ムジャーヒディーン (ミャンマー)
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| ムジャヒディーン | |
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Mujahideens ミャンマー内戦に参加 | |
| 活動期間 | 1947 - 1961年 |
| 創設指導者 | ザファ・カワー |
| 本部 | ラカイン州北部 |
| 活動地域 | ラカイン州北部、バングラデシュ国境地帯 |
| 後継 | ロヒンギャ解放党(RLP) |
| 敵対勢力 | ミャンマー軍 |
ムジャーヒディーン(Mujahideens)は、1947年から1961年にかけて、ミャンマーのラカイン州北部およびバングラデシュ国境地帯で活動した反政府武装組織。「ムジャヒッド党」とも呼ばれる。「ムジャヒッド」は「聖戦(ジハード)に携わる者」を意味する。
紛争の長期化に伴い、地元の仏教徒(ラカイン族)の間では、ムスリム住民を「不法移民」や「共産勢力の協力者」と見なす排斥感情が高まった。こうした社会的・政治的圧力を背景に、アブドゥル・ガッファーらムスリムの有力政治家たちは、武装勢力である「ムジャヒッド」との差別化を図りつつ、政治的正当性を確保しようと試みた。その過程で「ロヒンギャ」という民族名称が積極的に再定義・流布されることとなり、ラカイン・ムスリムの間で「ロヒンギャ」としての民族意識が形成される重要な契機の1つとなった[1][2]。
結成

1947年末、ブティダウン郡区ゼーディタウン村で、元村長の弟であるモハメッドという人物が、ムスリムの若者を集め、密かにムジャヒディーンの前身団体を結成し、兵器を隠匿した[5]。
同時期、ジャミアトゥール・ウラマ・イスラムという政治・宗教団体の幹部だったザファ・カワー(Jafar Kawal)が、「民族自由党」を結成した。ザファ・カワーは本名をザワー・フセイン(Jafar Hussain)と言い、地元の名士の息子で、スーフィズム音楽・カッワーリーの有名な歌手だった。大戦中は、日本軍の下で軍事訓練を受けたとも伝えられる[注釈 3][5][6]。
1948年5月、マウンドー北部の村での会議を経て、民族自由党が正式にムジャヒディーンへ吸収合併され、ザファ・カワーがリーダーに選任された。彼は有名なムスリム詩人・ムハンマド・イクバールの詩を諳んじ、人々に信仰、名誉、尊厳を守るために財産や命を犠牲にするよう鼓舞した[6]。
結成当初、ムジャーヒディーンの兵力は1000人程度で、緑のベレー帽、星と三日月が描かれたバッジが付いたシャツ、黒の半ズボンという格好をしており、大戦中にイギリス軍傘下のV・フォースで戦闘経験を積んだ者が多かった[7]。
ダボリ・チャウン宣言
結成の際、彼らは「アラカン北部」という自治国家を要求する、ダボリ・チャウン(Dabbori Chaung)宣言を発表した[8]。
- カラダン川の西からナフ川の東までの地域を管轄するブティダウン郡区、ラティダウン(Rathidaung)郡区、マウンドー郡区から成る「アラカン北部」という名のムスリム自治国家を設立する。この地域はビルマ連邦の管轄下に置かれる。
- アラカン北部で軍事訓練を受けた、または軍事経験を持つムスリムの若者の助けを借りて、「アラカン北部・ムスリム連隊」という名の軍隊を結成する。この連隊のムスリムの若者は、外国の侵略があった場合、1インチの土地のために命を犠牲にする。
- ウルドゥー語はアラカン北部の地域言語および教育媒体として受け入れられるべきである。しかし、ビルマ語は国語として引き続き義務付けられる。
- 「アラカン北部」の責任ある政府職員は地元のムスリムから任命されなければならない。しかし、中央政府を代表するビルマ族の顧問はこの地域に留まることができる。
- 「アラカン北部」の非ムスリム少数派コミュニティは、ビルマの他の地域の他のムスリム少数派と同様の公正な扱いを受ける。
- 外務、防衛、財務、商務の各省は、中央政府の直轄下に置かれる。残りの部分については、中央政府と地方政府双方の管轄下に置かれるべきものは、中央政府と地方政府の代表による共同討議によって決定され、中央政府と地方政府双方が同時に共有する。
