マルセロ・ガジャルド

アルゼンチンのサッカー選手・監督 From Wikipedia, the free encyclopedia

マルセロ・ダニエル・ガジャルドMarcelo Daniel Gallardo スペイン語発音: [maɾˈselo ɣaˈʝaɾðo], 1976年1月18日 - )は、アルゼンチンブエノスアイレス州メルロ出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。現役時代のポジションはミッドフィールダー。元アルゼンチン代表

本名 マルセロ・ダニエル・ガジャルド
Marcelo Daniel Gallardo
愛称 エル・ムニェコ (人形)
ラテン文字 Marcelo Gallardo
概要 マルセロ・ガジャルド, 名前 ...
マルセロ・ガジャルド
名前
本名 マルセロ・ダニエル・ガジャルド
Marcelo Daniel Gallardo
愛称 エル・ムニェコ (人形)
ラテン文字 Marcelo Gallardo
基本情報
国籍 アルゼンチンの旗 アルゼンチン
生年月日 (1976-01-18) 1976年1月18日(50歳)
出身地 メルロ
身長 169cm
体重 70kg
選手情報
ポジション MF (OMF)
利き足 右足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1992-1999 アルゼンチンの旗 リーベル・プレート 109 (18)
1999-2003 モナコの旗 モナコ 103 (18)
2003-2006 アルゼンチンの旗 リーベル・プレート 77 (25)
2007 フランスの旗 パリ・サンジェルマン 22 (2)
2008 アメリカ合衆国の旗 D.C. ユナイテッド 15 (4)
2008-2010 アルゼンチンの旗 リーベル・プレート 28 (7)
2010-2011 ウルグアイの旗 ナシオナル 12 (3)
代表歴
1994-2003 アルゼンチンの旗 アルゼンチン 44 (14)
監督歴
2011-2012 ウルグアイの旗 ナシオナル
2014-2022 アルゼンチンの旗 リーベル・プレート
2023-2024 サウジアラビアの旗 アル・イテハド
2024- アルゼンチンの旗 リーベル・プレート
獲得メダル
アルゼンチンの旗 アルゼンチン
男子 サッカー
オリンピック
1996 アトランタサッカー
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj
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その小柄な身体からエル・ムニェコ(El Muñeco人形)の愛称で呼ばれる。

経歴

ガジャルドは、1992-93シーズンにCAリーベル・プレートでキャリアを始めると1992年から1999年までの間にリーグ戦109試合17得点を記録し、アペルトゥーラで1993・1994・1996・1997年の4回、クラウスーラで1997年に1回優勝を経験し、コパ・リベルタドーレス1996のタイトルを獲得した。

1999年にASモナコに移籍。中盤でリュドヴィク・ジュリとパートナーシップを形成し、最初のシーズンで28試合8得点を決め力を示すと、翌シーズンはリーグ・アントロフェ・デ・シャンピオンの2冠達成に貢献。マルコ・シモーネファビアン・バルテズウィリー・サニョルマルタン・ジェトゥパブロ・コントレラス、ジュリ、フィリップ・クリスタンヴァルラファエル・マルケスサブリ・ラムシダヴィド・トレゼゲヨン・アルネ・リーセといった数多くのビッグネーム達と共にモナコで素晴らしい時を過ごし、また、ガジャルド自身はリーグ・アン年間最優秀選手賞を獲得したことでスター選手の1人として認識された。

しかし、モナコでの3シーズン目2000-01シーズンに新たにディディエ・デシャンが監督に就くと、関係を上手く築けなかったため先発の座から度々落ちるようになり[1]、2002-03シーズン終了後にクリスティアン・パヌッチやシモーネのようにデシャンとの不仲[2][3][4] から退団を余儀なくされた。

