ラカイン州

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ラカイン州(ラカインしゅう)は、ミャンマーの行政区画である。1974年に設立された。面積36,762平方キロメートル、州都はシットウェ。国土の南西に位置してインド洋ベンガル湾に面し、西端でバングラデシュ国境を接する。ミャンマー、バングラデシュ、インドという3つの国家、南アジア東南アジア仏教世界とイスラム世界という3つの地政学的結節点であり、そのため、ラカイン州はミャンマーの「西の門」と呼ばれている[3]

地域 海岸
面積 36,780 km²
人口 2,526,792人
概要 ရခိုင်ပြည်နယ်ラカイン州(アラカン州) (MLCTS: rahkuing pranynai), 州都 ...
ရခိုင်ပြည်နယ်
ラカイン州(アラカン州)
(MLCTS: rahkuing pranynai)
州都 シットウェ
地域 海岸
面積 36,780 km²
人口 2,526,792人
民族 ラカイン族(アラカン族), チン族, チャクマ族, ムロ族英語版, ロヒンギャ[1]カマン英語版[2]
宗教 上座部仏教, イスラム教, ヒンドゥー教, その他
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ミャンマーの歴史は、ミャンマー平野部のビルマ族とモン族の王国を中心に展開したが、ラカイン州はアラカン山脈によってそれらの地域から隔てられ、独自の展開を遂げた。とはいえ、ミャンマーでもっとも貧しい地域の1つである[3]

名前の由来

18世紀のオランダの地図。「アラカン(Araccan)」と記されている。

ラカイン族は自らの土地を「ラカイン・プレイ(Rakhaing-pray)」と呼び、古くは「ラカプラ(Rakhapura)」と称した。語源はパーリ語の「Yakkho(ヤッカ)」や「Raksha(羅刹/守護の怪物)」にあるとされる。これは単なる怪物を指すのではなく、「自国の伝統と道徳を守る者」という自負と誇りが込められた呼称とされる[4]

「アラカン(Arakan)」という呼称は、8世紀から16世紀にかけてラカイン州を訪れた、ヨーロッパの人々が、現地語の「ラカイン」を聞き取って、訛ったものと伝えられる[4]

歴史

ラカインの口承や寺院の碑文を基にするならば、ラカイン州の歴史は相当古い時代にまで遡ることが出来る。ラカイン族は自身の民族史を紀元前3325年まで遡って、1785年の最後の支配者に至るまでの227人のアラカン王国の君主を明らかにしている。しかし、この歴史は一次資料や考古学的裏付けに乏しく、実証的な歴史学の観点からは、多分に伝説的な色彩が強いものとみなされている[5]

一方、ロヒンギャは、ラカイン地方の遺跡に見られるヒンドゥー教の影響や、10世紀以前のミャンマー語碑文の欠如を根拠に、インド系の人々こそがこの地の先住民であり、彼らが後にイスラム教へ改宗した集団がロヒンギャであると主張している。しかし、これらの主張に対しても、多くの歴史家や考古学者から歴史的根拠に乏しいとの批判があり、学術的な合意には至っていない[6]

ダニャワディ王朝(紀元前3325年 - 326年)

マムハニ仏

ラカイン族の伝承によれば、ダニャワディ王朝は、ラカイン州北部の町ダニャワディ英語版周辺に築かれたラカイン族最初の王朝とされ、次の3つの王朝に分類されている[7]

  1. マラユ〈Marayu〉王朝:紀元前3325年 – 紀元前1483年)
  2. カンラザジー〈Kanrazagree〉王朝:紀元前1483年 – 紀元前580年)
  3. チャンドラ・スーリヤ〈Chandra Surya〉王朝:紀元前580年 – 326年)

紀元前554年、ブッダが500人の弟子を伴って当地を訪れ、国王チャンドラ・スーリヤ英語版が仏教に改宗し、ラカインの守護神となるなマハムニ仏英語版が鋳造されたと伝えられる[7]

