中野美代子
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北海道札幌市生まれ。北海道庁立札幌高等女学校(現北海道札幌北高等学校)、北海道札幌西高等学校を経て、1956年北海道大学文学部中国文学科卒業、同助手。
1961年に「世界ノンフィクション全集」監修者の吉川幸次郎に指名されて、耶律楚材「西遊録」を翻訳[1]。また吉川には広く教えを受けた。65年オーストラリア国立大学高等学術研究所助手、67年退職、68年、香港、台湾で資料収集をへて帰国、71年北海道大学文学部助教授、81年教授、83年同言語文化部教授。1996年定年退官し、著述活動に専念する。
1979年には日本歴史家訪中団(秋山光和団長)に参加。他に1975年に旧ソ連領中央アジア、1980年代以降は中国楼蘭、福建省などを訪問、1990年にカンボジアのアンコール遺跡群訪問。回文を得意とする。
業績・作品
1962年に東京大学に長期出張し、藤堂明保の元で音韻学の研究に従事、この時にパスパ文字に関心を抱く。その後オーストラリア国立大学で文字研究を中心に活動し、多数のヨーロッパ東洋学の文献にあたり、英文で『パスパ文字と蒙古字韻における音韻学的研究』を執筆し、帰国後に一般向けに『砂漠に埋もれた文字』を執筆。1994年の文庫化にあたり、1981年に長崎県鷹島で発見された元軍の官印「管軍総把印」の解読に参加した経緯、及び1986年に田中英道『光は東方より 西洋美術に与えた中国・日本の影響』でスクロヴェーニ礼拝堂にジョット・ディ・ボンドーネの描いた壁画の文様にパスパ文字らしきものがあると報告されたことについて加筆した。[2]
1965年『中国の八大小説』[3]に「西遊記」「三蔵法師伝」寄稿。1970年代より西遊記について講義。1980年には、『孫悟空の誕生 - サルの民話学と「西遊記」』で1980年度芸術選奨新人賞を受賞。1983、86年に福建省に取材。中国文学者小野忍の急逝により中断した岩波文庫版『西遊記』の翻訳[4]を引き継ぎ、1986年から十数年かけ完訳させた。作者について、小野忍はあえて通説に従い呉承恩作としていたが、中野訳の第4巻からは新しい研究の成果に従い作者の名を外した。次いで改訳版を2005年に刊行。また図像的な観点からの『西遊記』成立についての研究もある。
創作としては、1957年に中央公論新人賞に、アンドレ・マルロー『王道』を下敷きにした[5]「敦煌」100枚を書いて応募したのが処女作で、最終予選通過作品10篇に選ばれた[6]。1966年にニュージーランドを旅行し、ミルフォード・サウンド峡湾とタスマン氷河を舞台にした小説を書こうと思い立ち、1970-71年に『海燕』を執筆、1973年に最初の小説として刊行。1975年にサマルカンドとブハラを旅行。かつて翻訳した耶律楚材の出自である契丹の名を冠して、「敦煌」から1986年の作までを収めた『契丹伝奇集』、その後『ゼノンの時計』『眠る石』など、中国や西域、その他世界各地を舞台にした幻想的で融通無碍な小説を執筆している。多彩な文体はマニエリスムとも言われる(高山宏[7])。耶律楚材については後に戯曲「耶律楚材」を書いている(『鮫人』所収)。1970年代から「「塔里木秘教攷」というヘンな題で長大な小説を書いてやれ、と思ったことがあった」[8]が、1998年にその第1回を連載したが中断し、2012年に書き下しで上梓している。1989年に楼蘭蘭学術文化訪問団参加した時に聞いた、砂漠で行方不明になった生化学者彭加木のことが、この作品に活かされている。
1970年代から1980年代にかけては、北海道大学教養部にて「三国志」の講義を担当した。