中山信政 From Wikipedia, the free encyclopedia 中山 信政(なかやま のぶまさ、文禄3年(1594年)[1] - 延宝5年10月28日(1677年11月22日))は、水戸藩附家老(常陸松岡領主)中山家2代当主[注釈 1]。中山信吉の長男。母は久下氏。正室は向井正綱の娘。子は娘(中山某室)。官位は従五位下・市正。名は信正とも表記する。通称は内記、号は風軒[1]。 文禄元年(1592年)、水戸徳川家家臣だった父・信吉の嫡子として生まれる。大膳を称し、慶長12年(1607年)より徳川秀忠に仕え、小姓組に属し500俵を与えられる。大坂の陣には冬・夏ともに参戦した。寛永3年(1626年)、徳川家光の上洛にも幕臣として供奉した。寛永5年(1628年)11月、父の主君である水戸藩主・徳川頼房に仕え家老となり、寛永11年(1634年)7月22日、従五位下・市正に叙任。寛永19年(1642年)の父の死で家督を相続した。2月には頼房の子松平頼重が分家を設立した際に、讃岐国高松城を受領するために派遣された[3]。 男子がなかったため、慶安4年(1651年)に弟の信治に家督を譲って隠居した。延宝5年(1677年)没した。戒名は中山院宝山風軒大居士。墓所は埼玉県飯能市中山の智観寺。 信政の代には、領地が常陸国松岡に移された。 系譜 父母 中山信吉(父) 久下氏(母) 正室 向井正綱の娘 子女 中山某室 養子 中山信治 - 信吉の四男 脚注 [脚注の使い方] 注釈 ↑ 中山家は明治元年(1868年)に独立した藩として認められるが、幕藩体制下では独立した大名ではなく、一般に「藩」とは見なされない[2]。常陸松岡藩参照。 出典 1 2 『国書人名辞典 第3巻』岩波書店、1996年、p.515。 ↑ 茨城県立歴史館(回答) (2014年4月25日). “Wikipediaの中山信敬(なかやまのぶたか)の解説に常陸国太田藩の第5代当主と書かれていた。「太田藩」は存在したのか。”. レファレンス協同データベース. 2026年3月21日閲覧。 ↑ 小山譽城『徳川御三家付家老の研究』(清文堂出版、2006年) ISBN 4-7924-0617-X 表話編歴中山家常陸松岡藩2代藩主 (1642年 - 1651年)戸沢家 戸沢政盛1602-1622 出羽新庄藩に転封 中山家 常陸松岡藩 中山信吉1622-1642 中山信政1642-1651 中山信治1651-1681 中山信行1681-1682 中山信成1683-1703 中山信敏1703-1707 居所を太田に移す 常陸太田藩 中山信敏1707-1711 中山信順1711-1712 中山信昌1712-1743 中山政信1743-1771 中山信敬1771-1803 居所を松岡に戻す 常陸松岡藩 中山信敬1803-1819 中山信情1819-1828 中山信守1828-1857 中山信宝1857-1861 中山信徴1861-1871 廃藩置県 Related Articles