ウェーサリー王朝(327年 - 1018年)

ウェーサリー時代の硬貨

ダニャワディ王朝衰退後、ラカイン州北部ウェーサリー英語版(ラカイン語:ワイタリ)周辺に築かれた王朝である[7]。名前に「チャンドラ(Chandra)」を冠する王たちであったため、チャンドラ王朝とも呼ばれる[5]。当地で発見された、8世紀頃のものと推定されるアナンダ・チャンドラ碑文(Ananda Chandra inscription)には、その北面に西暦327年頃から始まる王朝の歴代王名と在位期間がサンスクリット語の韻文で記されている[8]

レムロ王朝(1018年 – 1406年)

ウェーサリー王朝が衰えた後、ウェーサリー王朝の最後の王スーラ・チャンドラの息子であるンガ・トーン・ムン王(Nga Tone Munn)が首都を、レムロ川英語版周辺に移転した。レムロはラカイン語で「4つの都市」を意味し、その名のとおり、その後首都はピインサ英語版パレイン英語版、クリット(Hkrit)、ラウンジェッ英語版と4回移転した[9]

1406年、王朝はシャン族のアヴァ王朝の侵略を受け、国王ミン・ソー・モン英語版ベンガル王国に逃亡した。1429年、ベンガル王国のスルタンの支援を受けたムン・ソー・ムン王はラカイン州に帰還し、王国を奪還。首都をミャウウーに移し、ミャウウー王朝(アラカン王国)を築いた[9]

ミャウウー王朝(1430年 – 1784年)

ミャウウー

アラカン王国は仏教王朝だったが、インド人、アラブ人、ペルシャ人、ポルトガル人などさまざまな人々が訪れる海洋王国だった。ミン・ソーモン自身は仏教徒だったが、強大であった隣国・ベンガル王国への忠誠を示すために「スレイマン・シャー」というムスリムの称号を名乗り、1531年にアラカン王国が完全に主権を主張できるようになるまで、11代にわたって彼の後継者たちはそのひそみに倣った[10]

1532年までにアラカン王国は、コルカタまで領土を広げ、現在のバングラデシュ全域を包含していた。しかし、17世紀に入ると、ムガル帝国との衝突および内紛により衰え始め、1660年代にはチッタゴンをムガル帝国に奪還された[9]

1784年、コンバウン王朝の国王ボードーパヤー英語版の侵攻を受け、ついにラカイン族の王朝は滅亡した。

コンバウン王朝(1784年 - 1826年)

コンバウン王朝の侵攻により、ラカイン族の人々と文化は壊滅的な打撃を受けた。王宮は焼き払われ、僧院、寺院、仏塔など3500以上の宗教施設が破壊された。マムハニ仏もマンダレーに持ち去られ、現在もそこに安置されている。多くの人々が殺害され、ベンガル地方に逃れたと伝えられる[9]

ちなみに、ラカイン族の人々は、以降のラカイン州の歴史を「5つの植民地化」という一連の主権喪失の過程で捉える傾向がある[11]

  1. コンバウン王朝による征服 (1784年-1826年)
  2. イギリス植民地支配 (1826年 - 1942年)
  3. 日本軍占領 (1942年 - 1945年)
  4. 独立前の英国還流 (1945年 - 1947年)
  5. 独立後のビルマ中央政府による支配 (1948年 - 現在)

イギリス植民地時代(1826年 - 1942年)

1826年、コンバウン王朝は第一次英緬戦争の敗北に伴い、ラカインをイギリスに割譲した。1886年の第三次英緬戦争によって同王朝が滅亡し、ミャンマー全土が英領インドビルマ州に編入された際、ラカイン地方はすでに60年に及ぶ植民地支配下にあった。1948年の独立まで、ミャンマー全土の植民地期が約60年であったのに対し、ラカイン地方はその2倍にあたる約120年にわたりイギリスの統治を受けたことになる[9]

