グリエルモ5世 (モンフェッラート侯)

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グリエルモ5世(Guglielmo V, 1115年ごろ - 1191年)は、モンフェッラート侯(在位:1136年ごろ - 1191年)。グリエルモは、モンフェッラート侯ラニエーリ1世と妻ジゼル・ド・ブルゴーニュの一人息子である[1]。ジゼルはブルゴーニュ伯ギヨーム1世の娘で、サヴォイア伯ウンベルト2世の未亡人であった。1187年に戦闘に参加できるほど健康であったことから、グリエルモは両親の末子であった可能性が高い。グリエルモ3世、または長男グリエルモと区別するためにグリエルモ老侯とも呼ばれる[2]

アチェルボ・モレーナ英語版は、グリエルモを中背でがっしりとした体格、丸​​顔でやや赤みがかった顔、ほとんど白に近いほど明るい髪の持ち主と描写している。グリエルモは雄弁で聡明、ユーモアのセンスがあり、寛大ではあったが浪費家ではなかった。血筋の点では、グリエルモは非常に有力な人物であった。教皇カリストゥス2世の甥であり、サヴォイア伯アメデーオ3世の異父弟で、アメデーオ3世の娘マティルデポルトガル王アフォンソ1世と結婚していた。また、フランス王ルイ6世の義兄弟(異父姉のアデライード・ド・モーリエンヌを通じて)であり、カスティーリャ王アルフォンソ7世のいとこでもあった。さらに、母方の曾祖母はアデライード・ド・ノルマンディーであり、イングランド王とは遠い親戚関係にあった。

グリエルモは、オーストリア辺境伯レオポルト3世アグネス・フォン・ヴァイプリンゲンの娘ユーディト・フォン・バーベンベルクと、1133年3月28日以前のある時期に結婚した[1]。ユーディトはおそらく当時15歳くらいであった。夫妻の生存している子供は1140年以前には生まれていないようで(乳児期に亡くなった年長の子供がいた可能性はある)、末の息子は1162年に生まれた。ユーディトは1168年以降に亡くなった。夫妻には5男3女がおり、そのうち4男はエルサレム王国またはビザンツ帝国において重要な役割を担った。

吟遊詩人ラインバウト・デ・ヴァケイラスの伝記によれば、グリエルモにはベアトリーチェという娘がおり、彼女はサヴォーナ侯アンリ1世デル・カレットと結婚し、ヴァケイラスの歌に登場する「美しき騎士」(Bel Cavalher)であるとされている。しかし、ヴァケイラスの歌の歌詞(後の伝記とは異なり)では、ベアトリーチェはボニファーチョ1世の娘、つまりグリエルモの孫娘とされている。

ポルト司教となり、1227年に枢機卿となったトネンゴのオットーネ(1251年没)はグリエルモ5世の息子とされ、フェデリコと混同されることがある。しかし、生没年から判断すると、オットーネはモンフェッラート侯グリエルモ6世の息子である可能性が高い。ただし、嫡出子であったかどうかは不明である。

グリエルモとユーディトの強力な血縁関係は、多くの候補者が近親婚禁止の範囲内にいたため、息子たちにふさわしい妻を見つけるのを困難にした。1167年、グリエルモは長男たちをイングランド王ヘンリー2世の娘たちと結婚させようと試みたが、うまくいかなかった。当時、娘たちはまだ幼く、ユーディトがアキテーヌ公ギヨーム5世の子孫であったことから、ヘンリー2世と血縁関係にあった。そこで彼は、血縁関係はないものの既に結婚していたスコットランド王ウィリアム1世の姉妹に結婚を申し込んだ。

東西帝国との同盟

グリエルモは、異父兄のサヴォイア伯アメデーオ3世(遠征中に戦死)、甥のフランス王ルイ7世、義弟のビアンドラーテ伯グイード、そして妻ユーディトのドイツおよびオーストリアの親族とともに、第2回十字軍に参加した。

皇帝派(後にギベリンとして知られる)の支持者として、グリエルモとその息子たちは、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(ユーディトの甥)と共に、ロンバルディア同盟との長期にわたる戦いに身を投じた。1177年のヴェネツィア条約でフリードリヒ1世が降伏すると、グリエルモは反乱を起こした都市への対処を単独で担うことになった。一方、ビザンツ皇帝マヌエル1世コムネノスは、イタリアで自らに対する支持を求めていた。

グリエルモはフリードリヒ1世と決別し、マヌエル1世と同盟を結んだ。息子コッラードは、フリードリヒ1世の宰相であるマインツ大司教クリスティアンに捕らえられたが、その後カメリーノの戦いで宰相を捕らえた。1179年、マヌエル1世は王位継承順位第2位の娘マリアとグリエルモの息子の一人との結婚を提案した。コッラードとボニファーチョは既に結婚していたため、末息子のラニエーリが10歳年上の皇女と結婚した。ラニエーリとマリアは後にアンドロニコスの王位簒奪の際に殺害され、一家はフリードリヒ1世との関係を再構築した。

十字軍

1183年、孫で未成年のボードゥアン5世がエルサレムの共同王に即位すると、当時おそらく60代後半であったグリエルモは、モンフェッラートの統治をコッラードとボニファーチョに任せ、東方へと戻った。グリエルモは聖エリアス城(現在のタイベ)を与えられた。1187年のヒッティーンの戦いで、グリエルモはサラディンの軍に捕らえられた。その間、次男のコッラードはコンスタンティノープルからティルスに到着していた。コッラードは防衛の指揮を任された。同年11月のティルス包囲戦で、コッラードは父を解放するために城壁の石一つたりとも明け渡すことを拒否し、サラディンがグリエルモを人質としてコッラードに見せた際には、自らクロスボウで射殺すると脅したと言われている。最終的に、サラディンはティルスから軍を撤退させた。1188年、グリエルモはタルトゥースで無傷で釈放され、息子コッラードとともにティルスで余生を送り、おそらく1191年の夏に亡くなったと思われる。コッラードは同年5月の特許状の中で、自身を「モンフェッラート侯爵の息子」と最後に記している。

大衆文化

脚注

参考文献

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