久田吉之助についてのまとまった文献は、帝国ホテルの牧口銀司郎の手記「帝国ホテルのスダレ煉瓦」しか存在しない。帝国ホテルおよび日本の建築陶器の歴史を知る貴重な資料ではあるが、久田吉之助の人物像については多くの誹謗中傷がふくまれている。1964−66年に『月刊日本クリーニング界』に連載された連載原稿を集成し解説を加えた形で、2006年『故・水野平吉氏保存 帝国ホテルのスダレ煉瓦』が刊行されている[3]。
1917年(大正6年)1月、フランク・ロイド・ライトが3度目の来日をして、帝国ホテル別館舞踏室の一画に東京事務所を開設。アメリカから取り寄せたの黄色いスクラッチ煉瓦(スダレ煉瓦)の実物見本と、穴抜煉瓦の青写真を示した。アメリカ製は高価であったため、国産しなければならなかったが、当時日本で焼かれていた煉瓦は赤色系がほとんどであった。帝国ホテルは困惑したが、重役・村井吉兵衛が自らの別荘(現・長楽館)のタイルが黄色系であることを思い出した。そのタイルを焼いた久田吉之助の名が浮上し、1917年(大正6年)早春、久田は上京して帝国ホテル支配人・林愛作との面談ののち、スクラッチ煉瓦を発注されることとなった。久田吉之助はスクラッチ煉瓦の原料地として、愛知県知多郡内海町の畑地土を推薦した。来日中のフランク・ロイド・ライトと林愛作支配人も内海町の土を視察、当時は珍しかった自動車に乗って訪れた外国人建築家の姿は人々を驚かせた[3]。
1917年(大正6年)早春の初面会のとき、翌月には見本をお送りしますと約束した久田吉之助だったがなかなか見本は送られてこなかった。
6月、林愛作支配人が約束より遅れている見本を督促すると、久田が、支払いが滞って石炭の供給が停止されているとを遅延の理由を述べたため、帝国ホテルは大倉組から数万斤の石炭を送ったが、久田はそれを資金繰りのために転売してしまった。
困惑した林支配人は、蔵前の東京高等工業学校(現・東京工業大学)窯業科の教頭・平野耕輔に相談し、寺内信一(1863-1945)を紹介された[3]。
寺内信一は、周防(現山口市宮野)の出身で、1878年(明治11年)工部美術学校に入学、イタリア人ヴィンチェンツォ・ラグーザ教授の指導で、内村陽三とともに石材彫刻を学んだ。土管製造技術の近代化によって常滑近代窯業の父となった鯉江方寿が、美術性の高い輸出品の発展のために1883年(明治16年)に常滑美術研究所を開設した際、内村陽三と寺内信一が教官として招聘され、画学・幾何学・解剖学のほか、石膏型の製作や彫塑を教えた。生徒は小学校卒業程度のとしごろの10名ほどだったが、ふたりの指導による石膏彫刻が可能にした薄肉彫刻を貼り付けた「朱泥龍巻」製品は、常滑を代表する輸出製品となった[7]。鯉江方寿の墓所も、このふたりが製作した陶板と円柱で飾られている[8]。
寺内信一はその後、瀬戸の高等小学校、有田工業学校長、湖南省長沙高等工業学校を歴任[9]、帝国ホテルの技師として常滑を再訪したときは54歳だった。
1910年の第10回関西府県連合共進会で、審査会の選評委員を務めたり[10]、『陶器全集』第15冊に「有田磁業史」を執筆したり[11]、平野耕輔らが執筆する雑誌『新工藝』[12]に寄稿するなど、寺内信一は、優れた窯業教育者、窯業評論家であったが、じっさいに窯焚きをする窯業技術者ではなかった。(常滑を去ったあとは愛媛県砥部高等学校長となり、退職後、有田に隠棲、香蘭社および柿右衛門合資会社の顧問を務めたり、自宅に築いた窯で陶彫作品を焼くなど自適の生活を送ったという)[9]。
1917年7月初旬、寺内信一は帝国ホテルに招聘された技師として常滑に赴任。寺内は「この分ではホテル建設の期限に間に合わないので、久田との口約を一切破棄し、ホテル直営の作業として出直す。全責任者として寺内を派遣する」という林支配人の意向を伝えたが、久田は「そんな勝手な言い分は無い。私は私として林さんとの約束を実行するまでだ」「僕は、土の事から心配し万事林さんのお指図通り働いてきたものだ、仕事はこれからだ」と納得しなかったが、久田工場に家賃を払うという寺内の提案に渋々応じた[3]。
1917年8月、久田工場で仕事を始めた寺内信一だったが、いまだ「黄色い煉瓦」を焼くことは出来ずにいた。寺内が、より敷地の広い沢田土管工場を借りる契約を結ぶと、久田との軋轢はさらに高まり、久田は煉瓦の焼き上がる直前に窯の入り口を破壊するなどの行動を繰り返したという。寺内は、技術に専念したいので会計主任を派遣してほしいと林支配人に要望した。
9月、林支配人は事態を収拾しようと、26歳の帝国ホテル従業員・牧口銀司郎を会計主任としてとして常滑に派遣した。東京の若きホテルマンであった牧口は、窯業産地独特の仕事のやり方に苛立ち、久田との間に激しい対立が生じた[3]。
