大恐怖
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一連の暴動は、半世紀にわたる反乱と、さらに反封建的な抗議運動の増加に続いて起こった[3]。農民の要求が反映された全国三部会のための陳情書の存在は、1788年の不作の後、それまで以上に彼らを悩ませていた封建的特権と地代に改革が加えられる希望を抱かせた[4]。しかしそこには、そのような改革に対して、今まで自分たちと相反する考えを持つ貴族たちが黙っているはずがないという不安と恐怖(アリストクラートの陰謀と呼ばれる)が伴っていた[5]。
バスティーユ襲撃事件のニュースは都市と農村部に歓喜と熱狂を引き起こし[6]、全国三部会への希望とその裏返しとしてのアリストクラートの陰謀を生じさせた[7]。そして、「竜騎兵が弾圧に来るという噂が流れた」「森から人が出てくるのを遠目で見た」といった他愛ない話に尾ひれがつき、耕地で働く農民とはまた違う存在だった木こりや炭焼き、坑夫といった存在をも恐怖の対象と認識させた[8]。とくに激しい暴動が起きたのはノルマンディ、メーヌ南部、フランドルの諸地域、アルザスおよびフランシュ・コンテ北部、マコネ、ドフィーネだった。農民たちは自分の利益を、地主や税の徴収人といった搾取する立場の者たちから守ろうとした。したがって、税と領主貢租が比較的重くなく、商業主義もあまり発展していなかったラングドッグのような地方では、激しい暴動に発展したケースはあまり見られない[9]。
混乱
パリから北東に20マイルほどの場所にあるシリ=アン=ミュルティアンの村では、学校教師で教区司祭のピエール=ルイ=二コラ・ドゥラエという人物が、
警鐘が鳴り響き、すべての壮丁を召集すべく司祭が村中を駆け回った。皆が武装し、数名の者は小銃を構え、他の者たちは(農作業用の)熊手や鋤、斧や(干し草用の)三つ又を手にしていた。こうして何であれ使えそうなものを手にして、(三色)徽章を身につけた司祭を先頭に出発した。
と記録している[10]。
リヨン東部のブレスやビュジェといった山間の村落では、バスティーユ襲撃事件の知らせが届く前から、すでに貴族の邸宅を威嚇包囲していた。そしてひとまず危険がない事がわかると、ブレスでは村に住む多くの農民たちは自らの手で「資格なくして領主なし」という信念に基づき、封建土地台帳を没収したり燃やしたりした。7月25日にはサン=シュルピス教会が方々の村からやってきた800人もの農民によって攻撃され、修道士たちを脅して台帳を燃やさせたり、修道院の貯蔵庫を略奪したりした。その翌日、農民たちによって絞首台が建てられ、怯えた修道士たちは修道院に火が放たれる前に周辺の森へと逃げ込んだ[11]。
7月下旬には、国民議会の議員タレーランの所領だったスノザンを含む貴族の邸宅が略奪・放火にあった。徴収されていた食料や飲み物、金銭が金持ちや聖職者から取り戻され。封建土地台帳は燃やされた。クリュニー修道院は特に標的となり、ここでの騒乱によってワイン醸造所の正業員、賃金労働者、物乞いといった約160人が強奪者として逮捕された。この内、大部分の者が巻き込まれただけであり危害を及ぼすつもりはなかったと主張したのに対し、一握りの者たちは修道院を燃やすといった行動に出る意図があったと認め[11]、最終的に27人が絞首刑となった[12]。
アルザスでは、いくつかの村でユダヤ人の家々が略奪にあった。そこからさらに北にいったロレーヌの東部では7月22日、サルグミーヌコミューンの住民たちが大々的にバスティーユ襲撃事件を祝い、これは同月28における徴税官たちの逃亡を招いた[10]。