- ビルマ政府が上記の条件を受諾することを条件に、ムジャーヒディーン代表とビルマ政府の間で協定が締結される。ただし、協定に署名する前に、「アラカン北部」のムジャーヒディーンとともに他の政治指導者に大赦が発表されなければならない。協定第2条に従い、「アラカン北部」のムスリム連隊として知られるムジャーヒディーンはビルマ国民軍と同じ特権を持ち、「アラカン北部」の領土軍としてビルマ正規軍に編入される。
活動
ムジャーヒディーンとミャンマー軍(以下、国軍)の最初の戦闘は、1948年5月15日にポンドーピン(Pondawpyin)で行われ、ムジャーヒディーンが勝利を収めた[6]。その後、ムジャーヒディーンはマウンドーを占領しようとしたが、政府は第5ビルマ・ライフル部隊を派遣し、激闘の末、11月10日にムジャーヒディーンは撤退した。同月末、ムジャーヒディーンは国軍に待ち伏せ攻撃を仕掛けたが、これも返り討ちにあって敗北した[9]。
しかし1949年2月、第5ビルマライフル部隊がカレン民族同盟(KNU)掃討のためにラカイン州から撤退すると、ムジャーヒディーンは息を吹き返した。1950年4月までにラカイン北西部を制圧し、東パキスタン最南東部・テクナフに拠点を築いた。彼らはパキスタンに忠誠を誓い、支配下の村々にはパキスタン国旗を掲げ、徴兵・徴税の際には、「ラカインにムスリム国家ができればカシミールを取り戻せる」と主張した。なお、第5ビルマライフル部隊が撤退した後は、地元のラカイン族で構成されたビルマ領土部隊(Burma Territory Force:BTF)と第2チン・ライフル部隊が、ムジャーヒディーンの掃討作戦に当たったが、特にムスリムに個人的に恨みを持っていた前者の不品行は目に余ったと伝えられる[7]。
この戦闘中、国軍、ムジャーヒディーンの双方が住民に徴兵と徴税を課し、従わない者を虐待したため、堪えきれなかったムスリムの人々がナフ川を渡って東パキスタンへ避難した。1949年1月までにその数は約5,000人に上り、パキスタン政府は彼らのために難民キャンプを設置した。同じムスリムが仏教徒から弾圧を受けているということで、東パキスタンの人々は総じてムジャーヒディーンや難民に対して同情的だったが、それだけではなく、彼らが難民に同情するのには実利的な理由もあった。当時、ミャンマー政府はミャンマーから東パキスタンに輸出される米に高関税を課しており、東パキスタンの人々は米価格の高騰に苦しんでいたのだが、ムジャーヒディーンは米を密輸入して資金源とすると同時に、東パキスタンの人々に低価格の米を提供したのである。ラカインの米農家も政府の買取価格より高い価格で米を買い取ってくれるムジャーヒディーンに喜んで米を売却したのだという。密輸船をパキスタン警察が護衛していたとも伝えられる[7]。
和平交渉
ムジャーヒディーンの乱が長引くにつれ、ラカインのムスリムの評判は著しく悪化した。「パキスタン人」がラカインに流入しているという主張、ムジャーヒディーンが、当時ラカインで活動していたビルマ共産党(CPB)や赤旗共産党と共闘して共産主義者の「解放区」を設立しようとしているという、扇動的な主張がまことしやかに囁かれ、独立アラカン議会グループというラカイン族の政党が、ムジャーヒディーンはシャン州に流入した国民党軍(雲南反共救国軍)より危険という見解を示し[10]、ラカインのムスリム議員が抗議するという一幕もあった[7]。
1949年10月、ラカインのムスリムの有力議員・アブドゥル・ガッファー(Abdul Gaffar)とスルタン・ムハンマド(Sultan Mohmud)[8]などからなるアラカン・ムスリム和平使節団がムジャーヒディーンの元を訪れ、武装解除するように説得を試みたが、失敗に終わった。それどころか政府当局からムジャーヒディーンとの関係を疑われ、使節団がシットウェを訪れた際、メンバー6人の身柄が拘束された[7]。
1950年2月には、ウー・ヌ首相、民族問題大臣を務めていたラカイン族のアウンザンウェイ、駐パキスタン・ミャンマー大使の3人が、マウンドーでムジャーヒディーンの代表団と会談し、ウー・ヌは(1)武装解除して合法組織になれば、ダボリ・チャウン宣言を考慮する(2)難民問題を解決すると提案したが、結局、会談は物別れに終わった[11]。
