中村弥六
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信濃国伊那郡高遠城下(現在の長野県伊那市)に儒学者・中村元起(黒水と号す)の二男として生まれる。中村家は代々高遠藩の藩儒の家柄。明治2年(1869年)上京し安井息軒に学んだのち、翌年貢進生として開成学校に入学する。卒業後、東京外国語学校(現在の東京外国語大学)の教師になる。
外国語学校から大阪師範学校の教師に転じたが、明治11年(1878年)に廃校になったため内務省地理局に入り、ここで林業の重要さに開眼する。明治12年(1879年)ドイツに留学。明治13年(1880年)現地で大蔵省御用掛に任命され、官費留学生としてミュンヘン大学で勉強できるようになった。中村はミュンヘン大学に入学した初めての東洋人である[5]。
帰国後は一時大蔵省に出仕したが、のち農商務省に入り、さらに新設の東京山林学校教授に就任。明治22年(1889年)山林学校が東京農林学校に、さらに帝国大学農科大学に昇格したのを機に退職、農商務省に戻る。
明治23年(1890年)7月1日施行された第1回衆議院議員総選挙に郷里の長野県第6区から立候補し当選する。第1次大隈内閣では進歩党系となり司法次官となる。
明治32年(1899年)には、本多静六・志賀泰山他とともに林学博士の学位を取得した[6]。
1898年のフィリピン独立革命でマリアノ・ポンセが支援を求めて訪日した際、日本軍から革命軍への武器払い下げ交渉に尽力した。しかし武器は輸送船「布引丸」の沈没によってフィリピンに届けることができず、残った武器を(フィリピン独立派の承認を得た上で)宮崎滔天が興中会による武装蜂起(恵州事件)に転用しようとした時、中村が勝手に売り払い、かつ代金を着服したことが発覚し、多くの非難を浴びた。ただし中村自身は冤罪であることを訴えている[7]。
「何ぞ独り参政の権利を10円以上の納税者のみに制限するの理あらんや…」との理由を付した、日本初の普通選挙案を憲政本党の降旗元太郎・河野広中、無所属の花井卓蔵らとともに衆議院に提出したものの、否決される。
大正10年(1921年)11月4日、親戚の中岡艮一が当時の首相原敬を暗殺した際、犯行2日後の東京日日新聞(現毎日新聞)に「艮一の大叔父中村彌六氏談」という見出しでコメントが載った[2]。