イギリス植民地政府は、ビルマ族が住む平野部を「管区ビルマ」(英語: Ministerial Burma)として直接統治し、少数民族が多く住む山岳部を「辺境地域」(英語: Excluded areas)として間接統治する二元統治制度を導入した。ラカインはビルマ族と区別する積極的理由がないとされ、前者に分類された[12]

この時代、ラカインは一大稲作地帯となり、その労働力を確保するため、近隣のベンガル地方(現バングラデシュ等)からの組織的な移民奨励策がとられた。この移民がロヒンギャのルーツの1つと考えられている。この時代、大規模なコミュニティ紛争は起きなかったものの、急速な社会変化は後の排外主義や地域間緊張の火種となった[13]

日本占領時代(1942年 - 1945年)

日本軍の侵攻によりイギリス軍がラカイン地方から撤退すると、それまでの植民地支配による「重し」が外れ、潜在していたラカイン族とムスリムの対立が一気に表面化し、ラカイン族とムスリムの間の既存の亀裂は決定的な衝突へと発展した。この時期、ラカイン族がビルマ国民軍(BNA)傘下のアラカン防衛軍(Arakan Defence Army:ADA)に編成される一方、ムスリムはイギリス軍が結成したVフォース英語版に編成され、両者は抗戦した[14]

このコミュニティ紛争により、双方に数万人規模の犠牲者や避難民が出たと推定されている。アラカン北部のムスリムはナフ川方面(現在のバングラデシュ側)へ、仏教徒は南へと逃れ、この時期にアラカン北部の人口動態は劇的に変化した。この時の凄惨な記憶は、現在に至るまで両コミュニティ間の不信感の根源となっている[15][16][17][18]

独立期(1945年 - 1947年)

1947年2月に開催された第2回パンロン会議には、ラカイン族の代表も、ラカイン・ムスリムの代表も招待されず、1948年に制定された憲法により、ラカインは州の地位を与えられず、「アラカン管区」とされた[19]

この過渡期、ラカイン民族主義運動は「ビルマ本土」への統合を優先する勢力と、武装闘争を継続する勢力(ウー・セインダ等)に分裂した。一方で、ムスリム側も独立後の地政学的変化を前に政治意識を高め、アラカン北部における「ムスリム自治州」の創設や、隣接する東パキスタンへの編入を求める動きが具体化し始めた。1947年にはムジャヒディーンの乱が起こり、独立を目前にして地域の分断は修復不可能な段階に達していた[20]

独立後のビルマ中央政府による支配 (1948年 - 現在)

独立直後、ラカイン族は「アラカン州」の設置を、「ロヒンギャ」と名乗るようになったラカイン・ムスリムは自治区の設置を政府に要求した。首相のウー・ヌは1960年にアラカン州の設置を約束し、1961年にはラカイン北部にロヒンギャの自治区・マユ辺境行政区(MFA)を設置したが、1962年ビルマクーデターにより、両方とも水疱に帰した[21][22]

ネ・ウィン軍事政権下におけるビルマ化政策の推進により、少数民族のアイデンティティはさらに抑圧された。1974年憲法でようやく「ラカイン州」が設置されたが、ラカイン民族主義者からは伝統的な「アラカン」の歴史を塗り替える中央政府の分断統治策と見なされた。一方、ロヒンギャは1982年国籍法により実質無国籍者となり、現在に至るまで解決していない[23][24]。21世紀に入ってからは、再び両者の間でコミュニティ紛争が頻発するようになり、2017年には約70万人のロヒンギャ難民がバングラデシュに流出するという未曾有の流出劇が発生した(cf.ロヒンギャ危機[25]

ラカイン州には豊富な天然ガスや海洋資源がある一方で、国内で最も貧しい地域の一つに数えられている。資源による利益は中央政府や外国資本(中国・インド等)に独占され、地元住民への還元が極めて少ないことが、現代の少数民族紛争(アラカン軍〈AA〉の台頭)の根源となっている[26]

