井本直樹
From Wikipedia, the free encyclopedia
小学3年から野球を始め、中学から投手一筋になる[2]。子どものころ、中日ドラゴンズの二軍(ウエスタン・リーグ)が本拠地としていた阿久比球場で立浪和義や山﨑武司といった後の主力選手たちが練習する姿を見に来ていたという[3]。
高校卒業後、社会人野球の日本通運名古屋に入部したが、チームが埼玉県を本拠地とする日本通運に吸収合併されたのを機に、1999年から新日本製鐵名古屋に移籍。都市対抗野球大会には王子製紙春日井、三菱自動車岡崎の補強選手として先発し、勝利投手にもなった[2][4]。9月の日本選手権東海地区予選では3試合すべてに完投して、2完封を記録[2]、本大会でも初戦を完投勝利[5]。
2000年、同年のドラフト会議で中日ドラゴンズから3位指名を受け、同年12月3日に契約金1億円+出来高払い3000万円、年俸1300万円で仮契約した[6]。阿久比町出身のプロ野球選手は井本が初である[1]。当時監督を務めていた星野仙一は、同年のドラフト指名選手の中で井本に対し、即戦力として最も頼りにしていたという[7]。キレの良いスライダーとシンカー、低めへの制球力が持ち味とされていた[8]。地元である愛知県出身、かつ社会人野球出身の左投手ということで、チームの先輩である岩瀬仁紀を目標としていた[8]。
1年目の2001年は新人選手で唯一、キャンプの一軍メンバーに抜擢され、開幕カードとなる4月1日の対広島東洋カープ戦(ナゴヤドーム)でプロ初登板を果たし、同月4日の対横浜ベイスターズ戦(横浜スタジアム)で3回無失点と好投、プロ初セーブを記録した[9]。しかし5月初旬に左肩にかすかな痛みを感じて二軍に降格、やがて痛みが増していき、「有痛性ベネット病変」と診断される[9]。2002年は二軍公式戦でも登板できず、また肩を庇いながら練習を続けるうちに背筋や脇腹も痛め[9]、同年9月27日に球団から戦力外通告を言い渡された[10]。戦力外通告の際、球団からは打撃投手への転身か、他球団の入団テスト受験を提案され、妻や幼い長女の生活を支えるため、現役復帰を目指しながら打撃投手としてチームに残ることとなった[9]。同年12月2日、NPBコミッショナー事務局から自由契約選手として公示された[11]。
2003年は打撃投手を務め[9]、2004年からはスコアラーを務めている。
2004年から2005年まではスコアラーとして横浜ベイスターズを担当し、2006年から2008年は阪神タイガース、2009年からは再び横浜ベイスターズを担当した。2012年でスコアラーの担当制は廃止されたが、2015年から再び担当制が復活し、阪神タイガースを担当し、2016年からは広島東洋カープを担当する。2018年からは、阪神タイガースを担当する。
詳細情報
年度別投手成績
| 年 度 | 球 団 | 登 板 | 先 発 | 完 投 | 完 封 | 無 四 球 | 勝 利 | 敗 戦 | セ 丨 ブ | ホ 丨 ル ド | 勝 率 | 打 者 | 投 球 回 | 被 安 打 | 被 本 塁 打 | 与 四 球 | 敬 遠 | 与 死 球 | 奪 三 振 | 暴 投 | ボ 丨 ク | 失 点 | 自 責 点 | 防 御 率 | W H I P |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 2001 | 中日 | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | -- | ---- | 41 | 8.2 | 10 | 2 | 6 | 0 | 0 | 6 | 0 | 0 | 8 | 8 | 8.31 | 1.85 |
| 通算:1年 | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | -- | ---- | 41 | 8.2 | 10 | 2 | 6 | 0 | 0 | 6 | 0 | 0 | 8 | 8 | 8.31 | 1.85 | |
記録
- 初登板:2001年4月1日、対広島東洋カープ3回戦(ナゴヤドーム)、7回表に3番手で救援登板、1/3回4失点
- 初奪三振:同上、7回表に高橋建から見逃し三振
- 初セーブ:2001年4月4日、対横浜ベイスターズ2回戦(横浜スタジアム)、7回裏に3番手で救援登板・完了、3回無失点
背番号
- 31 (2001年 - 2002年)
- 123 (2003年)