中山与志夫
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| 中山与志夫 なかやま よしお | |
|---|---|
| 生年月日 | 1911年12月9日 |
| 出生地 |
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| 没年月日 | 2001年1月10日(89歳没) |
| 死没地 |
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| 出身校 | 国学院大学附属高等師範部卒業 |
| 前職 |
大阪府立豊中高等女学校教諭 (現大阪府立桜塚高等学校) |
| 称号 |
正五位 勲三等瑞宝章 |
| 当選回数 | 10回 |
| 在任期間 |
1958年 - 1974年 1978年 - 2001年1月10日 |
| 当選回数 | 1回 |
| 在任期間 | 1951年 - 1955年 |
塩野町村長 | |
| 当選回数 | 2回 |
| 在任期間 | 1946年 - 1951年 |
中山 与志夫(なかやま よしお、1911年〈明治44年〉12月9日 - 2001年〈平成13年〉1月10日)は日本の政治家、書家。塩野町村長(2期)、新潟県議(1期)を経て朝日村長(10期)を務めた。雅号は竹径。
1998年朝日村長選挙
1911年12月9日、新潟県に生まれる[1][2]。1933年、国学院大学附属高等師範部卒業[1][2]。1934年、新潟県立村上中学校(現新潟県立村上高等学校)教諭となる[2]。1939年、同校を退職して大阪府立豊中高等女学校(現大阪府立桜塚高等学校)教諭となる[2]。1945年、同校を退職した[2]。1946年、塩野町村長となり2期務める[2][3]。1951年、任期満了で同村長を退任し、新潟県議会議員となって1期務めた[2][3]。1955年、任期満了で県議を退任し、新潟県立村上高等学校教諭となる[2]。1958年、同校を退職し、朝日村長に初当選する[1][2][3][4][5]。4期務めて、1974年の任期満了をもって同村長を一旦退任する[2]。1978年、5選を果たして同村長に返り咲いた[2]。
1998年10月25日、新人を破って10選を果たした[6]。 ※当日有権者数:10,153人 最終投票率:91.72%(前回比:-pts)
| 候補者名 | 年齢 | 所属党派 | 新旧別 | 得票数 | 得票率 | 推薦・支持 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 中山与志夫 | 86 | 無所属 | 現 | 4,709票 | 51.1% | - |
| 清野征郎 | 57 | 無所属 | 新 | 4,507票 | 48.9% | - |
2000年10月、左大腿骨を骨折して入院した[3]。その後、持病の腸閉塞を発症した[3]。そして肺炎を併発し、2001年1月10日、急性肺炎のため村上総合病院で在職中のまま死去した[1][3][4][5]。死去した時、全国最年長の首長であった[1][3][4][5]。
ニイガタ首長国連邦
1984年1月17日、中山が県内6町村に呼び掛けて作った[1][7]。自らは「ニイガタ首長国連邦」代表となった[1]。参加したのは朝日村のほか、黒川村、笹神村、大和町、津南町、牧村で、それぞれが首長国となって結束して連邦制をしいた[7]。入国するには手続き料が必要で、5000円を支払う[7]。一度支払うと3年間有効である[7]。また、各国ごとにコースが用意されており、1コース15000円を支払うと国民として登録される[7]。登録されるとパスポートとビザがもらえ、会報や6町村の広報紙が定期的に送付される[7]。また、国民向けにコシヒカリの無料引換券や温泉旅館の宿泊割引券、スキーリフトの無料引換券、祭りの招待券のプレゼントが用意されていた[7]。コースは全部で20用意された[7]。内訳は「田舎の味覚満喫の特産品」が5つ、「田舎で遊びまくれる観光コース」が4つ、「どちらも楽しめる欲張りな観光と特産品コース」が11用意されていた[7]。その後、1986年に両津市と聖籠町が参加した[8]。