地理

ナフ川とアラカン山脈

ラカイン州はミャンマー南西部の沿岸地域に位置し、西側はベンガル湾に面している。東側にはアラカン山脈(最高峰はヴィクトリア山の3,063m)が連なっており、これがミャンマー中央部のエーヤワディ川流域とラカイン州を隔てる巨大な自然の障壁となっている。この山脈が南西モンスーンを遮るため、ラカイン州側は降水量が非常に多い多雨地域となる一方、山脈の東側は乾燥地帯となっている[27]

海岸線はバングラデシュとの国境をなすナフ川の河口から南部のグワ川まで長く延びており、ラムリー島チェドゥバ島(マナウン島)などの沖合の島々を有している。地域全体において沿岸部や三角州地帯に人口が集中しており、東部の内陸は丘陵・山岳地帯となっている。州内の主要な河川としては、北東部からベンガル湾へ注ぐカラダン川のほか、レムロ川、マユ川、およびバングラデシュとの自然国境を形成するナフ川がある[27]

行政区画

ラカイン州地図

2022年以降の行政区画の再編に伴い、ラカイン州は現在7つの県(District)と、それに属する17の郡区(Township)で構成されている[28][29]

  マウンドー県英語版

マウンドー - ブティダウン英語版

  シットウェ県英語版

シットウェ - ポンナジュン英語版- パウトー英語版 - ラテダウン英語版

  ムラウウー県英語版

ミャウウー - チャウトー英語版 - ミンビャ英語版 - ミェーボン英語版

  アン県英語版

アン英語版

  チャウピュー県英語版

チャウピュー - ラムリー英語版 - マナウン英語版

  タウングアッ県英語版

タウングアッ英語版

  タンドウェー県英語版

グワ英語版 - タンドウェー

隣接行政区画

人口動態

人口

2025年発表の暫定結果(2024年国勢調査)によれば、ラカイン州の総人口は252万6,792人である。ただし、治安や地理的制約から、一部地域はリモートセンシングや行政記録による推計値が含まれている。また、同調査でラカイン州は合計特殊出生率2.8人と、全国最高値を記録している[30]

民族構成と宗教構成

  • 民族構成: 2014年および2024年国勢調査においては詳細な民族別統計を公表されていないが。一般にラカイン族が州人口の約60%を占め、次いでロヒンギャやカマン族英語版などのムスリム層が約30〜35%を占めるとされる。その他に、チン族ムロ族英語版カミ族英語版ダインネッ族英語版マラマジ族英語版などの少数民族が居住している。一方、内務省総務局英語版の2019年報告では、ラカイン族が73.6%、チン族が3.97%、その他が21.9%となっている。ちなみにロヒンギャは「パキスタン人」「バングラデシュ人」に分類されている[31]。州北部のマウンドー郡区やブティダウン郡区ではムスリムが圧倒的多数を占めていたが、2017年以降の軍事作戦と大規模な難民流出により、現在の実数や構成比は大きく変動している可能性がある[32]
  • 宗教構成: 2014年国勢調査によれば、仏教徒が96.2%キリスト教徒が1.8%ムスリムが1.4%となっている。しかし、2014年の調査当時、州北部の主にムスリム(主にロヒンギャ)が居住する地域において約109万人が集計から除外された。これらの未集計人口をすべてムスリムと仮定すれば、ラカイン州の宗教分布は仏教徒 63.3%、ムスリム 34.8%、キリスト教徒 1.2%となる[33][34]

ディアスポラ

ラカイン州は、民族迫害や武力紛争、極度の貧困を背景とした大規模な人口流出(ディアスポラ)の起点となっている。2017年のロヒンギャ危機以降、100万人を超えるロヒンギャが隣国バングラデシュを中心とする国外へ逃れ、他にもマレーシア、パキスタン、サウジアラビアなどで大規模なディアスポラ・コミュニティを形成している。一方、ラカイン族もまた、州内のインフラ欠如や経済停滞により、タイ、マレーシア、カチン州などへの出稼ぎ・移住を余儀なくされている[35][36][37]。近年の紛争激化と徴兵制の導入は、この流出をさらに加速させており、地域社会の人口構造に深刻な影響を及ぼしている[38]

