一畑電気鉄道広瀬線
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路線データ
歴史
月山富田城[3]の城下町として栄えた広瀬は、江戸時代初頭に松江に繁栄を奪われ、国鉄山陰本線も町内を通過することはなかった。昔の繁栄を取り戻したいと考えた広瀬地区の住民が、山陰本線と広瀬を結ぶ鉄道を計画し、大正時代末期に広瀬鉄道株式会社(ひろせてつどうかぶしきがいしゃ)を設立した。資金は広瀬町民らが多数の小口出資で行われた。通例ならば能義郡の中心地安来駅を目的地とするが、資金面の問題から飯梨川を渡る鉄橋建設が困難だったことや建設距離が短くて済んだこと、そして島根県の県庁所在地・松江との往来を念頭に置いたことから接続駅を安来駅の一つ松江寄りになる荒島駅に設定した。
地形的にも建設が困難な場所は少なかったために、建設工事は短期間で済んだ。1928年(昭和3年)7月24日に、荒島 - 出雲広瀬間の8.3 kmが開業した。開業当初は、全長9 m級の木造単行車である、デハ1・2と、サハ3・4が用意されて運行していた。機関車はなかったため、貨物列車は電車が牽引していた[4]。島根県では、北松江線に次いで2番目に電車の走った路線となった[5]。しかし、当初は旅客・貨物が多く活況を呈していたこの路線も、時代の波に翻弄されることとなる。

太平洋戦争中は、米子駅を起点とする伯陽電鉄(旧・法勝寺鉄道)と合併し、山陰中央鉄道(さんいんちゅうおうてつどう)の広瀬線となっていた。戦時中・戦後は、買い出しに行く利用客や石炭輸送・学徒動員などでかなり賑わっていたという[4]。しかし、戦時統合による合併は、双方とも意味をなさないと考え、1948年(昭和23年)4月1日に分離され、島根鉄道(しまねてつどう)として独立することとなった[4]。また、当時島根県西部から東部にかけては日ノ丸自動車と一畑電気鉄道とで激しい覇権争いが繰り広げられており、これに島根鉄道も巻き込まれることとなった。結局1954年(昭和29年)12月1日に一畑電気鉄道が島根鉄道を合併することになり、一畑電気鉄道広瀬線になった[4](前年の1953年には日ノ丸自動車が山陰中央鉄道を合併している)。しかし、モータリゼーションの進展や沿線の過疎化で乗客や貨物は減少し、それ故に老朽化した施設を更新することもままならない状態であった。
一畑電気鉄道も広瀬線の鉄道経営に未練はなかったようで、1957年(昭和32年)4月の株主総会において、広瀬線のバス転換が決議される。沿線住民からの反発は大きかったものの、1959年(昭和34年)10月の広島陸運局(現・中国運輸局)による保安調査にて、鉄道施設の老朽化が激しく存続は困難だという結論が出た[4]。
島根県はこれに、鉄道路線を廃止する代わりに「鉄道路線の廃線跡・敷地跡は地元に寄付すること」「並行する県道180号広瀬荒島線の整備を行うこと」という調停案を示し、廃止が決定された。そして、1960年(昭和35年)6月20日に廃止され、32年の歴史に幕を下ろした[4]。
年表
- 1924年(大正13年)9月25日 - 鉄道免許状下付(能義郡荒島村-同郡広瀬町間 動力蒸気)[6][4]。
- 1925年(大正14年)11月2日 - 広瀬鉄道株式会社が設立[7][8][4]。
- 1928年(昭和3年)7月24日 - 荒島 - 出雲広瀬間開業[9]。軌間は1067 ㎜(狭軌)で、当初より直流600 Vで電化[4]。
- 1929年(昭和4年)
- 1930-1934年 - 鷺ノ湯駅を鷺の湯駅に表記変更。
- 1933年(昭和8年)12月15日 - 仲仙寺駅、小原駅開業。
- 1944年(昭和19年)10月31日 - 伯陽電鉄との合併に伴い、山陰中央鉄道の広瀬線となる[4]。
- 1946年(昭和21年) - 1952年(昭和27年) - 西赤江駅、小原駅、鷺の湯駅廃止。温泉前駅を0.2 km荒島寄りに移転。
- 1948年(昭和23年)4月1日 - 山陰中央鉄道から独立し、島根鉄道の広瀬線となる[4]。
- 1954年(昭和29年)12月1日 - 一畑電気鉄道に吸収合併され、一畑電気鉄道の広瀬線となる[4]。
- 1955年(昭和30年)1月1日 - 温泉前駅を鷺湯温泉前駅に改称。
- 1957年(昭和32年)4月 - 一畑電気鉄道の株主総会で路線の廃止が決議。このことを契機に沿線住民による反対運動が起きる。
- 1959年(昭和34年)10月 - 広島陸運局(現:中国運輸局)の保安監査で存続は困難という結果が示される。
- 1960年(昭和35年)
- 4月28日 - 島根県が示した調停案(鉄道は廃止するが跡地は地元に寄付すること、並行して通る島根県道180号広瀬荒島線の整備を推進すること)に会社側・住民側双方が調印。
- 6月20日 - 廃止される。
運行形態
廃止直前のダイヤである[4]。
- 列車本数:1日13往復
- 間隔:概ね60分間隔
- 所要時間:全線25分
- 最高速度:30 km/h
駅一覧
輸送・収支実績
