出雲路 (京都市)
From Wikipedia, the free encyclopedia
歴史
古代から鎌倉時代
出雲路の地名の由来となるのは、律令制下の郷名である出雲郷である。『和名抄』において出雲郷は「以都毛」と訓じられ、また上下に分離され、雲上里と雲下里があったことが記されている。山陰地方からの移住者が居住していたといわれ、神亀3年(718年)の「山背国愛宕郡雲上里計帳[2]」・「山背国愛宕郡雲下里計帳[3]」には、出雲臣氏の名が多く記されている。出雲臣安麻呂は、出雲臣氏の一人である。
出雲郷の範囲は、『大日本地名辞書』によれば、上出雲郷(雲上里)が小山・鞍馬口辺り、下出雲郷(雲下里)が鴨川・堀川間の京域内に及ぶとするが[4]、『京都市の地名』によれば、出雲郷の上・下は賀茂川により分けられていたとされること、『山城名勝志』の「下鴨辺惣而出雲郷也」との記載、また『延喜式』神名帳にみえる出雲井於神社・出雲高野神社の存在から、北は下鴨・上高野あたりに及んでいたと推定する[5]。
出雲郷には、出雲寺があったとされ、『延喜式』に盂蘭盆供養料を充てる七寺[注釈 2]の一つと位置付けられている。上御霊神社が出雲寺の鎮守社であったとされる。なお、出雲寺には、上・下両寺があったとされ、上御霊神社の場所にあったのが上出雲寺で、下御霊神社はもともと一条京極にあり、下出雲寺の鎮守社であったと伝えられる[6]。
考古学的には、上御霊神社の境内地からは出雲寺跡に関係すると思われる奈良時代から平安時代までの瓦が採集されており[6]、相国寺敷地内の発掘調査で、白鳳時代の住居跡と鉄滓、奈良時代の住居跡が発掘されている[7]。
出雲路は、平安時代末期から東朱雀大路(平安京の東端にあたる東京極大路の東側に通された南北大路)の一条大路(京域)よりも北の延長を指す名称として、貴族の日記などに登場することになる[8][9]。この道は、下鴨神社[注釈 3]への経路として用いられるなど、京都から北へ向かう出入口の1つであったようであり、現在上京区寺町通今出川上る西入幸神町(京極学区)にある幸神社に鎮座する道祖神が賀茂河原に祀られていたという。交通の要衝ということは、軍事上の要地でもあり、『太平記』や『応仁記』といった鎌倉時代から室町時代に掛けての軍記に出雲路の名称が見られる[10]。
室町時代から京都市編入まで
室町時代には率分関(七口関)が置かれ、艮口、出雲路口、鞍馬口の名称がみられる。鞍馬口の名称は、鞍馬寺へとつながる鞍馬街道の京都への出入口であることにちなむ。豊臣秀吉は、関所を撤廃するとともに、寺町の設置と御土居の築造を行ったが、鞍馬口には御土居の出入口が設けられ、江戸時代には「京の七口」の一つに数えられている。当地では賀茂川の堤防の役割も果たしていたとされるが、鞍馬口付近では、出入口を水害から守るような形で、御土居の土塁が二重に築かれていた[11]。
寛文年間の新しい賀茂川堤防(寛文新堤)の築造により、それまで賀茂川の堤防の役割を果たしていたと考えられる御土居の外側(堤外)に位置する現在の出雲路地域の場所では耕地が安定することになった。これにより、現在の出雲路地域の範囲のもとになる鞍馬口村が立村されたと考えられている[12]。
近代に入ってからは、1889年(明治22年)町村制による鞍馬口村が発足する。発足にあたっては小山村[注釈 4]の字内河原を村内に編入している[13]。その後、1918年(大正7年)に京都市に編入されることになった。
京都市編入以降
1918年(大正7年)に、鞍馬口村が京都市上京区(当時)に編入され、旧鞍馬口村は出雲路を冠する5つの町となった[14][16]。そのうち出雲路内河原町は、土地区画整理事業の結果、1943年(昭和18年)に周囲の町に編入され廃止された[17]。