久田吉之助も「土の事から心配し」と言っていたように、当時の陶工は粘土を取る土地を選定することから始め、焼成のための窯や工作機械を自作し、その上で焼成実験を繰り返して成果をだす、長いスパンで仕事に取り組むのが常であった。例えば、久田に師事したこともある池田泰山が東京国立博物館の鬼瓦製作の仕事を請け負った際には、黒瓦の産地の愛知県高浜市の「三州瓦」の製陶所と組んで合資会社を設立し、3年間かけて製作をおこなっている[13]。東京のサラリーマンである牧口銀司郎はそうした窯業のありようを理解せず、「そもそもライトさんがわざわざ常滑まで土を見に来る必要はなかった」など、土の選定が重視されること、また設備費を要求されることへの反発を繰り返し綴っている[3]。
都会の近代経営の会社組織から派遣されてきた技術者・管理者と、常滑の陶工・職工たちとの軋轢は、久田吉之助の事例に限ったことではなく、よくあることであった。常滑の職工には、農業の傍らの甕作りという意識が根強く残っており、農業祭事があれば朝から工場を休む一方で、「俺たち”働きど”は”弁当箱(月給取り)”とは違わい」という職人としてのプライドがあった。1921年に日本陶器の大倉和親らの出資を受け、伊奈製陶所が発足した際にも、赴任してきた大倉の懐刀が規律の厳正化を求めて職工たちの反発を買い、「袋叩きにしてやる」とすごまれる事態になっている[10]。
牧口を任命する際、林愛作支配人が「君は土方社会に居ったような経験はないかね」と聞いているのに表れているように、帝国ホテル側には、久田吉之助の、武田五一のような有名建築家と仕事をしてきた実績への敬意はない[3]。牧口は、16歳の時から東京に勉学に行き、寺内信一と同じく東京高等工業学校を卒業して経営者の道を歩んでいた伊奈長三郎宅に親しく出入りするようになるが、伊奈長三郎の伝記にも、久田吉之助については「前に借りていた工場主とのイザコザ」とあるのみで、その名前さえも記されていない[10]。
沢田忠吉工場の敷地を借りた帝国ホテル直営の煉瓦製作所の準備は着々と進み、牧口銀司郎が工場主として届け出が行われた。
1917年9月、牧口銀司郎は、買収してあった久田の部下からの情報を得つつ、久田吉之助の工場からの完全な離脱の機をうかがっていた。そして地元のヤクザ親分に応援を求め、これまで煉瓦焼成のために久田工場で整えた器具機械類や、工場内にあった煉瓦製品を全て引き上げ、帝国ホテル煉瓦製作所へと移転させた。この騒動は新聞沙汰となり、名古屋の「魁」という新聞に「帝国ホテル派出員の暴行」「西浦町はさながら火事場の如し」という1号活字が躍ったという[3] 。
しかし、移転後半年たっても、帝国ホテル煉瓦製作所の技術師・寺内信一は「黄色い煉瓦」を焼くことができなかった。
1918年2月のある日、久田工場から引き抜いた職工のひとりが牧口に、「寺内さんが煉瓦を焼きあげる寸前に、久田が、腹心の窯焼きに命じて窯の出入り口を解放させたり破壊させたりして空気を入れると、黄色い煉瓦が焼けたのを見ました。それをやってみては如何ですか」と久田吉之助のやり方を告げた。久田は、窯に酸素を入れて完全燃焼させる「酸化焼成」の技法で、「黄色い煉瓦」を焼いていたのである。久田が焼ける寸前に窯の入り口を破壊することを、寺内と牧口は、暴力的な嫌がらせとしてしか認識していなかったが、久田は、窯の破壊によって酸化焼成を起こさせ、自分には寺内にはない「黄色い煉瓦」焼成の技術があることを示していたのだ。
久田工場引き上げ騒動の時に久田工場から持ってきていた煉瓦のなかに「黄色い煉瓦」がまざっていることを確認した牧口は、久田の手法を試すよう寺内に進言する。しかし寺内はこれを受け入れず、突然辞任を表明する。
万策尽きた牧口は、「黄色い煉瓦」の焼成は不可能と林支配人に報告するが、慌てて常滑に視察にきた林は、牧口が久田工場からとりあげてきた黄色い煉瓦を見て感激、「君こんなに立派な物もあるではないか、一つ頑張ってみてはくれぬか」と言い、牧口は「その方法についてはいささか心当たりがございます。寺内さんには既におすすめしているのですが、どうしてもおやりになりません」。林支配人は「それならば、今度は君の思い通りにやりたまえ」と牧口に指示した。寺内は、技術顧問を伊奈初之丞、経理顧問を澤田忠吉に託して、常滑を去っていった[3]。
1918年3月、牧口は、窯焼きの親方・水野を呼んで、久田吉之助がやっていた酸化焼成を試すことを頼んだ。しかし水野は「そんなことをしたら窯が壊れる」と顔色を変え、承諾しなかった。重ねて説得すると、水野は「熱田の秋葉山別院に参じて火祭りの御祈祷をしてからならば」とようやく応じた。ふたりは盛大な祈祷を行い、安全守りの大きな御札を各窯正面天井の大柱に貼り付けて礼拝し、そののち酸化焼成を行った[3]。久田吉之助の「黄色い煉瓦」焼成方法は、それほどまでに型破りなものだったのである。
久田吉之助は1918年11月、病没。41歳の若さだった。