もとは斎藤道三の猶子で、烏峰城主である斎藤正義の配下であったが、天文17年(1548年)2月、正義を久々利城に招いて酒宴を催し、途中で正義が厠に立った際、待ち構えていた家臣に討たせた。さらに手兵500を差し向けて烏峰城を急襲し、これを落城させて一族の土岐十郎左衛門を置いたという。その後、東美濃の国衆の一人として台頭した。
斎藤道三とその子・義龍の争いでは義龍に属し、その死後は龍興に仕えたが、織田信長による美濃侵攻が激化すると、永禄8年(1565年)に織田方へ降った。以後は烏峰城を改めた金山城に入った森可成の与力となり、可成が志賀の陣で戦死した後は、その家督を継いだ森長可に仕えた。
天正10年(1582年)に長可が信濃国川中島へ領替えとなった後は、森成利(蘭丸)の家臣扱いであったようである。
天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変が勃発すると、信濃国内も混乱した。当時、北信濃の海津城主となっていた森長可は、高井郡・水内郡・更級郡・埴科郡の所領を放棄し、美濃の金山城へ撤退しようとした。
しかし、頼興(土岐三河守)、肥田忠政(玄蕃)、平井頼母、遠山友忠(久兵衛)、木曾義昌らは、森長可の美濃帰国を好まず、かねて長可と敵対関係にあった肥田忠政は苗木城へ赴き、遠山友忠に長可討伐の計画を持ちかけた。遠山友忠は義昌と相談し、長可の帰路を押さえて木曽福島で暗殺し、もし失敗した場合には恵那郡の千旦林村で決戦することを企てた。
ところが、海津城下で商売をしていた金山の道家彌三郎がこの計画を知り、長可に対して「木曽福島城の木曾義昌も暗殺を企てている」と密告した。そこで長可は、あえて木曽福島城を迂回せず、まず到着予定日を記した書状を義昌に送り、そのうえで、わざとそれより1日早く、しかも深夜に城門を破城槌で破壊して木曽福島城へ押し入るという策略を実行した。
義昌は驚いて一礼し、書院へ下がって、息子の岩松丸(後の木曾義利)を給仕として茶を差し出した。しかし、長可は茶を飲まず、岩松丸を養子にしたいと言ってその手を取り、身柄を拘束したうえで出発した。意表を突かれた木曾義昌は、やむなく千旦林村に伏兵していた頼興や遠山友忠ら、長可を快く思っていなかった近隣諸将に対し、岩松丸が人質として連行されたこと、また暗殺計画はすでに長可側に知られていることを告げ、森軍に手出しをしないよう懇願した。遠山友忠は、ここまで準備しておきながら撤兵するのは無念であるとして反対し、なおも森長可討伐を主張したが、平井頼母や肥田玄蕃に宥められて断念した。また、ここで義昌の恨みを買えば後に問題を残すとして撤兵した[5]。森長可は無事に千旦林村を通過し、大井村へ到着すると、人質として連れて来た岩松丸に二人の士を付けて木曽福島城へ送り返し、自らは金山城へ帰還した。
6月25日、森長可は林為忠と各務勘由ら300余人を率いて、可児郡の大森城主である奥村又八郎元廣[6]および上恵土の長谷川五郎右衛門を攻めて滅ぼした[7]。奥村又八郎は奮戦したが、第二陣の伴藤右衛門ら200余人の攻撃を支えきれず、城中が総崩れとなったため、ついに城に火を放って煙に紛れて落ち延び、前田利家を頼った。以後、大森城は廃城となった。
頼興の居城である久々利城も危機的な情勢に追い込まれた。森長可は、頼興を容易に討つことはできないため謀略を用いるべきであると考え、自らが度重なる戦いで疲弊しているとして、弟の仙千代を人質として久々利城へ送り、和睦を求めた。頼興はこれを受け入れた。
天正11年(1583年)1月、頼興は飛騨国出兵の協議を兼ねた新年祝賀行事に出席するため、仙千代とともに長可の居城である金山城を訪れ、夕刻まで接待を受けた。酒宴も半ばに差しかかった頃、煮えていない吸物が出された。頼興は盃を終え、挨拶をして帰ろうとした。
その帰路、金山城の杉が洞口において、森長可の家臣加木屋正則に襲われ、「斎藤大納言の仇である」として肩口から斬り下ろされ、首を討たれた。その首は森長可が実検したという。加木屋正則は、かつて頼興が謀殺した斎藤正義の孫であり、加木屋正次の子であった。
この頼興暗殺は長可の策謀であり、人質として送られた仙千代も本人ではなかったとされる。そしてその夜のうちに、長可は久々利城を攻め落とし、戸田勘左衛門を久々利城に置いた[8]。頼興の二人の子は落城前に退出したが、その後の消息は不明であり、久々利氏は絶えた。
なお、本能寺の変で信長に殉じた小姓の中には、一族とみられる久々利亀がいる。