旧鞍馬口村に設置されていた鞍馬口尋常小学校は、京都市編入により改称して出雲路尋常小学校となり、その後出雲路立テ本町に移転、1941年(昭和16年)に出雲路国民学校となったあと、1943年(昭和18年)に閉校となり出雲路青年学校となった。戦後の学制改革により1947年(昭和22年)に新制中学校の京都市立出雲路中学校となり、1951年(昭和26年)4月に京都市立烏丸中学校と改称され現校地(烏丸通寺之内上る)に移転した[18]。出雲路中学校移転後の校地は、市立堀川高校音楽課程・市立音楽短期大学(それぞれ現在の市立京都堀川音楽高等学校・市立芸術大学)に用いられ、現在は京都市交響楽団の練習場となっている。
地理
出雲路地域(公称町名に「出雲路」を冠する地域)は、京都市北区の南東部に位置し、賀茂川右岸(西岸)の高野川との合流点の上流側、賀茂川の堤防となっている加茂街道に沿って位置する。東は賀茂川を隔てて左京区下鴨、北から北西にかけては北区小山など、西から南西にかけては上京区(室町学区・京極学区)と接している。
出雲路地域の町名
現在、出雲路を冠する町は北から出雲路松ノ下町・出雲路立テ本町・出雲路俵町・出雲路神楽町の4つである。かつては出雲路内河原町が存在したが、土地区画整理事業を契機として小山を冠する町に再編され廃止された。なお、かつての出雲路内河原町のおおよその範囲は、京都市内の地域自治の単位である元学区(学区)である「出雲路学区」(後述)の区域に含まれる。町・字名の変遷は以下のとおり。
1889年(明治22年)
1918年(大正7年)
京都市編入以降
土地区画整理事業の結果、町域・町名に以下の変化があった[19]。
現在の町名
便宜的に出雲路学区に含まれる町も掲載する。
出雲路学区
出雲路学区(いずもじがっく)は、京都市の学区(元学区)[注釈 5]のひとつ。京都市北区に位置する。かつての出雲路小学校の通学区域をおおよその範囲とする、京都市の地域自治の単位となっている。
1918年(大正7年)に、愛宕郡鞍馬口村が京都市上京区(当時)に編入され、編入された区域は出雲路尋常小学校の学区である上京第32学区となり、旧鞍馬口村は同学区内で出雲路を冠する5つの町(出雲路内河原町・同松ノ下町・同立テ本町・同俵町・同神楽町)となった[20][16]。 上京第32学区は、1929年(昭和4年)に、学区名が小学校名により改称され出雲路学区となった[21]。
1941年(昭和16年)に国民学校令の施行により学区の根拠が失われ[22]、1942年(昭和17年)に京都市における学区制度は廃止されるが[23]、以降も地域の名称、地域自治の単位として用いられている。1955年(昭和30年)9月に上京区からの分区による北区設置に当たっては、出雲路学区は新設された北区に含まれることになった。
出雲路学区では、1943年(昭和18年)に青年学校設置のため出雲路尋常小学校が閉校され、以来、出雲路学区は4つの小学校(元町・紫明・室町・京極)の通学区にまたがっている。そのこともあり、20世紀末には民生児童委員、消防団[24]などを除き、地域活動は各小学校単位に移行されている[25]。
地理
出雲路学区は、京都市北区の南東部に位置し、東は賀茂川を隔てて下鴨学区(左京区)、北から北西にかけて元町学区・紫明学区、西から南西にかけて室町学区・京極学区(いずれも上京区)と接する[26]。区域は、出雲路を町名に冠する町の全部と小山を町名に冠する町の一部から構成される。面積は0.357 平方キロメートルである[注釈 6]。
人口・世帯数
京都市内では、おおむね元学区を単位として国勢統計区が設定されており[27]、出雲路学区の区域に設定されている国勢統計区(北区第12国勢統計区[注釈 7])における2020年(令和2年)10月の人口・世帯数は2,277人、1,158世帯である。
