京坂キリシタン一件

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『邪宗門一件書留』。幸田成友蔵書を1910年(明治43年)に東京大学史料編纂所が謄写。「御制禁邪宗門之仏画を拝并右修治之伝法いたし金品掠取又者耶蘇之書籍所持罷在候もの其一件吟味伺書(文政10年9月進達同12年12月落着)」とある。

京坂キリシタン一件(けいはんキリシタンいっけん)は、文政10年(1827年)に起こった「キリシタン」の摘発事件である。同事件で摘発された「キリシタン信仰」は水野軍記が興したものであり、軍記の孫弟子にあたる、加持祈祷を修業としていた女性であるさのが詐欺事件を行ったことにより発覚した。豊田みつぎ京都大坂の6人が「キリシタン」として逮捕され、文政12年(1828年)に市中引き回しのうえ磔刑に処された。

軍記の出自について、「キリシタン信仰」がいかなる経緯で生じたものであるかについてはいずれも明らかでない。キリスト教の影響を受けていたことは明らかであるものの、日本の伝統宗教の影響も強く、キリスト教そのものとは言い難い。同事件は幕府がそれまで明文化していなかったキリシタンに関する処罰のあり方をはっきりさせるきっかけとなったほか、江戸時代後期におけるキリスト教認識について考えるうえでも重要である。

水野軍記とその宗教実践

関係者への聞き取りから、同事件において摘発された「キリシタン信仰」の発端は水野軍記なる人物であることが明らかになっている[1]。軍記は島原藩領であった、豊前国長洲村生まれであるともいわれるが、はっきりとしない[2]寛政7年(1795年)までには京都に出てきていたようであり、筆道指南で身を立てていた。摂関家である二条家四親王家である閑院宮家にも祐筆として出入りしていたが、その裏では弟子を集めてキリシタンの教義・教法なるものを伝授していた。彼は文化14年(1817年)に会計の不正を問われて罷免され、その後は友人・知人の援助を受けながら窮乏のうちに暮らした[1]。彼は弟子の豊田みつぎに金を無心するなどしていたほか、長崎に遊学に出ようともしていたようであるが、これは叶わず、文政7年(1824年)に死去した[3]

軍記は事件の発覚直前に死亡しており、また、弟子・知人はおろか実子にすら自分の出自をほとんど明かしていなかった。よって、彼の「キリシタン信仰」がどのようにして形成されたものかは一切不明である[4]。また、奉行所も彼らの「キリシタン信仰」の内実にはさほど興味を持っていなかったようで、彼らの修法・儀礼、あるいは所持していた画像などについては詳しく記述しているものの、教義の詳細についてはほとんど記録していない。彼らは「天帝如来」なる神を信仰しており、それは「影形なき仏」であると記録されているものの、それが具体的にどのような存在であるかについてはわからない[5]大橋幸泰は、彼らの信仰は組織的なものではなく、教義と呼べるようなものもほとんど無かったのではないかと論じている[6]

軍記はマテオ・リッチが記した『天主実義』や『畸人十篇』といった漢籍を所蔵していたようである。彼が伝授した「キリシタンの教法」なるものは「天帝如来」を信仰し、「センスマルハライソ」なる陀羅尼を詠唱することを中心とするものであり、これらは近世に流通していた排耶書に現れる語句である。また、彼が弟子に見せた「妖術」についても、排耶書に現れるものと類似している。また、彼は古い「天帝」の画像を所蔵していたとされており、入信者にその画像の胸辺りに指の血を注ぎかけさせていた。「左手に子供を抱き右手に剣を持つ女性が描かれていた」という供述があることから、これは聖母像でないかと思われる[7]。また、夜中に登山して瞑想すること、山の湧水が滝となり落ちる所で欲水をすること[8]、紙製の人形に釘を打ったり水をかけたりする修法なども伝授していたようであり[9]、こうした部分からは日本の宗教的伝統の影響が感じられる[8][9]

軍記の信徒が自らを「キリシタン」であると考えていたこと、彼らがキリシタン的な語彙を用いていたことは事実として、彼らの教義はキリスト教のそれとは大きく異なるものであり[10]、また、当時の日本における潜伏キリシタンのものとも一致しない[7][9]。彼らの信仰には神道稲荷信仰の影響が大きく、「万物の創造神による来世の救済」といった本来のキリシタン信仰よりは現世利益に重点を置くものであった。よって、同事件は潜伏キリシタンの露見であると考えたり、彼らをキリシタン書に影響されて現れた新たなキリシタンであるとみなすことは難しい[10]

弟子の活動

「キリシタン信仰」の中心人物が軍記であったことこそ疑いはないものの、彼と彼の信徒が「教団」と呼べるほどはっきりとした組織を持っていたとは言い難い。彼らの宗教活動は統一的なものではなく、伝授の仕方や活動はばらばらであった[6]