経済

ラカイン州は、豊かな天然資源と地理的な重要性を持つ一方で、国内で最も経済的に貧しい地域の一つとされる。近年は国際的なメガプロジェクトの舞台となる一方で、深刻な武力紛争によって地域経済は崩壊の危機に瀕している。

経済概況と貧困

ラカイン州はミャンマー国内の14の州・地方域の中で、チン州に次いで2番目に貧しい州とされる[39][40]。ラカイン州の南北でも経済格差があり、ロヒンギャが多く住む北部の平均所得はラカイン族が多く住む南部の42~84%程度である。病気[41]、貧困[42]、非識字率[43]、乳児死亡率などの指標において国内最悪のレベルにあり、州内を他地域と結ぶ主要な道路はアン、タウングップ、グワからの3本のみで、長年にわたる中央政府によるインフラの欠視が貧困の一因となってきた[44]

農業、漁業、輸送、貿易が歴史的に重要な産業であったが、2021年のクーデター以降の混乱と、特に2023年11月に再燃した武力紛争に伴う全土的な封鎖措置により、経済状況は崩壊局面に入っていると報告されている。UNDP(2024年)の報告によれば、貿易ルートの遮断と海上封鎖により、建設業や輸出向け農業などの主要セクターが事実上停止し、2025年までに州民の95%が貧困線以下の生活を余儀なくされると予測されている[45]

また、農業資材の不足や労働力喪失により、2024年の米生産量は州の必要量のわずか20%に留まる見通しであり、食料自給体制は壊滅的な打撃を受けている。生活必需品の価格はハイパーインフレ状態にあり、米や食用油の価格は数倍から十数倍に高騰した。乳児死亡率や非識字率などの社会的指標も国内最悪レベルで推移しており、人道支援へのアクセスも制限されていることから、州全体が前例のない規模の飢饉の瀬戸際に立たされている[46][45]

主要な伝統産業

ラカイン州の人口の85%が農村部に住み、零細農漁業、またはその日雇い労働に従事する。日雇い労働に従事するのは土地なし層だが、土地なし層は全世帯の26%。一部地域では50%を超える。ロヒンギャが多くむラカイン州北部ほど土地なし層が多い[47]

  • 農業: 伝統的に州経済の屋台骨であり、稲作が最も重要な産業である。その他にも豆類、トウモロコシ、ココナッツ、タバコなどが栽培されてきた。しかし、近年の武力紛争に伴う物流封鎖により、種子や肥料などの農業資材が極端に不足し、さらに徴兵制や避難生活による労働力不足が追い打ちをかけている。UNDP(2024年)の予測によれば、2024年の米生産量は州民の必要量のわずか20%に留まる見通しであり、かつての余剰生産地から、2025年には州全体が深刻な飢饉に直面する「生存危機」の段階へと転落しつつある[45]
  • 水産業(漁業・水産養殖): 長い海岸線を持つため、沿岸漁業や内水面漁業が盛んである。近年はエビやカニなどの水産養殖業も成長し、バングラデシュなどへの重要な輸出品となっていた[48]。しかし、2023年11月以降、ミャンマー海軍による組織的な海上封鎖とパトロールが激化し、漁師は沖合での操業を全面的に禁止、あるいは極めて厳しく制限されている。これに加え、燃料価格が数倍から十数倍に高騰したことで漁船の稼働が事実上不可能となり、貴重なタンパク源である水産資源の供給網は壊滅的な打撃を受けている[45]

大規模な国際開発プロジェクト

ラカイン州は地政学的な要衝であり、近年は中国やインドによる大規模投資が目立つ。しかし、治安悪化により進捗が大幅に遅れており、また、住民側からは「地元の土地や資源が搾取されるだけで、雇用や利益が十分に還元されていない」との不満の声が根強く残っている[49]

