乞乞仲象

From Wikipedia, the free encyclopedia

乞乞仲象(きつきつ ちゅうしょう、生年不詳 - 699年)は渤海を建国した大祚栄の父。『新唐書』に粟末靺鞨の出身で、粟末靺鞨の酋長乞四比羽と共に営州都督趙文翽中国語版への反旗を翻した記載がある。

乞乞仲象という名前はおよそ高句麗人とは考えられない靺鞨人の名前である[1][2][3]

稲葉岩吉は、舎利乞乞仲象の「舎利」は女真語の「泉の意」であることを指摘している[4]

史書にみえる祚栄の父乞乞仲象は「大」姓を冠せず、その名は明らかに本族語であり、姓氏「大」の採用は、祚栄が開国して王となって以後のことである[5]

現代の永順太氏一族は太仲象(乞乞仲象)を始祖として崇めている[6][7]

概要

井上秀雄は、大舎利乞乞仲象が保有していた舎利[注釈 1][注釈 2]という官職は契丹における軍の指揮官であることから[8]、「舎利は『五代会要中国語版』巻三十渤海上に『有高麗別種大舎利乞乞仲象大姓,舎利官,乞乞仲象名也』とあるので、官名であることがわかる。また『遼史』巻一一六国語解は『契丹豪民耍裹頭巾者,納牛駝十頭,馬百疋,乃給官名曰舎利。』と記し、舎利とは、権力の誇示ができる頭巾を欲する豪民が、牛駝と馬を代償として払うことにより得られた官名であったことがわかる。したがって乞乞仲象は、契丹系の豪族であったといえるだろう」と述べている[9][注釈 3]

萬歳通天中,契丹盡忠殺営州都督趙文翽反,有舎利乞乞仲象者,與靺鞨酋乞四比羽及高麗餘種東走,度遼水,保太白山之東北,阻奥婁河,樹壁自固。

万歳通天(六九六)年間に、契丹の(李)尽忠は営州都督の趙文翽に反逆して彼を殺した。(この乱に乗じた)舎利の乞乞仲象は、靺鞨の酋長の乞四比羽や高(句)麗の遺民たちとともに東に移り、遼水(遼河)を渡って、太白山(長白山)の東北を確保した。この地は奥婁河(牡丹江)に遮られ、壁を築き、守りをしっかり固めていた。新唐書、渤海伝

一方、森安孝夫は「舎利を契丹の官職名とみなして大舎利乞乞仲象を契丹人となし、これと大祚栄をまったくの別人と考える説には賛成できない」と述べており[10]、その理由を「中国史料には靺鞨にも舎利なる語を含む官名の存在を示すものがあるし[注釈 4]、また渤海の建国に、異民族である契丹人が指導的な役割を果たしたとは、この場合は考えにくい」として、「大舎利乞乞仲象と大祚栄とはおそらくは父子であり、(中略)父の方が舎利という靺鞨にはあって、高句麗ではまだその存在が知られていない称号をもっている点を考え合わせると、やはり、高句麗に帰化ないし同化していた靺鞨人とみるのがもっとも妥当」と述べている[10]

韓国の『斗山世界大百科事典』は「高句麗に服属していた粟末靺鞨人の酋長と推測されている」と述べており[11]、同じく韓国の『韓国民族文化大百科事典』は「乞乞仲象は、高句麗に併合された粟末靺鞨族出身で唐の営州地方に移って住んでいた」と述べている[12]

乞乞仲象と大祚栄の関係

脚注

注釈

Related Articles

Wikiwand AI