軍記は寛政7年(1795年)から文政3年(1820年)ごろまで、5人の大坂町人とともに、しばしば密室で集会を開いていた。事件の発覚時には彼らは全員死亡していたため、具体的に何が行われていたかについては不明であるが、呪術的な地下活動と考えられる[11]。検挙された軍記の男性信徒としては、伊良子屋桂蔵と高見屋平蔵がいた[12]。桂蔵は宮方の家臣の家に生まれるも両親と死別し、寺社に奉公したのち易者となった。軍記とは料理屋で出会い、歓喜天を信仰すると利益が上がる旨を教えられたため入信した。その後、河内国枚岡神社の神主である水走飛騨に医術を習い、農家の未亡人であるふきと結婚し、医術を営んだ。平蔵は播磨国薬栗村にて医者の息子として生まれ、12歳で同村・長慶寺の住職を師として出家した[13]。その後長老格にまで出世するも29歳で還俗し、易者・筆道指南・講釈師などで身を立てた[14]。彼は知人の仲介で軍記と出会い、入信した[15]

彼らは軍記の弟子であり、宣教師が記した書物に関心を持っていたこと、天帝を信仰すれば現世利益が得られると考えていたという点では他の信徒と共通する。一方で彼らは軍記が指導するような修行を行おうとはしておらず、桂蔵は水行をすると持病が悪化する、平蔵は夜間に修行すると本業に差し支えるとの理由から修行を怠っていた。彼らは修行に専念しなかったこと、妖術を会得できなかったことに引け目を感じていたようで、他の弟子とは交流していない[12]。山根智代美は、軍記のもとで「キリシタン信仰」を受け入れた信徒は男女で信仰への姿勢が異なると論じた。すなわち、男性の信徒は知的好奇心を満たすために入信しており、女性の信徒は生活の困窮を背景に入信している[16]。宮崎ふみ子によれば、身寄りも資産も技能もない中年女性が近世都市社会で生きていくうえで、民間宗教者になることは数少ない選択肢の一つであった[17]

長崎では年中行事として絵踏が行われており、さのはこれを通じて「天帝」の画像を目にした。

女性信徒の中心人物であり、加持祈祷を執り行ったのが、豊田みつぎ(みつき、貢とも)とその弟子である[11]。豊田みつぎは越中国の出身であり、幼少期に京都に移住して、24歳より遊女奉公に出た。20代半ばで伊織なる放蕩者と知り合い、彼と結婚した。伊織は神職の家に生まれ、稲荷明神下げを心得ていたため、みつぎはこれを習って生計を立てた。しかし、伊織は宮川町の遊女である桂と駆け落ちし、みつぎの元を去った。みつぎは友人であり、新橋の遊所で茶屋を営んでいた糸屋わさの仲介のもと軍記に出会った。軍記は妖術を用いてみつぎに桂の幻影を見せ、彼女はこの幻影に怒りを発散させたことにより夫への執着から解放されることができた。これを期に、みつぎは軍記の信徒となった。みつぎは「稲荷明神下げ」と称し、キリシタン修法をもととする祈祷・占いを行い、多くの依頼人を集めた[18]

みつぎの弟子であるきぬは文化10年(1810年)に軍記に引き合わされ、キリシタン伝授を受けた。きぬは弟子のさのとともに大坂に移り住み、同地で文政2年(1819年)にキリシタン伝授をおこなった。さのは軍記のもとで天帝の画像を見ることができなかったため、同年に傀儡子の一座に同行して長崎に旅行し、正月に絵踏を体験することで「天帝」の画像を見た。この体験を通じてさのの信仰心はますます強固なものとなり、キリシタン修法を多くの人に広めようと試みた[18]

事件の発覚と取り締まり

発覚と捜査

大塩平八郎は、大坂町奉行所にて京坂キリシタン一件の捜査にあたった。

さのは大坂に戻ったのち、文政5年(1822年)に摂津国西成郡川崎村・憲法屋与兵衛借屋に引っ越した。彼女は息子の政次郎に「京屋新助」を名乗らせ、自らを京都貴人の隠居と騙った[19]。さのは弟子や信奉者を動員して、「京都の貴人が人助けのために大坂に来ており、その隠居に金品を託せば稲荷明神の力で富が増える」との話を吹聴し、新たに出資者となった人物の出資金をそれ以前の人物に分配するというねずみ講に似た仕組みで資金を集めた。しかし、これは後に破綻し、貴人の隠居という、さのの主張が偽りであることも明らかになった[20]。文政10年(1827年)正月、さのと、彼女の家主であり、出資者ともなった与兵衛との間で、紛争が起きた[21][19]。さのは、協力者である伊勢谷勘蔵宅にて与兵衛と揉み合いになったところを取り押さえられ、22日に入牢した[19]

大坂町奉行所はそれ以前からさのの噂を聞き及んでおり、紛争を契機としてさのを逮捕した。所轄は大坂東町奉行所であり、大塩平八郎ら担当者は当初この事件を詐欺事件として取り締まろうとしていた。しかし、取り調べが進む中、彼女の住居から紙人形・釘・蝋燭といった呪具が見つかり、狐使いのような非合法の修法を行った容疑が生まれた。3ヶ月の尋問ののち、奉行所は4月にさのの師にあたるきぬの存在を突き止め、彼女を逮捕した。この時点で、彼女らの修法が「キリシタン」のものであることが明らかになった。6月にはみつぎも逮捕され、彼女に対する尋問を通じて軍記に関する情報を含む多くの事実が明らかになった。これにより、軍記の息子や弟子、知人など多くの人物が逮捕された。同事件の関係者の多くが京都の住人であったため、大坂町奉行所は京都町奉行所の助力を得る必要があった[20]