モナコで102試合18得点を記録した後、古巣のCAリーベル・プレートに戻り主将として2004Cで優勝した。

2007年1月、移籍金非公開の2年契約でパリ・サンジェルマンFCに加入。1月7日、3-0で勝利したクープ・ドゥ・フランスニーム・オリンピックでデビューし、1月13日のヴァランシエンヌFC戦でリーグ戦初出場をした。PSGで1シーズン過ごした後に契約解除し、アメリカ合衆国MLSに活動の場を移した。

2008年1月29日、D.C. ユナイテッドに初の特別指定選手制度選手にして、クラブ史上最高年俸となる187万ドル[5] で加入。また、これはロサンゼルス・ギャラクシー所属イングランド代表MFデビッド・ベッカムの650万ドル保証、シカゴ・ファイアー所属メキシコ代表FWクアウテモク・ブランコの267万ドルに次ぐ、2008年MLS全体で3番目の給料を受け取った[5]。4月5日のトロントFC戦で移籍後初得点を記録。7月17日と19日にスポーツヘルニアの手術のため約1ヶ月戦線離脱した[6]。2009年2月、DCユナイテッドを去り3度目となる古巣のCAリーベル・プレートに復帰した。

2010年、ウルグアイプリメーラ・ディビシオンナシオナル・モンテビデオに入団。2011年6月12日、現役最後の試合となった1-0で勝利したデフェンソール・スポルティングとのチャンピオンシップ・プレーオフでは、66分から途中出場しピッチ上で優勝の歓喜を味わった。

現役引退してから数日後にナシオナル・モンテビデオの新監督として雇われ[7]、2011-12シーズンのリーグ戦のタイトルを獲得してクラブを去っていった。

2014年に古巣リーベル・プレートの監督に就任すると早くもコパ・スダメリカーナを優勝、翌年には自身がプレーし優勝した1996年以来となるコパ・リベルタドーレス制覇を果たした。2018年には決勝ではベンチ入り禁止処分となっていたが、最大のライバルチームであるボカ・ジュニアーズを下して監督として2度目のコパ・リベルタドーレス制覇を果たした[8]

コパ・リベルタドーレス2019でも準決勝でボカ・ジュニアーズを下して決勝に進出したが、決勝でブラジルのCRフラメンゴに1-2と敗れ連覇を逃した[9]

2023年11月18日、サウジアラビアのアル・イテハドの監督に就任した[10]。契約期間は2年間。アル・イテハドは、カリム・ベンゼマエンゴロ・カンテファビーニョといった欧州で実績ある選手を大型補強しており、躍進が期待されたが、シーズンが始まるとベンゼマとの確執報道や不振によって最終順位は優勝したアル・ヒラルと勝ち点39差の5位に沈み、AFCチャンピオンズリーグ出場権も逃したことからシーズン終了後に解任された[11]

代表

1994年のチリ戦でダニエル・パサレラ監督率いるアルゼンチン代表デビューを果たし、マルセロ・ビエルサ監督の下で1998 FIFAワールドカップ2002 FIFAワールドカップに出場。前者では3試合、後者では出番がなかった。

代表歴

出場大会

試合数

  • 国際Aマッチ 42試合 14得点(1994年-2003年)[12]
さらに見る アルゼンチン代表, 国際Aマッチ ...
アルゼンチン代表国際Aマッチ
出場得点
199410
1995115
199600
199785
199880
199941
200021
200152
200210
200320
通算4214
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監督成績

2024年7月2日現在[13][14]
さらに見る クラブ, 就任 ...
クラブ 就任 退任 記録
試合 得点 失点 得失点 勝率 %
ナシオナル 2011年6月29日 2012年6月19日 3923797441+33058.97
リーベル・プレート 2014年5月30日 2022年11月13日 42422811185755366+389053.77
アル・イテハド 2023年11月18日 2024年5月31日 33154145659−3045.45
通算 496266122108885466+419053.63
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タイトル

選手

クラブ

リーベル・プレート
モナコ
パリ・サンジェルマン
D.C. ユナイテッド
ナシオナル

個人

代表

アルゼンチン代表

指導者

クラブ

ナシオナル
CAリーベル・プレート

脚注

外部リンク

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