  • チャウッピュー経済特区(SEZ)と中国の投資: 中国の「一帯一路(BRI)」と「中国・ミャンマー経済回廊(CMEC)」の中核となるプロジェクトです。チャウピュ深海港と工業団地の建設が進められており、これによって中国は「マラッカ海峡のジレンマ」を回避し、インド洋への直接アクセスを確保している。すでにシュエ(Shwe)ガス田からの天然ガスや原油を雲南省へと運ぶパイプラインが稼働しており、ミャンマーの貴重な外貨獲得源となっている[49]
  • インドの「カラダン・マルチモダル・トランジット・トランスポート・プロジェクト」: インドの「アクト・イースト」政策の一環として、陸の孤島であるインド北東部諸州(ミゾラム州など)とベンガル湾を結ぶ物流ルートを構築する計画である。州都シットウェの商業港を拡張し、カラダン川の内陸水運と道路を用いてインド北東部へアクセスを確保する計画である[49][50]

交通

ラカイン州は東境にアラカン山脈がそびえ立っているため、歴史的にミャンマーの他地域から隔絶されており、陸路でのアクセスが困難な地域であった。そのため、交通網は伝統的に沿岸部や河川を利用した水運への依存度が高い。近年は外国投資を背景とした大規模な交通インフラ計画が複数進行しているが、長引く武力紛争により多くのプロジェクトが停滞し、州内の市民の移動や物流にも深刻な制限が生じている。

ラカイン州の主要道路と他地域への接続

道路

州内を他地域と結ぶ主要な幹線道路は、以下の3本である。急峻な山岳地形とモンスーン期の豪雨により、道路や橋梁の劣化が激しく、インフラの整備状況は国内でも劣悪な部類に入る。過去には日本の国際協力機構(JICA)なども道路建設機材の供与を通じた支援を行ってきたが、2021年のクーデター以降は国軍とアラカン軍(AA)の武力衝突が激化し、道路の封鎖や橋の破壊が頻発しているため、支援は停滞している[51][52]

  • アン・パス (Ann Pass)
    • 起点・終点: アン〜 ミンブー/ マグウェ
    • 重要性: 州中部を結ぶ最短ルートで、アンに国軍の西部軍管区司令部(2024年10月、AAが占拠)があるため、最も厳重に管理・封鎖されやすい道[53]
  • タウングアッ・パス (Taungup Pass)
    • 起点・終点: タングアッ〜 ピイ
    • 重要性: 歴史的に最も利用されてきた商業ルート。ヤンゴン方面からの物資がピイを経由してラカイン州に入る際の主要幹線道路。
  • グワ・ルート (Gwa Road)
    • 起点・終点: グワ〜 ンガハインチャウン英語版
    • 重要性: 州最南端を結ぶルートで、エイヤーワディ地方域へ繋がる。海岸沿いの町への物資供給に利用される。

空港

州内の主な空の玄関口として、州都にあるシットウェ空港、州南部にあるリゾート地・ガパリビーチ英語版へのアクセス拠点となるタンドウェ空港、およびチャウピュ空港グワ空港が稼働している。ミャンマー政府は観光や物流の促進を目的として、シットウェ空港とタンドウェ空港の滑走路を拡張し、エアバスA320ボーイング737などの大型旅客機が離着陸できるようにするアップグレード計画を繰り返し掲げてきた[54]。しかし、資金難や紛争の影響で進捗は遅れている[55]

水上交通

ベンガル湾に面する地政学的優位性から、後述するように、隣国による大規模な港湾・交通網開発プロジェクトが複数進行している。

国境検問所

マウンドーに国境検問所が設置されており、バングラデシュのテクナフ英語版と接している。ナフ川を挟んだ舟運による貿易が中心で、ミャンマーからは乾燥魚、エビ、米、木材などが輸出され、バングラデシュからはプラスチック製品や衣類などが輸入されている[58]

脚注

参考文献

関連項目

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