判決

水野忠成は、老中として京坂キリシタンの判決に関与した。

『公事方御定書』にはキリシタンに関する処遇が記されておらず、参照可能な判例も存在しなかった。『公事方御定書』に示される「世を乱す宗旨」は52条にある不受不施派三鳥派(いずれも日蓮宗の分派[22])のみであり、その最高刑は遠島であった。大坂東町奉行所は彼らがキリシタンであるならば、その判決は不受不施派・三鳥派の先例に習うことはできないと考えていたが、軍記が死去していること、「天帝」の画像が焼却されていたこともあり、彼らがキリシタンであることと断定することもできなかった。特に問題となったのはさのが長崎にて絵踏を行っていたことであり、彼女をキリシタンとするならば幕府の禁教政策が根本から揺らぐ恐れもあった[23]

大坂町奉行には独自に科刑する権限はなく、大坂城代に伺いを立てたうえで、その指示に基づいて法執行を行う必要があったが、大坂城代が判断を保留した案件は、老中に判断が任せられることとなっていた[24]。さらに、遠島や死罪以上の刑罰が科される重大な事件については、将軍の裁可も必要であった[25]。大坂東町奉行所は安永2年(1773年)の大原騒動にて、飛騨国一宮の神職が農民を扇動し、代官に呪詛した罪で磔刑となったことを先例としようとした一方、被疑者らは「世を乱す企みはなかった」と主張し、吟味書にもその旨が記されていたため、評定所はこれを採用しなかった。しかし、評定所も彼らに遠島以上の刑罰は必要であると考えており、棄教したキリシタンの類族に対しての監視を命じる通告があり、キリシタンが深刻かつ持続的な脅威とみなされている先例があること、キリシタン禁止と同様に幕府の基本的政策であった関所破りの禁に磔刑が定められていることを根拠として、同じく市中引き回しの上での磔刑が妥当とした[26]。老中・水野忠成は審理を総括する立場として、さのの絵踏に関する取り調べ記録を削除するように命じた[25]

文政12年12月5日(1829年12月30日)、大坂東町奉行所の高井により、被疑者および事件関係者に対する仕置申渡しが行われた[25]。軍記の弟子である、みつぎ・きぬ・さの・桂蔵・平蔵には、大坂三郷町引き回しの上磔刑が言い渡された[27]。軍記とは無関係だったものの、桂蔵の知人であったことから捜査線上に浮かんだ、キリスト教関連の漢籍を所持していた人物である藤田顕蔵も[28]、同罪となった。獄死したさの・きぬ・桂蔵・顕蔵に゙関しては、塩漬けにした遺体に対して処罰が加えられた。さのとともに詐欺事件に関わった新助・八重・勘蔵は、吟味中に病死した。勘蔵の妻であるときは、死罪となった。軍記とわさはすでに亡くなっていたため、墳墓が破壊された。軍記の実子である蒔次郎、わさの養女であるいと・とき、みつぎの養子である掃部、桂蔵の妻であるふき、平蔵の妻であるむつは牢舎刑となった。ただし、蒔次郎・ふきは申渡し以前に死去していた[27]。また、軍記の友人であり、援助をしていた槌屋少弐、中村屋新太郎の息子である新太郎[29]、みつぎの弟子であった播磨屋喜之進についても[30]、牢舎刑申渡し以前に死去していた[27]。蒔次郎の伯父にあたり、養父となった紅葉屋甚兵衛には[31]手鎖50日が申し渡された。軍記ら主要人物の菩提寺住職は退院を命じられ、彼らの居住した町村の庄屋年寄についても役儀取放のうえ過料、家主・五人組についても過料が処された[27]

『浮世の有り様(後述)』によれば、キリシタンの処刑は珍しいことであるとして、多くの見物人が集まった[32]。同書によれば、みつぎは関係者が次々と牢死するなかでも血色の良いままであり、刑場まで引き回される間にも笑みを浮かべて何かを言っていたという。みつぎは執行人に「些細なことをいわず念仏を申したらどうだ」と言われると「切支丹に念仏というのはない、これより高天原に帰るのだ」と返し、槍を11本受けるも取り乱すことなく絶命した。一方平蔵の顔は土気色であり、槍で突かれるやいなや小便を垂れ流し、たいへん見苦しかったという[6]。この記述が全く正確なものかどうかは不明とはいえ、宮崎はこの記述からは、人々が彼女の一挙一動に注目していたことがわかると論じる[32]。また、大橋は、この逸話には「この宗教活動におけるみつきの位置が象徴的に表れている」と論じる[6]

受容・研究

出典

参考文献

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