モンマス帽
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14世紀初め、モンマスの北隣にあるアーチェンフィールドはそのライランド羊からとれる高品質なウールで有名になった。このウールは上質なフェルトの材料として理想的であり、セヴァーン川河口から 29 キロメートル内陸のワイ川に面すモンマスに近いという立地は、この地域の製品がより広い市場へ容易に提供されることを可能にした。モンマスおよび周辺の手編み工による帽子工場は15世紀までには充分発達し、その頃の裁判記録からは Capper(帽子職人)という苗字が町でありふれたものだったことが分かる[1]。帽子職人や手編み工は、一般に男であり、織工ギルド (Weaver's Guild) に所属し、親方評議会 (Council of Master Craftsmen) から監督されていたかもしれない[2]。モンマス帽の商いは「帽子職人の町」(Cappers' town) として一時は知られたオーバーモノウ地域で特に活発だったと考えられる[3]。しかしモンマスでのペスト禍の後、いずれかの時点で多くの商いはウスターシャーのビュードリーに移ったことが、古物研究の事例から窺える[4]。

この帽子が最も流行したのは15世紀から16世紀にかけてである。モンマス帽は当時の兵士、水夫、労働者たちにとって必携のアイテムとなり、被るのが当たり前とみなされるほど広く使われた。19世紀の百科事典によると、一時は「イングランド及びウェールズ住人のかなりの割合によって使われた[5]。」1488年の帽子条例 (Cappers Act) は、イングランド国内での外国製帽子の着用を禁じ、その罰金を定めた。さらにエリザベス1世の治世、1571年の条例は次のように定めている。すなわち、イングランドの市、町、村、部落に住む6歳以上の全て(ただし未婚女性、貴婦人、名士、twenty marks land の全ての領主、騎士、紳士階級は除く)は祝祭日(ただし旅行中は除く)に「イングランドで編まれ仕上げられたウール製帽子を被らなければならない。すなわち、我が国で作られ、指定の帽子製造業者が仕上げたものでなくてはならず、違反した場合その一日につき3シリング4ペンスの罰金を科す。」この法律は国内製造業の保護を目的としたものだが、背景にはモンマス帽の流行が廃れ、外国製の新しい帽子に取って代わられようとする事情があった。この法律は、実効性が無いとして1597年に廃された[1][6]。
知られる限り最も古い「モンマス帽」の記録は1576年、グッドリッチ城のギルバート・タルボットから父のシュルーズベリー伯ジョージ・タルボットに宛てた、新年の贈物の帽子に添えられた書状である。その頃までには、この帽子は呼び名が付けられるほどに普及し、貴族同士の贈り物に相応しいとみなされていた[1][7]。ヘンリー5世はモンマスの生まれだが[8]、シェイクスピアが1599年に書いた『ヘンリー五世』にはモンマス帽に触れたくだりがある。
フルーエリン : まことに陛下の仰しぇのとおりです。もし陛下がご記憶であられましゅるならば、そのときわがウェールジュの一隊は、韮畑でりっぱな功績(こうしぇき)をあげました、モンマシュ帽に韮をつけましてな、陛下にご承知いただきたいのでありましゅが、韮は今日にいたるまでそのときの功績(こうしぇき)の名誉のしるしとなっちょります。陛下も聖(シェー)デーヴィッドの日には堂々と帽子に韮をつけられることと確信しゅる次第です。 — シェークスピア『ヘンリー五世』第4幕 第7場(訳 : 小田島雄志)[9]
1620年代、マサチューセッツ湾植民地の出資者たちは、入植者たちの衣類の一部としてモンマス帽(「厚く、暖かく、手や足で叩いて仕上げられ、水夫達に愛用されている」)を注文している[1]。ダニエル・デフォーは1712年の『大英帝国全土旅行記』で、主にオランダ人水夫が被るものとしてモンマス帽を記している。ロシアのピョートル1世は、1697年に東インド会社で働いた折、モンマス帽を被っている。この絵はサンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館に保存されている[2]。
「モンマス帽」はますますモンマス以外の土地で製造されるようになり、一般名詞化していった。コヴェントリーのような他の場所では違ったバリエーションの帽子が作られ、また似たような帽子は単に "knitted caps"(ニット帽)、"Kilmarnock cauls(キルマーノック・カウル)"、"Scotch bonnets"、"watch caps(見張り役の帽子) "とも呼ばれる[10]。

