京都市の景観政策
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京都市の景観政策(きょうとしのけいかんせいさく)は戦前よりすでにはじまっており、1930年(昭和5年)には市郊外の都市計画地域に風致地区が指定されている。しかし、景観に関する行政上の枠組みが厳格化するのは昭和30年代以降であり、昭和40年代より古都保存法・風致地区条例・市街地景観条例などが相次いで成立・改正された。平成初期には再び京都市の景観政策に関する議論が盛んになり、市街地景観条例は1995年(平成7年)に改正されて市街地景観整備条例となった。また、2007年(平成19年)には従来の政策を抜本的に見直した新景観政策が実施されることとなった。
京都市内においては風致地区条例・市街地景観整備条例・京都市自然風景保全条例・京都市眺望景観創生条例などにもとづき各種の地域地区が定められており、建造物等の新築・意匠変更や木竹の伐採といった現状変更行為が規制されている。また、高度地区も定められ、建造物の高さの絶対制限が存在する。これらに加え、屋外広告物条例にもとづき看板・ポスターをはじめとする屋外広告物についても、色彩・意匠の制限がある。
戦前の景観政策

明治初期においてすでに、京都において名勝の保護は政策上の課題であるとみなされていた。1874年(明治7年)、京都府は高尾・平等院・小倉山・宝嶺山(嵐山)といった名勝地が払い下げによって荒廃しないように、その保護対策を報告している。明治10年代後半には嵐山・鞍馬などにおいて民間より保勝会が生じ、当局も植林事業などを行った[1]。1884年(明治17年)に京都府は「春花秋葉の風景に富み雅客の曳杖に便なる分」を公園地とする計画を発表し、これは1886年(明治19年)に円山公園の開園というかたちで部分的に実現した[2]。こうした点としての名勝保護政策は、その後都市政策に転換していく。たとえば、1887年(明治20年)には京都府会において嵯峨・上賀茂・高野・吉田(黒谷)・伏見・高尾といった「名区勝地」をつなぐ道路の整備議案が提出された。1900年(明治33年)の京都市会においては、内貴甚三郎市長が「山の風致を優美ならしめ目本の公園としたい」と発言しており、ここでは地域的機能を指す言葉として「公園」が用いられている[3]。
1919年(大正8年)の都市計画法においては、都市の景観維持を目的とする風致地区制度が定められた[4]。京都市においては1922年(大正11年)に市街周辺の山地もふくめた広大な範囲が都市計画地域にふくめられ、1930年(昭和5年)には市の東部、北部、西部の山麓一帯 3,500 ha が風致地区に指定された。1932年(昭和7年)までに、風致地区はさらに4,500 ha が拡張指定された[5][注釈 1]。これらの地区「1. 風致がもっとも破壊されやすいと考えられる山地部およびそれに接続する社寺境内・参道」「2. 風致上もっとも重要と考えられる平地部」「3. 御所・離宮の周囲部と散在する社寺境内・名勝地・景観地」という3点から考慮されたもので、2. の観点からは岡崎公園・植物園などが選定された。当時の風致地区制度担当者である関口勲は、京都において伝承されてきた自然環境の保全の重要性を強調しているが、このことは京都市において市街周辺の山林を加え入れる、全国最大の風致地区が指定された理由のひとつとなっている[7]。
都市計画法と同年に成立した市街地建築物法においては、美観地区の制度もつくられた[8]。1932年には京都駅前広場および河原町通・四条通といった主要道路を美観地区に設定する建議が行われたが、成立しなかった[9]。
昭和戦後期の景観政策

