM) 2020–現在

同盟

組織名 活動期間 加盟組織
アラカン左翼統一戦線(Aarakan Leftist Unity Front:ALUF) 1947
  • アラカン人民解放党(APLP)
  • 赤旗共産党
アラカン民族統一戦線(National United Front of Arakan:NUFA) 1985–1994
  • アラカン独立機構(AIO)
  • アラカン解放党/軍(ALP/A)
  • アラカン共産党(CPA)
アラカン独立同盟(Arakan Independence Alliance:AIA) 2000 -
  • アラカン民族統一党 (NUPA)
  • アラカン・ロヒンギャ民族機構(ARNO)

1948年の独立以来ラカイン族とロヒンギャの武装勢力による初の同盟。

アラカン民族評議会英語版(ANC) 2004 -
  • アラカン民族統一党 (NUPA)
  • アラカン解放党/軍(ALP/A)
  • アラカン民主党(DPA)
  • 亡命アラカン民主連盟(ALD〈E〉)
  • 全アラカン学生青年会議(AASYC)
  • 仏教徒ラカインサンガ連合(BRSU)
  • アラカン女性福祉協会(AWWA)
  • ラカイン女性連合(RWU)

ラカイン族の武装勢力と非武装勢力による同盟。軍事部門はアラカン軍またはアラカン州軍を名乗った。

四兄弟同盟〈Four Brothers Alliance〉 2024
  • ロヒンギャ連帯機構(RSO)
  • アラカン・ロヒンギャ救世軍(ARSA)
  • アラカン・ロヒンギャ軍(ARA)
  • ロヒンギャ・イスラミ・マハズ

脚注

参考文献

関連項目

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