ルノー D2

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種類 中戦車
原開発国 フランス
配備先 フランス
関連戦争・紛争 第二次世界大戦
ルノー D2
種類 中戦車
原開発国 フランス
運用史
配備先 フランス
関連戦争・紛争 第二次世界大戦
諸元

主兵装 47 mm SA 34 戦車砲
47 mm SA 35 戦車砲 (後期型)
副兵装 2× 7.5 mm 機関銃
エンジン ルノー 9.5リッター 4ストローク直列6気筒液冷ガソリン、最大150 hp
出力重量比 7.6 hp/tonne
懸架・駆動 垂直スプリング
行動距離 100 km
速度 23 km/h (14 mph)
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ルノー D2 (Renault D2) は戦間期のフランスの中戦車である。

1930年、ルノーはいまだ量産されていなかったルノー D1の装甲を強化した改良型としてルノー D2の生産を同意した。旧来のリベットを多用した設計を用いないことで重量の削減が期待されていた。この戦車はより大型の重戦車であるルノーB1の代替車両となることが期待されていたが、しかし軍備制限協議の失敗の結果として当初の計画より大幅に製造数が削減され一時的に採用された戦車の一つになってしまった。ルノーの組織上の問題により、初期生産の50輌の生産は1936年から1937年に遅れることになった。機械的な信頼性の低さが示されていたにもかかわらず、歩兵科の戦車部隊を強化するために高価なルノーB1よりも安価な選択肢として2度目の発注が1938年に行われた。ルノーの財政上の問題のため、この部分的に改良された後期生産型は1940年初頭に少数が完成しただけで総生産数は100輌にとどまった。

3輌の試作車両はモックアップではルノーFTの砲塔が取り付けられていた。初期生産型は短砲身の47mm SA34戦車砲で武装したAPX 1砲塔を装備。後期生産型ではより強力な47 mm SA35 戦車砲を装備している。

1937年、この戦車は精鋭部隊とみなされていたシャルル・ド・ゴールの指揮する連隊隷下の1個戦車大隊に配備された。この部隊は通信機の使用などを含む先進的な戦術を訓練されていた。1940年にはこの部隊の能力は戦車の消耗と不十分な訓練の乗員しかいないにもかかわらず3個中隊が新設されたことで低下していた。それにもかかわらず、ルノーD2装備の戦車部隊はフランスの戦いにおいて粘り強く戦い、損失のほとんどは敵に撃破されたのではなく機械的故障だった。

開発

ルノーD1の発注と同時により近代的な戦車を開発する計画が立ち上がった。ルノーD1はすでに純粋な歩兵支援戦車という枠組みから脱し、敵の戦車とも交戦可能な中戦車へと進化していた。国際連盟が取り組んでいた国際的な軍備削減により20トン以上の装甲兵器が規制される可能性があったため、その対象となる大型のルノーB1の役割を代替する戦車の候補となったのである。[1]

1930年1月23日、歩兵科は国防省への書簡にて40 mmの装甲板を装備しかつ120 馬力のエンジンを備え時速22 km以上で移動する高性能な戦車の製造を提案した。同時に重量は14から15.5 トンに抑えなければならず、これは装甲をリベット止めではなく溶接とすることで可能となるとされた。4月14日に計画は承認され、5月には後にルノーD2およびその植民地配備型のルノー D3を受注することになるルイ・ルノーに連絡を取った。

この新たな鋳造技術の導入には外国の専門家を雇い入れる必要があったが、これは非常にコストがかかった。ルノーはこの導入費をフランス軍が前払すべきであると主張したが、軍にそのような予算はなかった。1931年12月8日、この対立を打破するために新たな合意が結ばれ、ルノーは先立ってリベット止めの車体で試作車両を作ることとなり1932年4月にルノーUZ が完成した。この車両は当初リュエイユで試験され、1933年5月には 第503戦車連隊によって野外試験が行われた。1933年12月12日には生産の合意が取り付けられ兵器諮問委員会(Conseil Consultatif de l'Armement)に承認された。

しかしドイツが国連連盟を脱退した瞬間に軍備制限交渉が意味をなさなくなり、その後フランスもこの交渉から引き揚げてしまう。当初予定されていた1935年から1939年までの間に年間150輌のルノー D 2を生産するという計画[2] (12個大隊に配備するための600輌と予備として150輌)は直ちに削減された。1934年1月14日、最高司令部が承認したのは最初に発注した50輌についてだけであった。この決定はリベット止め装甲の試作車両で得られた経験に基づいて行われていたが、しかし当初の想定通り溶接装甲の車両だったなら別の結論が導き出されたかもしれないと認識されていた。

