1840年11月23日、バージニア州ロックブリッジ郡 に生まれる[ 1] 。のちの夫・ジェームス・ハミルトン・バラ とは、父親同士が北アイルランドから渡米した際の乗船仲間だった[ 1] 。マーガレットの父アンドルー・キニアはマーガレットが幼い頃に亡くなり、母もすぐに亡くなったため、父の姉夫婦に育てられた[ 1] 。1857年にペンシルベニア州ノリスタウン の高校を一番の成績で卒業した[ 1] 。
ジェームス・バラは1860年に神学校を卒業し、S・R・ブラウン の呼びかけによって日本伝道を志していた[ 1] 。D・B・シモンズ の辞任によって日本への派遣が決まった際、周囲から妻を連れていくことを勧められ、結婚相手として紹介された数人の中にマーガレットがいた[ 1] 。父親同士の縁を感じたジェームスは1861年2月初旬にマーガレットに会いに行き、海外宣教への意志が一致して結婚が決まり、5月15日に挙式した[ 1] 。6月1日にニューヨークを出港し、喜望峰 を経由して9月21日にアモイ に着き、上海 経由で日本に向かった。マーガレットは船酔いに苦しみ、11月6日には熊野灘 で台風に遭遇するなど、苦難の末に11月11日に神奈川に上陸し、成仏寺 に滞在した[ 1] 。
成仏寺にはヘボン 夫妻やブラウン一家、キャロライン・エイドリアンス 、ゴーブル 一家が住んでいた[ 1] 。1862年6月に長女キャリー・エリザベスが誕生した際には、医者であるヘボンが介助し、9月に成仏寺でブラウンから幼児洗礼を受けた[ 1] 。
尊王攘夷 運動が激しくなると幕府による外国人の横浜移転が進められ、バラ一家は1863年8月に横浜居留地 167番に移った[ 1] 。1864年5月、次女アンナ・ヘボンが生まれた[ 1] 。クララ・ヘボン が自宅で開いていたヘボン塾 は、横浜英学所 の授業を受け持つようになったクララに代わってマーガレットが引き受け、1865年には自宅で日本人生徒数人を教えた[ 1] 。
1866年3月、マーガレットは第三子出産のため長女キャリーと次女アンナを連れて帰国した。10月に長男ジェームス・カーティスが生まれた[ 1] 。
ジェームスは、マーガレットが帰国中の1866年11月26日に横浜大火 で家財を失った[ 1] 。1868年、山手居留地48番に家を建て、横浜居留地167番にはゴーブルの設計で小会堂を建てた[ 1] 。日本最初のプロテスタント教会日本基督公会 の前身である[ 1] [ 2] 。ジェームスは1869年アメリカに向けて出港し、2月にニューヨークに着いてからは仕事と休暇の日々を過ごし、1870年11月、マーガレットや子どもたちと共に横浜に戻った[ 1] 。
1871年8月、バラの家にアメリカン・ミッション・ホーム(共立女学校 の前身)が開設された[ 1] 。
1874年4月、マーガレットは第四子の出産を控えて帰国し、1876年の初めに日本に戻った[ 1] 。日本基督公会の日曜学校の運営を、神学生の助手として手伝った[ 1] 。
マーガレットは故国を出てから5年間の日々を母国への手紙に詳しく書いており、晩年の1908年に"Glimpses of Old Japan 1861-1866"として出版した[ 1] 。
1909年3月16日、68歳で亡くなった[ 1] 。横浜外国人墓地 のアメリカ4区41に墓碑がある[ 2] 。
晩年のマーガレット