フェルディナン・サリアン
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1840年10月15日、ソーヌ=エ=ロワール県ブルボン=ランシー(英語版)で生まれた[1]。1863年にパリで弁護士資格免許を取得し、1870年から1874年までリヨンで弁護士業に勤しんだ[1]。普仏戦争ではディジョンの戦い(英語版)に参戦した[1]。1871年にブルボン=ランシー市長だった父が死去すると、同年10月に父の後を継いで市長に就任した[1]。1873年5月24日に解任されたが、1876年5月17日に復帰し、1881年まで務めた[1]。
1876年フランス代議院選挙(英語版)でソーヌ=エ=ロワール県シャロルから選出されて代議院議員になった[1]。サリアンは共和派に属し、1877年5月16日の危機(英語版)を受けて363人のマニフェスト(フランス語版)に署名した[1]。1877年(英語版)、1881年(英語版)、1885年(英語版)の選挙でも再選した[1]。この頃より政見が左派寄りになり、1885年の急進左派内閣であるアンリ・ブリッソン内閣に郵政・電報大臣(フランス語版)として入閣した[1]。続くシャルル・ド・フレシネ内閣では内務大臣に転じ、1886年6月に王族オマール公アンリ・ドルレアンの海外追放を擁護した[1]。同年12月に成立したルネ・ゴブレ内閣で司法大臣に転じたが、ゴブレ内閣は1887年5月に予算案問題で崩壊し、サリアンも辞任した[1]。1887年12月にピエール・ティラール内閣が成立すると内務大臣として入閣し、1888年4月に内閣が崩壊するまで務めた[1]。
1889年(英語版)、1893年(英語版)、1898年(英語版)、1902年(英語版)、1906年(英語版)の選挙で再選した[1]。1896年3月、レオン・ブルジョワの内閣改造で内相として入閣したが、2週間後に退任した[1]。1898年6月、ドレフュス事件の最中にブリッソンが再び組閣すると、司法大臣として入閣した[1]。
1906年3月に第3次モーリス・ルーヴィエ内閣が倒れると、その後任として組閣し、司法大臣を兼任した[1]。サリアン内閣期に政教分離、教育の世俗化が進み、労働組合に結社の自由が保証され、アルフレド・ドレフュスに無罪判決が下された[1]。サリアンは同年10月には健康の悪化を理由に辞任したが、サリアン内閣は後に7人の首相(ルイ・バルトゥー、レオン・ブルジョワ、ジョルジュ・クレマンソー、ガストン・ドゥメルグ、ジョルジュ・レーグ、レイモン・ポアンカレ、アルベール・サロー)を輩出したことで知られた[1]。このうち、クレマンソーはサリアンの後任として組閣した[1]。
1909年1月にソーヌ=エ=ロワール県から元老院議員に選出された[2]。しかし健康を害していたこともあり、議会活動はまばらになっていった[1]。1915年11月28日、パリで死去した[1]。
出典
| 公職 | ||
|---|---|---|
| 先代 アドルフ・コシュリ(英語版) |
郵政・電報大臣(フランス語版) 1885年 |
次代 フェリックス・グラネ(フランス語版) |
| 先代 フランソワ・アラン=タルジェ(英語版) |
内務大臣 1886年 |
次代 ルネ・ゴブレ |
| 先代 シャルル・デモル(英語版) |
司法大臣 1886年 – 1887年 |
次代 シャルル・マゾー(フランス語版) |
| 先代 アルマン・ファリエール |
内務大臣 1887年 – 1888年 |
次代 シャルル・フロケ |
| 先代 ジョルジュ・レーグ |
内務大臣 1896年 |
次代 ルイ・バルトゥー |
| 先代 ヴィクトル・ミリヤール(英語版) |
司法大臣 1898年 |
次代 ジョルジュ・ルブレ(英語版) |
| 先代 モーリス・ルーヴィエ |
閣僚評議会議長(首相) 1906年 |
次代 ジョルジュ・クレマンソー |
| 先代 ジョセフ・ショーミエ(英語版) |
司法大臣 1906年 |
次代 エドモン・ギヨー=デセーニュ(フランス語版) |