| 年度 | 乗客(人) | 貨物量(トン) | 営業収入(円) | 営業費(円) | 益金(円) | その他損金(円) | 支払利子(円) | 政府補助金(円) |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1928 | 95,144 | 2,593 | 18,338 | 21,247 | ▲ 2,909 | 雑損421 | 11,358 | |
| 1929 | 178,475 | 5,795 | 35,203 | 33,435 | 1,768 | 雑損232 | 17,977 | 22,823 |
| 1930 | 145,632 | 4,569 | 28,808 | 30,019 | ▲ 1,211 | 雑損1,052 | 16,092 | 23,659 |
| 1931 | 129,381 | 5,421 | 26,698 | 22,868 | 3,830 | 雑損6,229 | 14,340 | 19,764 |
| 1932 | 114,827 | 4,452 | 23,543 | 22,488 | 1,055 | 雑損及差損金5,428 | 12,156 | 23,650 |
| 1933 | 126,162 | 5,012 | 24,158 | 16,970 | 7,188 | 雑損784自動車6,239 | 10,464 | 11,873 |
| 1934 | 122,389 | 4,650 | 25,327 | 19,327 | 6,000 | 雑損589自動車12,739 | 8,354 | 23,699 |
| 1935 | 122,658 | 4,694 | 25,427 | 21,931 | 3,496 | 雑損償却金13,710 自動車5,565 | 6,912 | 23,702 |
| 1936 | 125,419 | 5,238 | 26,712 | 22,968 | 3,744 | 償却金19,828 自動車3,164 | 5,573 | 23,709 |
| 1937 | 136,023 | 6,331 | 28,681 | 19,964 | 8,717 | 雑損347償却金20,707 自動車4,311 | 4,016 | 20,778 |
| 1939 | 212,281 | 10,278 | ||||||
| 1941 | 377,262 | 15,634 | ||||||
| 1943 | 590,842 | 17,187 | ||||||
| 1952 | 414,690 | 12,581 | ||||||
| 1955 | 411千 | 17,646 | ||||||
| 1958 | 575千 | 13,082 | ||||||
| 1960 | 8千 | 2,572 | ||||||
- 鉄道統計資料、鉄道統計、国有鉄道陸運統計、地方鉄道統計年報、私鉄統計年報各年度版
車両
開業時に用意された車両はデハ1・2、サハ3・4[10]。貨車(有蓋2両無蓋3両)は8月に竣功届けを提出している[11]。また、広瀬鉄道は機関車を保有していなかったため、電車が貨車を牽引していた[4]。
電車
すべて両運転台の制御電動車で、トロリーポール集電、屋根はダブルルーフの木造車である。
- デハ1形(デハ1・デハ2)
- 開業時に蒲田車輛で新造導入された車両で、台車はブリル製四輪単台車21Eを装備している。前照灯は前面中央の屋根側に装備。広瀬線廃線時に廃車となった。
- デハ5形(デハ5)
- 開業翌年の1929年に予備車確保のため名岐鉄道(現・名古屋鉄道)より譲受した、名古屋電気鉄道当時に新製されたデシ500形502である[12]。前照灯は前面中央下部に装備した、いわゆる「おへそライト」である。9月30日竣工した。デハ6入線に伴い1948年に客車代用となったが、1955年8月に廃車された。
- デハ6形(デハ6)
- 山陰中央鉄道時代に導入が計画され、1948年1月に名古屋鉄道より譲受した、元尾西鉄道デボ102のモ100形102で、広瀬線の車両で唯一のボギー車である。法勝寺線(後の日ノ丸自動車法勝寺電鉄線)に導入されたモ103(法勝寺線デハ6→デハ205)と1両ずつ配置され、廃線時まで使用された。前照灯は前面中央の屋根側に装備。
客車
客車は電車が牽引していたので、運用実態としては後付付随車であった。
貨車
- ワ1形(ワ1・ワ2)
- 開業時に蒲田車輛で新造導入された木造の10t積み有蓋車。ワ1は広瀬線廃線時に廃車となったが、ワ2は本線(現、北松江線)へ転属し1963年に廃車された。
- ト1形(ト1 - ト3)
- 開業時に蒲田車輛で新造導入された木造無蓋車。3両とも広瀬線廃線時に廃車となった。
- ワフ1形(ワフ1)
- 1929年に増備した4t積み木造有蓋緩急車で、元は1883年イギリス・メトロポリタン製で鉄道省からの払い下げ車である佐久鉄道ワフ3。1937年3月31日付けで廃車(腐朽の為)となった[13]。
- ワフ2形(ワフ2)
- 1930年に増備した8t積み木造有蓋緩急車で、元は1891年イギリス・オールドヘリー製の筑波鉄道ワフ2。広瀬線廃線時に廃車となった。