リッパー・コリンズ (プロレスラー)

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リングネーム "ラヴィシング" リッパー・コリンズ
プリティ・ボーイ・コリンズ
ロイ・コリンズ
本名 ロイ・リー・アルバーン
ニックネーム 引き裂き魔
身長 180cm[1]
リッパー・コリンズ
リッパー・コリンズの画像
1973年
プロフィール
リングネーム "ラヴィシング" リッパー・コリンズ
プリティ・ボーイ・コリンズ
ロイ・コリンズ
本名 ロイ・リー・アルバーン
ニックネーム 引き裂き魔
身長 180cm[1]
体重 120kg(全盛時)[1]
誕生日 1933年10月8日[1]
死亡日 (1991-11-12) 1991年11月12日(58歳没)[1]
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
オクラホマ州の旗 オクラホマ州
マスコギー郡マスコギー
スポーツ歴 アメリカンフットボール[2]
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リッパー・コリンズ"Ravishing" Ripper Collins、本名:Roy Lee Albern1933年10月8日 - 1991年11月12日)は、アメリカ合衆国プロレスラーオクラホマ州マスコギー出身。

ハワイ太平洋岸を主戦場に、ヒール金髪ラフファイターとして活躍した[3]。彼は女性プロレスラーのバーバラ・ベイカーと結婚し、彼女との間に二人の子供がいるにもかかわらず、実は同性愛者だった[4][3]

アメリカンフットボールからプロレスに転向して[2]1950年代末にデビュー(確認されている最古の試合データは1959年[5]"プリティ・ボーイ" ロイ・コリンズ"Pretty Boy" Roy Collins)などのリングネームテキサスミネソタなど各地を転戦後、1964年カナダバンクーバー地区でリッパー・コリンズRipper Collins)と改名[6]1965年1月には日本プロレスに初来日している[7]。同年12月には韓国にも遠征しており、12月17日にソウルにてキム・イル極東ヘビー級王座に挑戦した[8]

1965年4月よりハワイに登場[9]1966年1月19日にはロン・リードからNWAハワイ・ヘビー級王座を奪取、以降もハワイを主戦場に、1971年1月にかけてミッシング・リンクサム・スティムボートを破り同王座を通算7回獲得した[10]。また、カーティス・イヤウケアバディ・オースチンムーンドッグ・メインなどをパートナーに、ピーター・メイビアニック・ボックウィンクルビル・ロビンソンらが率いたチームを下してNWAハワイ・タッグ王座も再三獲得している[11]1970年7月15日にはホノルルにて、ドリー・ファンク・ジュニアが保持していたNWA世界ヘビー級王座にも挑戦した[12]

その後、1972年カリフォルニア地区で活動。ロサンゼルスではブルーノ・サンマルチノが優勝した1月14日のアニュアル・バトルロイヤルに出場(他の参加選手は、ミル・マスカラスジョン・トロスダッチ・サベージヘイスタック・カルホーンドリー・ディクソンアール・メイナードキンジ渋谷マサ斎藤など)[13]サンフランシスコではハワイ時代から因縁の続くメイビアをはじめ、レイ・スティーブンスパット・パターソンロッキー・ジョンソンらと抗争。翌1973年5月には全日本プロレスに来日、アブドーラ・ザ・ブッチャーロジャー・カービーと組んでジャイアント馬場とタッグマッチで対戦した[14]

日本遠征後の1973年下期からは太平洋岸北西部オレゴンおよびワシントン州を主戦場として、同年8月11日にブル・ラモスとのコンビでホセ・ロザリオ&アル・マドリルからNWAパシフィック・ノースウエスト・タッグ王座を奪取[15]。翌1974年ジミー・スヌーカを相手に同ヘビー級王座を争った[16]。ハワイへの参戦も続け、1973年11月28日にはジョニー・バレンタインと組んでメイビア&スティムボートの人気コンビからNWAハワイ・タッグ王座を奪取している[11]

その後は中西部地区を経て、1976年よりカルガリースタンピード・レスリングに進出。ラリー・シャープをパートナーに、ボディシャス・ブロンズThe Bodacious Blondes)なる金髪タッグチームを結成、エディ&ジェリー・モローの兄弟チームとインターナショナル・タッグ王座を巡る抗争を展開した[17]1977年1月には揃って国際プロレスに参戦。外国人サイドのエース格としてリップ・タイラーエディ・サリバンのコンビが同時来日していたため、IWA世界タッグ王座への挑戦は見送られたが、1月18日の愛知県碧南市大会ではラッシャー木村との金網デスマッチが行われた[18]。なお、スタンピード・レスリングではヒールのマネージャーも兼任しており、1976年下期に2度目の海外遠征でカルガリーに来ていたヒゴ・ハマグチことアニマル浜口のマネージャーを担当したこともある[19]

カルガリーを離れてからは、ハワイでも組んでいたルーク・グラハムをパートナーに、五大湖エリアからアメリカ南部まで各地を転戦。ザ・シークの主宰していたデトロイト地区では、1977年アル・コステロ&トニー・チャールズからデトロイト版のNWA世界タッグ王座を奪取[20]テネシーのミッドアメリカ地区では同年5月2日、メンフィスにてダニー・リトルベア&チーフ・サンダークラウドを破り、NWAテネシー・タッグ王座を獲得している[21]

グラハムとのコンビ解散後、1979年ニュージーランドに遠征。5月18日にオークランドにてリック・マーテルからNWA英連邦ヘビー級王座を奪取したが、3カ月後の8月20日、因縁のピーター・メイビアに敗れ王座を明け渡した[22]

以降、1980年代はホームタウンのハワイに定着して、ビリー・ホワイト・ウルフらと抗争する一方、弁才を活かして試合中継のカラー・コメンテーターを担当。引退後も、ピーター・メイビア未亡人のリア・メイビアが主宰したポリネシアン・パシフィック・レスリングにてテレビ番組の司会を務めた[23]

ハワイでは現地の話し方を揶揄したマイクパフォーマンスで観客を煽るなど、「もっとも憎まれたレスラー」の一人とされるほどの悪役ぶりを見せたが[9]、本人はハワイを愛し、晩年までマウイ島に居住していた[23]1991年11月12日、ハワイのビーチでの過剰な日光浴が原因の悪性黒色腫により死去[3]58歳没

得意技

獲得タイトル

脚注

外部リンク

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