ヴェルサイユ行進
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背景
政治的な動乱に加え、1788年から89年の厳冬によって都市、地方問わず飢餓と貧困が深刻化した。一説によれば、パリには8万人の失業者が存在し、織物業が盛んな地方においては半分以上の織機が未稼働だったという[1]。さらに1788年7月の雹嵐は堤防の破壊、家畜や織物業への被害を与えた。このような状況の中、貧しい労働者たちは全国三部会に希望を寄せていた。厳冬が長引いたことで生じた飢えと不安は、ルイ16世による全国三部会召集への期待をさらに加速させた。人々は状況打破のため行動を開始し、租税や貢税の支払い拒否といった結果を招いた。時に彼らは、王が貢税や十分の一税を廃止してくださると主張した[2]。
バスティーユ襲撃事件は、第三身分と国民議会の勝利をもたらした一方で、民衆の暴力性に議会は困惑した[3]。また、全国三部会への期待は貴族が改革を妨害するであろうという不安と表裏一体であり、こうした不安は大恐怖と呼ばれるパニック状態に発展する[4]。これによって農民が起こした領主など権力者への報復は、改革の必要性や事態を治めるためといった観点からの封建制の廃止に繋がった[5]。またこの時期、再びルイ16世によって議会解散の危機に立たされる可能性への恐れもあり、議会が目指すべき目標を明文化した人権宣言が早急に作成された[6]。この頃、決定を先送りし続けるルイ16世への駆け引きとして、新憲法や王の拒否権についてが議論され、完成した憲法では一院制をとることと王に拒否権を認めることが決定された。それはこの頃から保守化し始めた一部の議員にとって、王と妥協し革命を進めるための措置だったのだが、それでもルイ16世は動かず、議会は状況を打破できずにいた[7]。
7月は豊作だったが、パリの民衆は何故これが穀物の価格低下に繋がらないのかと疑念を抱いていた。さらに、ルイ16世が封建制廃止と人権宣言についていまだ意見を述べていなかった点も民衆の負の感情を増幅した[8]。
1789年の9月末にフランドル連隊の到着したため、10月1日、連隊の士官たちを歓迎するための宴が宮殿にて開かれた。その席で会食者たちは、三色徽章を投げ捨てて足で踏み躙り、ブルボン家の色である白や王妃マリー・アントワネットの祖国オーストリアを表す黒の徽章を身につけた[9]。3日、このニュースがパリに伝わる。行政区はこれを議会に対する挑発と見做し、4日にはパレ・ロワイヤルに大勢の人々が集まった。特に女性が多く、彼女達は翌日にヴェルサイユに行進すると話していた[9]。
決起
1789年10月5日、朝8時頃。この時の出来事は事前になんらかの計画が立てられ、リーダーも存在したと言われているが、詳細は不明である。この時、フォブール・サン=タントワーヌやレ・アールといった地区から女性たちが市役所の前へと集まった。彼女達はパンを要求したが、市長バイイも国民衛兵司令官ラファイエットも不在であったため、ヴェルサイユ宮殿に行くことがその場で決定された。また、正午頃には国民衛兵が市役所前に集まり、自分たちの三色徽章が侮辱された件について講義するためヴェルサイユへと赴くことを要求した。ラファイエットは思いとどまらせようとするも成功せず、パリ市の代表二名を連れ、午後5時頃にヴェルサイユへと出発した[9]。
女性たちは途中で商店からの略奪などを行ったが、午後4時頃、降りしきる雨の中でずぶぬれになった女性たちがヴェルサイユに到着する[9]。ヴェルサイユへと行進したその人数は二万人におよび、その先頭にはスタニスラス・マイヤールとテロワーニュ・ド・メリクールがいた[10]。
事実上パリを管轄していた大臣のサン=プリースト伯爵は、この事件をルイ16世に知らせようとしたが、彼はすでに銃猟に出かけていた。狩猟よりも銃猟の方が出先で連絡がつきやすいため、これは政治的緊張に対する王なりの譲歩であった。同日の王の日記には、「シャティヨン門のところで銃猟をした。81の獲物を仕留めたが、事件によって中断された」と記されている。ルイ16世は、午後三時までには宮殿に戻った[10]。
代表が議会の議場に入り、パンの供給とフランドル連隊の退去を要求した。狩りから呼び戻された国王ルイ16世は、何人かの議員に伴われて宮殿に参内した女性たちの代表に面会した。そこではパリに小麦を送ること、ヴェルサイユにあるパンも可能な限り供給することが愛想良く約束された[9]。満足した女性たちの中からは、パリに帰る者も現れた。ルイ16世も事件は片付いたとみて近衛兵を解散させている。夜9時過ぎ、パリ国民衛兵の先遣隊が到着した。大臣サン=プリーストはルイ16世を脱出させようとするも、逃亡した国王となることを拒否したルイ16世は夜10時頃、先手を打ち、8月と9月の諸法令をすべて受理すると議会に通告した。11時頃になると国民衛兵の本隊が到着し、同行してきたパリ市代表がルイ16世に面会したが、法案を受理やパリへの食糧供給の件は既に片付いていた。そのため彼らは王のパリ帰還のみを要求するも、この件は翌日へと持ち越される[11]。
6日、屋外で夜を越した女性達や集まってきた野次馬は、朝6時頃から宮殿の鉄柵に集まっていたが、偶然開いていた所から何人かが中庭に入ったためにそれを見咎めた近衛兵とトラブルになった。事は大きくなり、群衆は宮殿内にある王妃の控えの間まで乱入した。国民衛兵が仲介に入ったため場は収束へと向かい[12]、ルイ16世は民衆を宥めるためバルコニーに姿を現すも気が動転して何も言えなくなったが[10]、それでも国王一家とラファイエットが姿を見せると歓声が上がった。その時、「パリへ」と誰かが叫び、それを周りも唱和し収拾がつかなくなった。もはやルイ16世も議会も、その声に服す以外に手はなかった[12]。
その後
同日の午後1時頃、パリの国民衛兵、小麦や小麦粉を積んだ馬車、パリの女性や若者、国王一家と近衛兵などが列となってパリに向かった。国王一家は役所に迎えられ、何人もの挨拶を聞いた後、夜10時にテュイルリー宮殿に入った。議会も移動し、同月19日にパリに移る。当初は大司教館の広間を議場としていたが、11月9日に急遽議場向けに改造された宮殿の調馬場に落ち着いた[13]。
何人かの女性たちは、自分たちが国王一家を「パン屋とその女房、そしてパン屋の丁稚」として連行したのだと主張した。これは、食糧供給に関して王は神に対する責任を持つという旧来の考え方に由来する。他方、市長バイイは6日にパリに戻った女性たちは王妃への敬意を欠いた歌を口ずさんでいたと回想した。マリー・アントワネットは首飾り事件や私生活に関する噂、彼女自身の行いによって、ひどく不人気であった[14]。
この事件とバスティーユ襲撃というパリ民衆の暴力性に補助され、全国三部会は憲法制定議会として確立された。そして封建制の廃止や人権宣言といった、新たな憲法に関わるいくつかの法令を成立させていく。また、事件以降はルイ16世が裁可権によって議会の決定を拒否し、憲法の制定を妨げることができないような体制作りが目指された。1791年憲法による、革命完遂に向けた道は整いつつあった[15]。
