九鬼潤
From Wikipedia, the free encyclopedia
| ||||
|---|---|---|---|---|
| 基本情報 | ||||
| 国籍 |
| |||
| 出身地 | 三重県四日市市 | |||
| 生年月日 | 1945年12月28日(80歳) | |||
| 利き手 | 右 | |||
| ツアー経歴・シングルス | ||||
| 自己最高ランク | 74位(1976年11月7日) | |||
| 生涯通算成績 | 82勝137敗 | |||
| 4大大会最高成績・シングルス | ||||
| 全豪オープン | 2回戦(1972) | |||
| 全仏オープン | 3回戦(1971) | |||
| ウィンブルドン | 2回戦(1973) | |||
| 全米オープン | 2回戦(1971) | |||
| ツアー経歴・ダブルス | ||||
| 自己最高ランク | 114位(1976年3月1日) | |||
| 生涯通算成績 | 11勝69敗 | |||
| 4大大会最高成績・ダブルス | ||||
| 全豪オープン | 2回戦(1972) | |||
| 全仏オープン | 2回戦(1970,1971) | |||
| ウィンブルドン | 2回戦(1975) | |||
| 全米オープン | 1回戦(1970-1972) | |||
| 2026年2月28日現在 | ||||
九鬼 潤(くき じゅん、1945年12月28日 - )は、日本の元男子プロテニス選手。三重県四日市市出身[1]。法政大学第二高等学校、法政大学卒[1]。ランキング自己最高位はシングルス74位、ダブルス114位[2]。シングルス74位は1989年に松岡修造に抜かれるまで日本男子選手の最高順位だった。長女の九鬼まどかもプロテニス選手である[3]。
留学終了まで
三重県四日市市に4人兄弟の末っ子として生まれ、テニスの強豪校だった法政大学第二高等学校に入学して松本武雄の指導を受ける[4][5]。高校3年時の1963年にジュニア日本代表としてカナダ遠征に派遣され、オタワで開催されたカナダジュニア選手権でベスト8に進出した[6][7]。同年の全日本ランキング18歳以下で4位を記録[8]。
法政大学進学後の1966年秋よりアメリカにテニス留学する[5]。サンフランシスコでの生活を経てカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)のテニス部に聴講生として加わり、ジュニアのアメリカチャンピオンに勝つなどテニスの実績が評価されて奨学金を得た[4]。1968年、世界のテニス界がオープン化に揺れた年に全米男子クレーコート選手権に出場し、当時独立プロとして活動していたクリフ・リッチーと対戦するなど第一線で経験を積んだ[9]。また、この頃UCLAの大学院にアレン・フォックスが在籍しており、九鬼は練習で何度もフォックスと打ち合ったが遂に1セットも取ることができなかったと回想している[3][4]。十分な戦績を残せず奨学金は1年で打ち切りとなった[4]。
その後はテニスコーチのアルバイトで生活費を賄いながら競技を続け、1969年の全米オープン予選でグランドスラムに初挑戦するも初戦で敗退[10]。1970年に入るとカリブ海のサーキットに招待されたのを皮切りに中南米やヨーロッパの大会を転戦する[4]。5月のスペインのマドリード国際で3回戦に進出し[11]、全仏オープンでは予選を突破してグランドスラム本戦初出場を果たした[12]。同年9月に留学を終えて法政大学に復学した[5]。
プロ転向まで
帰国直後の1970年10月に第45回全日本庭球選手権に出場して、決勝で当時イタリアナンバーワン選手のマーティン・マリガンに敗れるも準優勝を果たした[13][14]。同時期にイタリアおよびインドチームを招いて開催された第22回朝日国際招待庭球(日本・海外各2チームによるチーム対抗戦)では日本Bチームの一員として出場、対イタリア戦のシングルスでマリガンにリベンジしてチームの優勝に貢献した[14]。同年の全日本ランキングで1位を獲得する[8]。