出雲路学区の町名
出雲路学区に含まれる公称町は以下のとおり。京都市編入時に旧鞍馬口村字内河原の区域として設置された出雲路内河原町が土地区画整理事業に伴う町の再編により廃止されたため、現在は小山を冠するが、かつての出雲路内河原町に由来する町が出雲路学区の区域に含まれる。
- 町域の一部が出雲路学区にあたる。
出雲路尋常小学校・出雲路中学校
現在、小中学校などの教育機関は出雲路学区に存在しないが、第二次世界大戦前には小学校、戦後には新制中学校が存在した。小学校については、1884年(明治17年)下鴨小学校の分校が現在の出雲路俵町の場所に設立され、1889年(明治22年)に鞍馬口尋常小学校として独立、1918年(大正7年)の京都市編入に際し京都市出雲路尋常小学校と改称した[28][29]。
京都市編入後1923年(大正12年)に出雲路立テ本町に移転、1941年(昭和16年)に出雲路国民学校となったあと、1943年(昭和18年)に出雲路国民学校が廃され出雲路青年学校となった。その後同校は1947年(昭和22年)に新制中学校の京都市立出雲路中学校となり、1951年(昭和26年)4月に京都市立烏丸中学校と改称され現校地(烏丸通寺之内上る)に移転した[18]。
出雲路中学校移転後の校地は、堀川高校音楽課程・市立音楽短期大学(それぞれ現在の京都堀川音楽高等学校・市立芸術大学)に用いられ、現在は京都市交響楽団の練習場となっている。
年表
- 1884年(明治17年)6月 - 下鴨小学校の分校として字俵野10番地に設立。
- 1889年(明治22年)10月 - 鞍馬口尋常小学校として独立。
- 1918年(大正7年)- 京都市編入。京都市出雲路尋常小学校と改称した[28][29]。
- 1923年(大正12年)3月30日 - 出雲路立テ本町(現在の京都市交響楽団練習場の場所)に移転。
- 1941年(昭和16年)4月 - 国民学校令により京都市出雲路国民学校となる。
- 1943年(昭和18年)- 出雲路国民学校閉校。跡地は出雲路青年学校(単独の青年学校は市内2校のみ[注釈 8])となる。
- 1947年(昭和22年)4月 - 新制中学校の京都市立出雲路中学校となる。
- 1951年(昭和26年)4月 - 京都市立烏丸中学校と改称され現校地(烏丸通寺之内上る)に移転した[18]。移転後の跡地に、京都市立堀川高等学校出雲路分校が設置され、音楽課程(現 京都市立京都堀川音楽高等学校)・音楽専攻科が移転[30]。
- 1952年(昭和27年)3月31日 - 音楽専攻科が京都市立音楽短期大学(現 京都市立芸術大学音楽学部)に昇格。出雲路分校を出雲路分校舎に改編[30]。
- 1956年(昭和31年)9月9日 - 音楽短期大学・堀川高校音楽課程とともに、左京区聖護院円頓美町の岡崎分校舎に移転[30]。移転後の跡地は、同年京都市交響楽団練習場となる[25]。
- 1989年(平成元年)- 京都市交響楽団練習場新築[25]。
小・中学校の通学区域
交通
主な施設
名所・旧跡等
- 鞍馬口(京の七口)
- 出雲路橋西詰に「出雲路鞍馬口」の石碑が建っている。
- 師範桜碑
- 明治38年(1905年)に日露戦争の勝利を記念し、京都府師範学校(現在の京都教育大学の前身)教職員・生徒及び同附属小学校児童が、賀茂川葵橋から御薗橋に至る両岸の堤防に桜と楓(桜2279本、楓735本)を植樹した。このことにちなむ出雲路橋西詰交差点の北東角にある石碑である。
- 加茂街道に面した表は「志波無桜」と「志波無(しはむ)」が変体仮名で書かれており、裏面には「甲辰之歳征露役起戦連両/年我武維揚因植桜楓数千/株於鳧堤以為記念亦以寓/育英之意焉耳/明治卅八年乙巳冬十一/京都府師範黌職生員建」と、植樹の経緯が刻まれている[33]。
- 賀茂川堤防(寛文新堤・板倉堤)
