ユーディト・フォン・バーベンベルク

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出生 1120年ごろ
オーストリア辺境伯領
ユーディト・フォン・バーベンベルク
Judith von Babenberg

出生 1120年ごろ
オーストリア辺境伯領
死去 1168年以降
モンフェッラート侯国
配偶者 モンフェッラート侯グリエルモ5世
子女 本文参照
家名 バーベンベルク家
父親 オーストリア辺境伯レオポルト3世
母親 アグネス・フォン・ヴァイプリンゲン
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ユーディト・フォン・バーベンベルク(Judith von Babenberg, 1120年ごろ - 1168年以降)は、モンフェッラート侯グリエルモ5世の妃。父方でバーベンベルク家、母方でホーエンシュタウフェン家と血縁関係にあった。

夫グリエルモ5世との間に5男3女をもうけた。息子のうち4人は地中海政治において重要な役割を果たした。中世後期には、その敬虔さと美しさで名を残した。

ユーディトはオーストリア辺境伯レオポルト3世(1073年 – 1136年)とその2番目の妻アグネス(1072年 – 1143年)の娘[1]として1120年ごろに生まれた[注釈 1]。母を通して、ユーディトはドイツ王コンラート3世の異父妹であり、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ)の叔母にあたる[2]。また、歴史家オットー・フォン・フライジングの同父妹である[3]

1133年3月28日以前に、ユーディトはモンフェッラート侯グリエルモ5世と結婚した[1][4]アレラーミチ家は十字軍遠征における主要な家門の一つであり、グリエルモ5世は甥のフランス王ルイ7世に随伴して1147年の第2回十字軍に参加した[5]

ユーディトは通常伯爵夫人の称号を用い、ルチェディオ修道院(1145年)とグラッサーノ修道院(1156年)への寄進の証人として確認される。1168年10月18日、ユーディトはモンベッロに土地を購入した。また、アスティ(1170/1174年)およびアレッサンドリア(1178年)のコミューンとの条約にもユーディトの名前が記されており、そこではユーディト自身またはその息子たちがグリエルモ5世の代理を務めることが記されていた[6]

後の歴史家ガレオット・デル・カレットとベンヴェヌート・サンジョルジョによると、1180年代初頭、ユーディトは孫であり後のエルサレム王ボードゥアン5世を訪ねるために聖地を訪れ、そこからコンスタンティノープルへ息子ラニエーリを訪ねた。ラニエーリとその妻マリア・コムネナは、ユーディトに多くの聖遺物を贈った。その中には、ユーディトが1183年に帰国した後、ルチェディオ修道院に寄進した「聖十字架」の木片も含まれていた[7][8]。この物語は後世の歴史家による記述にのみ残されており、細部において矛盾している。レオポルド・ウッセリオは、この旅の記述は恐らく事実であろうと考えているが[7]、ヴァルター・ハブセルシュトゥンプは、これをあくまで聖遺物にまつわる伝説とみなしている[8]

ルチェディオ修道院ではユーディトの死を12月14日と記録しているが、年は明記していない[6][9]。サンジョルジョによると、ユーディトはコンスタンティノープルから帰還して間もない1183年頃に亡くなったとされている[10][11]。また、サンジョルジョは、ユーディトが夫の死後間もなく亡くなったとも述べている。夫は1191年に亡くなったとされている。オリンピオ・ムッソは、ユーディトが1191年12月14日に亡くなったとしている[12][13]

後の伝説では、ユーディトはその美徳と美しさで有名であった[14]。ガレオットと同時期に著作を残したグリエルモ・カターニオ・ダ・ルは、ユーディトは息子ラニエーリがカエサルを務めていた帝都の統治にふさわしい人物であったと述べている[15]。ムッソによれば、ユーディトは「モンフェッラートで最も高名な侯爵夫人」であった[13]。ムッソは、ユーディトの美貌と高潔さの評判が、ボッカッチョの『デカメロン』第一日目第五話に登場するモンフェッラート侯爵夫人の人物像に部分的にインスピレーションを与えたと主張している[16][17]。ユーディトはフィリップ2世が十字軍遠征に出征した時の侯爵夫人であったが、当時既に70歳を超えていた。フィリップ2世が侯爵夫人と恋に落ちたというボッカッチョの物語はフィクションである[16][18]

結婚と子女

グリエルモ5世との間に以下の子女が生まれた。

注釈

脚注

参考文献

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