中山慶子

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薨去 (1907-10-05) 1907年10月5日(71歳没)
大日本帝国の旗 日本東京府東京市赤坂区青山南町(現:東京都港区南青山
別称 安栄(あえ)・中山一位局
中山慶子
中山慶子像
第122代天皇母
第123代天皇嫡母

誕生 1836年1月16日
天保6年11月28日
江戸幕府山城国京都石薬師通(現:京都市上京区京都御苑
薨去 (1907-10-05) 1907年10月5日(71歳没)
大日本帝国の旗 日本東京府東京市赤坂区青山南町(現:東京都港区南青山
陵所 豊島岡墓地
別称 安栄(あえ)・中山一位局
氏族 中山家
父親 中山忠能
母親 園愛子
配偶者 孝明天皇
入内 嘉永4年(1851年
子女 明治天皇
養子女 大正天皇(孫)
身位 従一位
女官職 典侍
栄典 勲一等
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中山 慶子(なかやま よしこ、1836年1月16日天保6年11月28日〉- 1907年明治40年〉10月5日[1])は、孝明天皇典侍で、明治天皇の生母[2]。号は中山一位局など。大正天皇の祖母、昭和天皇の曽祖母にあたる。

権大納言中山忠能の次女[2]で、母は権中納言・園基茂の養女(松浦靜山の十一女)・愛子侯爵を授けられた中山忠愛は長兄。天誅組の主将・中山忠光は同母弟。従一位勲一等

天保6年11月28日(1836年1月16日)、京都石薬師(御所の東北)の邸に生まれ[2]八瀬(現:京都市左京区八瀬)に里子に出されて育つ。嘉永4年(1851年)に孝明天皇に入内、17歳で典侍御雇となって宮中に出仕し、名を安栄(あえ)と賜る。孝明天皇の意を得て懐妊し、嘉永5年9月22日1852年11月3日)、実家中山邸において皇子・祐宮(さちのみや、のちの明治天皇)を産む。家禄わずか二百石の中山家では産屋建築の費用を賄えず、その大半を借金したという。

祐宮はそのまま中山邸で育てられ、5歳の時に宮中に帰還し慶子の局に住んだ。その後、孝明天皇にほかの男子が生まれなかったため、万延元年7月10日1860年8月26日)、勅令により祐宮は准后女御・九条夙子(英照皇太后)の「実子」とされ、同年9月28日親王宣下を受け名を「睦仁」と付けられた。

慶応3年(1867年1月9日、睦仁親王が践祚。同年4月、慶子は病のため辞していた典侍に再任される。慶応4年(1868年8月4日従三位及び食禄五百石と屋敷地を賜わり、翌々年9月7日、さらに従二位に叙せられた。明治3年(1870年)9月、遷都に伴い東京に移住。

明治12年(1879年)に生まれた嘉仁親王(のちの大正天皇)の養育掛となり、同22年(1889年)まで親王の養育を任せられた。同年正二位

明治維新による女院号廃止のため院号宣下は無かったが、国母として相応に厚遇された。明治33年(1900年1月15日、大患により従一位に昇叙。同17日、人臣で初めて勲一等宝冠章を授けられた。明治40年(1907年)10月5日、東京青山南町の邸にて薨去。享年73。豊島岡墓地に埋葬される。

栄典

出典

関連項目

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