暗殺、分裂、そして降伏
やがてムジャヒディーンは北部のザファ・カワー派と南部のアブドゥル・カーシン派に分裂。さらに、1950年10月11日、ザファ・カワーが腹心のアブドゥル・ローシェイによって暗殺され、ローシェイが北部グループの新トップとなった[5][12]。
1950年から1951年にかけて、国軍は「マユ作戦」を発動し、ムジャヒディーン本部へ攻撃を開始。ムジャヒディーンは一時的に東パキスタン側へ逃れ、その後は国軍撤退後に再びラカイン州北部に戻ることを繰り返すゲリラ戦法に転じた[5]。
1952年10月・11月、国軍は「マユ作戦」を再開し、レッパン山にあったムジャヒディーン本部を攻撃・奪還。カーシンが率いる南部グループは急速に弱体化していった[5]。
1954年9月、北部グループのローシェイは、ラカインに住むすべてのムスリムを「ラカイン・ムスリム」として認めること、ムジャヒディーンを国軍の一部に再編すること、大学や病院を建設することなどを盛り込んだ要望書をウー・ヌ首相に送った。文書の中では「ロヒンギャ」という言葉は使われておらず、当時の彼らの自認が「ラカイン・ムスリム」だったことが窺い知れる内容だった[13]。
同年11月、国軍は「モンスーン作戦」という大規模な掃討作戦を実施し、ナフ川国境沿いのムジャーヒディーンの拠点を次々と攻略した。この頃には、ムジャーヒディーンは密輸、略奪、破壊行為をするだけの無法者の集団に成り果てて住民の支持を失っており[14]、地元のムスリムが「義勇軍」を組織して国軍に協力したのだという[15]。
カーシンは東パキスタンへ逃亡し、南部グループは事実上壊滅した[12]。国軍は東パキスタン政府にカーシンの身柄引き渡しを要求したが、これは拒否された。一部の観測筋は、この東パキスタン側の対応を、同国がムジャーヒディーンを裏で支援していた証左であると指摘している。その後、大きく勢力を落としたムジャヒディーンは、政治運動や武装闘争を停止し、バングラデシュ側へ米を密輸することなどを主な活動とするようになり、徐々に瓦解していった[16]。
1958年、ネ・ウィン選挙管理内閣のもとで、ラカイン北部に「国境地域管理局(FAA)」が設置され、東パキスタンとの国境を警備とムジャーヒディーンの残存勢力の掃討に当たった[17]。1959年3月から8月にかけては、政府による厳格な不法移民取締りが実施され、約1万3,500人のムスリムが東パキスタンへ避難したとも伝えられる[18]。
1961年5月30日、その頃には「ロヒンギャ」と名乗るようになっていた、一部のラカインのムスリム議員の要求に応え、政府は、マウンドー、ブティダウン、西ラテーダウン郡区からなるマユ辺境行政区(MFD)を設置した。政府直轄地で、ムスリムの自治を認めるというよりもむしろ、反乱軍や密輸業者や不法移民の取締りを目的とした行政機構だったが、これによって「アラカン北部」設立を目的に掲げるムジャーヒディーンの存在意義はなくなった[19]。

同年6月29日、マウンドーにおいて、南部グループのメンバー291人が政府に降伏。同年9月、ブティダウンで国軍とムジャヒディーンの残党による最後の戦闘が行われ、釈放されてムジャヒディーンに再合流していたカーシンが戦死した[16]。
復活
1972年7月15日、サニ・ジャファー(Sani Jafar)という人物が、ムジャーヒディーンの残党を集めて、ロヒンギャ解放党(RLP)という名で再結成し、ブティダウン近郊のジャングルに拠点を築いてアラカン共産党(CPA)やアラカン民族解放軍(ANLA)と共闘した。1971年に第三次印パ戦争が勃発し、ミャンマー・バングラデシュ国境地帯の闇市場で容易に兵器を入手できたという事情もあり[20]、当初200人ほどだった兵力は一時期2,500人にまで拡大した。ロヒンギャ独立軍(RIA、のちにロヒンギャ愛国戦線〈RPF〉に改名)のメンバーも多数参加した[21]。しかし、1974年に国軍の大規模な掃討作戦に遭って、サニ・ジャファー以下幹部のほとんどがバングラデシュに逃亡し、壊滅した[22]。