一方で、1932年12月に溶接装甲の試作車両が2輌発注されていた。これらは1933年8月に完成していたが受領されたのは11月であった。1934年12月から1935年の夏までの間、ヴァンセンヌの自動車試験委員会(Commission de Vincennes)は存在した3輌の試作車両でそれぞれ異なるエンジンを試験した。リベット止めの車体は120馬力のガソリンンジンで他の2輌はディーゼルエンジンである。計画通りの溶接車体との組み合わせを試験するまでもなくガソリンエンジンが支持された。

このような状況であったが、1934年12月29日に50輌の車体が41万フランスフランの単価でルノーに発注された。砲塔の製造はこれとは別に行われた。最初にST3砲塔( Schneider Tourelle 3、シュナイダー砲塔3型)が1933年に試験されたが、より大型の戦車への搭載も視野に入れたST2砲塔も検討されたうえで、最終的には当初ルノーB1のためにピュトー工廠で開発されていたAPX 1砲塔の搭載が決定され単価は610,000フランとなった。50輌が1936年5月になってようやく受領された。

この生産の遅延のために1935年に総生産数を150輌との計画にもとづく100輌の二次生産はキャンセルされてしまった[2]。ルノーD2は戦車部隊の編成を急ぐために今すぐ生産に移れる暫定的な戦車だとみなされていたからである。

構造

本質的にはルノーD2はルノーD1の改良型である。搭載する砲塔の違いによって車高は多少変化するがおおむね266.6 cmほどであり、車体の高さは175.5 cmである。車体長は尾橇(塹壕超越用の装備)を除いて546 cm。幅35 cmの狭狭履帯を装備し、全幅は222.3 cmである。誘導輪が前方に、起動輪が後方にある、後輪駆動方式である。サスペンションは基本的にD1と同様だが、D1で問題とされた履帯の共振を防ぐために、上部転輪にテンションホイールが追加され、位置も高くされている。3つの垂直コイルスプリングを覆う装甲板(サスペンション・アーマー)はパネルが8枚から6枚に減らされ、上部転輪の下方に「泥落とし」(マッドシュート、mud chute※)が追加された。

※chute: 「滑り台」「落下口」「排水溝」を意味し、泥や物を滑らせて落とすための傾斜面や溝を指す。

片側3つづつボギーがあり、それぞれのボギーに4つの下部転輪、コイルスプリング、2つのショックアブソーバーがまとめられている。前方と後方には、専用のダンパー付きテンションホイールが備えられており、これは下部転輪と同様の機能を果たすため下部転輪の数は片側14個となる。もう1つの変更は、車体上部両側面に、主装甲の一部のように誤認されがちな、収納スペース(雑具箱)兼用の大型のフェンダーが追加されたことである。

量産車の当初意図されていたより大幅に少ない部分しか溶接が採用されなかった。価格を下げるためにルノーは、ボルトおよび過熱後はリベットとしての機能を果たす大型の皿ねじを使用し、薄いひとつながりの鋼帯によって主装甲板を互いに結合する斬新な技術を採用した。この方法ならば車体を形成するための内桁が不要となる。主装甲板は40 mm厚である。胴体前面装甲板下部中央の円筒状の部品は、大型の前照灯(前面の蓋を取り外して使用する)である。

ルノーD1と同様に乗員は3人だが、無線手は指揮官の代わりに運転手の右側に配置されており、ER52戦車用無線機のアンテナも無線手の隣に移動している。このスペースを開けるため車体機銃が取り除かれた。この構成は戦闘室をより広くするためにのものだった。製造番号2016および2049の2輌の指揮戦車は左側にER51長距離無線機のために2本目のアンテナが搭載されていた。エンジン出力はルノーV6 9.5リッターエンジンに換装することで150馬力に強化された [3]が、同時に原設計での15.5トンから19.75トン、つまり20トンの要求ギリギリまでに増加したので最高速度の増加は時速23 kmまでにとどまった。変速機は4段変速である。4つ合わせて352リットルの燃料タンクは100 kmの航続距離を実現している。渡河能力は深度120 cmまで、塹壕超越は深さ210 cmまで、高さ80 cmまでの障害物を乗り越え、勾配50%までの斜面を登坂可能であった。車体右側に7.5 mm機関銃が装備されている。