1971年4月、デビスカップに日本代表として初出場[15]。敵地での東洋ゾーンベスト8対フィリピン戦でシングルス2勝を挙げる活躍を見せる[3][16]。同年5月の全仏オープンでは3回戦まで進み、第7シードのボブ・ラッツを相手に1-6, 7-5, 7-5, 4-6, 4-6のフルセットまで持ち込む接戦を演じた[17]。夏以降は神和住純・坂井利郎・沢松和子らと共に日本選手団の一員として欧米を転戦して、7月にオランダ・ヒルフェルサムのダッチ・オープンでベスト8に進出する健闘ぶりを見せた[18]。8月にアメリカ・シンシナティで行われたウェスタン選手権では初戦で当時世界1位のスタン・スミスと対戦して敗退[19]、全米オープンは本戦2回戦に進出した[20]。
1972年も前年に倣って7月から欧米遠征に出ると、アメリカのマサチューセッツ・スプリングフィールドで全米ローンテニス協会(USLTA)の下部大会に第1シードで出場して優勝[21]。しかしオープン化以降世界中からプロテニス界に選手が次々と参入して競争が激しくなる中、全米オープン含め大きな大会では結果が出ない夏となった[11]。同年秋には日本で開催された第1回ジャパン・オープンに出場、スケジュールの都合でグランプリ公式戦にこそならなかったが、8か国から16人の海外選手が集まった記念すべき初回大会で準優勝した[22]。翌1973年、大学卒業と同時に美津濃に入社[5]。同年のウィンブルドンで本戦初勝利を挙げたほか[23]、10月にはアジア初のグランプリ公式戦として開催された大阪オープンでベスト8に進出した[24]。
プロ選手として
1973年11月、神和住純に次いで日本人で2人目となるプロ転向を表明[5][注 1]、翌1974年5月のヨーロッパ遠征からプロとして活動を本格化させる。この遠征は多くの大会の早期ラウンドでアーサー・アッシュやトム・ゴーマンといったトップ選手と当たる難しい遠征となった[11]。ちょうど前年に男子プロテニス協会(ATP)が結成されてランキングの発表も開始されており[26]、遠征が終わる全米オープンの頃にはシングルス130位に到達してATPへの加入が実現した[27]。同年10月からのアジアサーキットでは、インドネシア・ジャカルタ大会で世界19位のディック・ストックトンを破ってベスト8[28]、フィリピン・マニラ大会で世界14位のロスコー・タナーに勝ってベスト4に進出するなど立て続けに上位へ食い込んだ[11][29]。
1975年も2月から精力的に海外遠征を重ねるが目立った成果を挙げられず足踏みの一年となった[11]。しかし翌1976年3月からの遠征ではヨーロッパ・サーキットで好成績を残して全盛期の活躍を見せる[30]。初戦のバルセロナ大会では予選を突破して更に64ドローの本戦を6連戦というハードスケジュールの中決勝まで進み[30]、パオロ・ベルトルッチを相手に惜敗するも準優勝を飾った[31][32]。翌週のニース国際はイタリアナンバーワンのアドリアーノ・パナッタに初戦敗退するも[33]、3大会目のパルマ・デ・マヨルカ国際でまたも予選通過から本戦5連戦で決勝に進み準優勝した[30][31]。以降の大会は心身の疲労でそこそこの戦績となるが、ATP公認5大会とグランプリ4大会の計9大会を戦い抜いてランキングは遠征前の160位前後から80位まで浮上[30]。7月からのアメリカ遠征と帰国後のジャパン・オープン3回戦進出を合わせてキャリアハイの74位に到達した[2]。
1977年は遠征の結果が芳しくなく200位近くまでランキングを落とし、本格的な海外遠征はこの年が最後になった[11]。1978年はジャパン・サテライト・サーキットが開始された年であり、日本に居ながらある程度のATPポイントを手にする環境が整備されたことで国内活動が中心となった[34]。国内ナンバーワン選手としてサーキットに参戦した九鬼は、日本人選手が次々と敗退する中で5大会のうち2週連続で優勝してベテランの意地を見せる[35][36]。更に11月に日本初のチャレンジャー大会として開催されたヒットユニオン・ワールドテニス・イン京都でも準優勝した[37][38]。1980年には全日本テニス選手権の男子シングルスで3度目の決勝進出にして悲願の初優勝を果たした[3][39]。1982年のジャパン・オープンを最後に国際大会から退き、以降は指導者としての活動に重点を置いた。
指導者として
1982年末より井上悦子のプロ転向に伴いコーチを務め、井上の世界ツアー転戦に同行した[5]。1985年の全日本テニス選手権では、井上との師弟ペアで混合ダブルスに出場して優勝を飾った[40]。1984年からはプリンスホテルと3年契約で女子のナショナルコーチを務めたほか、雉子牟田明子や長女の九鬼まどかの海外ツアーにも同行するなど後進の育成に携わった[3]。