戦後の1949年(昭和24年)には風致地区が拡大され、深草・桃山・鷹峰・大北山・鳴滝の各地区が追加指定された。風致地区指定地域はその後も拡大を続ける[10]。1950年(昭和25年)には京都国際文化観光都市建設法が制定され、文化観光保全地区制度がつくられたものの、これが実際に指定されることはなかった[11]。同年には東山・嵐山の一部地区が特別風致地区に指定された[12]。
1956年(昭和31年)には、高度経済成長期の広告物増加を背景として、屋外広告物条例が制定された。また、これを契機として、市長の諮問機関である風致審議会によって美観都市建設構想が練られた[13]。1960年(昭和35年)には市内の環境整備を目的として、都市美調査会が設置された。高山義三市長の後押しのもと、1964年(昭和39年)には同調査会によって美観地区条例制定に向けた報告書が提出されるも、この計画は市民や議会の賛同を得ることのないまま、立ち消えとなった[14]。
しかし、同年中には京都タワーを巡る論争が起きた[15]。京都駅前のビルに展望台つき131mのタワーを建設する同計画が発表されたのは1月のことであったが、ジャン=ピエール・オシコルヌ[注釈 2]が4月に高山市長に抗議文を送り、同趣旨の手記を『朝日新聞』に掲載したのを契機として、京都の景観保全をめぐる大きな論争が立ち起こった[18][19]。さらに、この年には双ヶ丘売却問題も起こった。これは、仁和寺の所有地であった名勝・双ヶ丘がホテル用地として売却されそうになったことに端を発する問題で[20]、京都タワー問題を通して設立された組織である「京都を愛する会」はこれに即座に反対した[21]。同論争が、タワー竣工後曖昧になったのに対して[22]、双ヶ丘売却問題は9月16日に高山市長が反対の意思を示し[20]、後述の古都保存法成立に関しても重要な背景要素となった[23]。これに加え、岡崎地区ホテル建設問題も市民の耳目を集めた。これは、文化施設の集まる地区であった岡崎に当時ラブホテルが多く建設されていたことを背景に、建設反対の住民運動が起こったというもので、最終的にこれらの地域は住宅専用地区に指定されることとなった[24]。
京都において双ヶ丘売却問題をはじめとする、景観保全を巡る論争が当時相次いで起こっていたことを背景として[25]、1965年(昭和40年)には京都市・鎌倉市・奈良市の3市長による懇談が行われ[注釈 3]、これら3市を選挙区とする国政議員を通して古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法(古都保存法)が提出された。同法は、同年中の12月29日に成立し[27]、1967年(昭和42年)には醍醐・修学院・大文字・清水・阿弥陀ヶ峰・泉湧寺・金閣寺・嵐山・小倉山・嵯峨野の10地区1,337 haが保存区域に指定された[28][注釈 4]。さらに、1970年(昭和45年)にはそれまでゆるやかかつ不明瞭なものであった風致地区条例について、規制内容および基準を明確にする改正が行われた[30]。この年には建築基準法の改正があり、用途地域における絶対高さ制限が廃止された。京都市はこれに応じて独自に高さ制限を実施する方針を採り[31]、1973年(昭和48年)には市街地のほぼ全域について10 m、20 m、31 m、45 mの4段階からなる京都都市計画高度地区が成立した[32]。
1972年(昭和47年)には市街地景観条例が成立し、「伝統的な町並みまたは歴史的建造物等が周辺の市街地景観と一体になって風趣あるたたずまいを示している地域」であるところの美観地区について、建造物の新設・変更に市長の許可が必要となった[33]。また、同条例においては、特定区域内における、市内の景観に影響を与える可能性がある鉄塔・高架道路といった工作物の新築・変更について、その形態・色彩などを基本計画の段階で届出をすることを求める巨大工作物指定区域制度も定められた[33][34]。また、重要な町並みの保存のために特別保全修景地区制度もつくられ、産寧坂がはじめての指定地区となった[35][36]。
1975年(昭和50年)には文化財保護法が一部改正され、重要伝統的建造物群保存地区制度がうまれた。この制度は市街地景観条例の特別保全修景地区制度を踏襲するものでもあり、1976年(昭和51年)にはこれに応じて京都市伝統的建造物群保存地区条例が制定された[37]。1988年(昭和63年)には、京都市総合設計制度がつくられ、一定の条件を満たした場合は、建物高さの緩和が可能となった[38]。
平成期以降の景観政策

1984年(昭和59年)には、京都駅の改築が計画された。同計画においては京都駅が100 m 超の超高層建築となる可能性すら提示された[39]。さらに、1990年(平成2年)には京都ホテルが高さ 60 m の建替計画案を京都市に提出した[40]。1993年(平成3年)には「京都ホテルとJR京都駅の高層化に反対する市民連合」が組織されたほか、京都仏教会も高層化反対の姿勢を示した[41][注釈 5]。同年には京都市によって「土地利用及び景観対策についてのまちづくり審議会」が開かれ、この答申によってその後の京都市における景観政策が決定されることとなった[38]。
1995年(平成7年)にはまちづくり審議会の答申を受けて市街地景観条例が改められ、市街地景観整備条例となった[44]。同条例では美観地区を5種に分け、それぞれについて高さ・形態・意匠について市長の承認が必要となった[45]。ほか、巨大工作物規制区域は建造物修景地区と改められ、工作物のみならず建造物についても規制の対象となった。また、同年には緑地保全のために京都市自然風景保全条例が制定された[46]。1997年(平成9年)には財団法人の京都市景観・まちづくりセンターが設立された[47]。
しかし、バブル崩壊による地価下落も背景に[48]、この景観政策が施行されたのちも都心部の職住共存地区ではマンションの建設が続いた[46]。1998年(平成10年)より日本建築学会によって京都の都市景観特別研究委員会が設置され、2002年(平成14年)に京都の都市景観の再生に関する提言が行われた[49]。2004年(平成16年)に景観法が公布され、翌年の施行を受けて京都市は景観行政団体となった。また、これに応じて京都市景観・まちづくりセンターが景観整備機構に指定された[49]。
2005年(平成17年)には「時を超え光り輝く京都の景観づくり審議会」が設置され[50]、2007年(平成19年)にはその答申を受けて従来の景観政策の抜本的見直しが行われた。新景観政策においては高さ制限が引き下げられたほか、風致地区・景観地区・建造物修景地区等の指定の拡大およびデザイン基準が設定された。また、眺望景観の保全のために眺望景観保全地域が指定された。さらに、屋外広告物規制も強化され、町家といった歴史的建造物の外観修景が推進された[51]。2008年(平成20年)には歴史まちづくり法が制定され、京都市はこれに応じて京都市歴史的風致維持向上計画を策定した[52]。