APX 1砲塔には車長しか搭乗しておらず、限定的対戦車能力を持つ47 mm SA34 戦車砲および7.5 mm同軸機銃の砲手と装填手を兼務している。Obus Dと呼ばれる重量1250 g,砲口初速490 m/sの榴弾と、Obus Bと呼ばれる重量1410 g(炸薬量142 g)、砲口初速480 m/sの徹甲榴弾の2種類の砲弾が発射可能であった。貫通力は距離100 mで25 mmであり、これは軽装甲の車両にどうにか有効打を与えることができた。

2度目の発注

最初に生産された製造番号2004から2053までの50輌(番号2001から2003は試作車が使用)は1936年5月9日から1937年2月23日までの間に受領されたが、国防省は1937年4月10日に新たに50輌の発注を決定し[4]、兵器諮問委員会(Conseil Consultatif de l'Armement )にも1937年5月に承認された。これは高価で陳腐化しつつあるルノー B1の製造が続けられるべきか否かという当時行われていた議論と関係しており、あらゆる選択肢を残す目的でルノー D2の生産が継続された。ルノーは年間200輌の製造が可能だと保証した。実戦配備されたこの戦車についての1937年の最初の報告書では明らかに信頼性い車両であると警告していた。にもかかわらず、1938年6月に生産命令が下った。しかし、ルノーの深刻な財政的および社会的問題のために、当初しばらくの間は生産を実施できなかった。予備部品の生産さえ遅延したために既存車両の信頼性の問題はなおのこと悪化した。

ルノーは同時期に生産していた戦車AMC35でも躓いていた。AMC35への関心はベルギーのような他国の購入者からも多かれ少なかれ注がれ続けており、ルノーD2でも類似の事態が発生した。1936年9月にフランス兵器購入のために獲得した10億フランの輸出信用を用いてルノーD2の自国での生産すべきかどうかを調査する委員会が1938年8月にポーランドから到着した。当初ポーランドはより近代的なソミュアS35の導入を望んでいたが、フランス軍への配備を優先するために拒否されていた。技術移転とライセンス生産の是非の問題によって複雑化した交渉は当初は頓挫してしまう。1939年初頭には後期生産型をポーランドに送ることが検討されたが、これはフランスの最高司令官モーリス・ガムランによって差し止められてしまった。彼は先に生産された50輌の状態が非常に悪く、1個大隊にこの戦車を実戦配備させ続けるには新しい車両へ完全に置き換えることが最善だと考えていたのである。その後に引退させた車両を火炎放射戦車へと改造することが考えられていた。

第二次世界大戦が始まった後の1939年9月27日、エドゥアール・ダラディエはこの戦車は将来の更なる量産が見込まれた戦車ではないが、それでも以前の製造型を代替する必要を認めて2回目の発注は完遂しなければならないと決定した。[5] また初期生産型のうち15輌を火炎放射戦車にすることも命じた。この事業から得られる収入によってルノーが製造を再開できるようになった。計画では1940年2月に5輌、3月に8輌、4月から6月は毎月10輌、7月に最後の7輌が納入されることが見込まれていた。実際には2月に6輌、3月に17輌、4月に6輌、5月に13輌、6月に8輌が納入された。軍への配備は3月27日に5輌(製造番号2054-2058)。4月22日に8輌(N°2059-2062と2065–2068)。5月6日の10輌(N°2069-2078)、5月25日には12輌(N°2079-2090)、6月6日に2輌(N°2063と2064)。残りの13輌(N°2091-2103)については配備されたかわかっていないが、少なくともルノーの工場が6月12日に避難しなければならなくなったとき南方へと送られたことはわかっている。

2度目の生産で作られた車両にはいくつかの改良が施されていた。最も重要なのは長砲身SA35戦車砲を搭載のAPX 4砲塔への換装で、約2倍の装甲を貫通でき対戦車戦闘能力が劇的に向上した。砲弾の長さが伸びたため砲弾の搭載数は108発に減少した。新砲塔では単眼鏡の代わりにPPLR X 160エピスコープへと置き換えられ、後部ハッチ上方の砲塔上面に対空火器として機関銃を乗せるためのS 190 Gアタッチメントポイントが配置されていた。ルノーB1の改良型がB1 bisと名付けられたのと同様に1940年の内部文書には "Char D2 bis"として記載したものもあったが、公式には改名されなかった。[6]

その他の変更点として下部転輪用の軸受けの強化や履帯が外れにくくするために起動輪と遊輪の形状の変更、泥除けの縮小、アンテナの軽量化、バッテリーの消費を抑えるためエンジン起動装置などの変更のよな足回りに関する改良が施されている。

初期生産型の改修

運用歴

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