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出雲路 (京都市)

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出雲路(いずもじ)は、京都市北区の地名。 古くから地名などに用いられるが、1918年大正7年)に京都市に編入された愛宕郡鞍馬口村の区域に設定された公称町名に冠され、公的な地名となった。 ここでは、公称町名に「出雲路」を冠する地域、および出雲路学区について記す。

概要 出雲路 いずもじ, 都道府県 ...
出雲路
いずもじ
京都市の広域地名(公称町名の冠称)
北緯35度2分19.51秒 東経135度45分52.47秒
都道府県 京都府の旗 京都府
市町村 京都市
行政区 北区
設置日 1918年4月1日
郵便番号 603-8133[1]
603-8134[1]
603-8135[1]
603-8136[1]
[注釈 1]
市外局番 075
ナンバープレート 京都
学区(元学区) 出雲路学区
隣接地域 北区(小山地域・紫明学区)、上京区室町学区京極学区)、左京区下鴨地域)、
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ポータルアイコン ポータル 京都府
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歴史

古代から鎌倉時代

出雲路の地名の由来となるのは、律令制下の名である出雲郷である。『和名抄』において出雲郷は「以都毛」と訓じられ、また上下に分離され、雲上里と雲下里があったことが記されている。山陰地方からの移住者が居住していたといわれ、神亀3年(718年)の「山背国愛宕郡雲上里計帳[2]」・「山背国愛宕郡雲下里計帳[3]」には、出雲臣氏の名が多く記されている。出雲臣安麻呂は、出雲臣氏の一人である。

出雲郷の範囲は、『大日本地名辞書』によれば、上出雲郷(雲上里)が小山・鞍馬口辺り、下出雲郷(雲下里)が鴨川堀川間の京域内に及ぶとするが[4]、『京都市の地名』によれば、出雲郷の上・下は賀茂川により分けられていたとされること、『山城名勝志』の「下鴨辺惣而出雲郷也」との記載、また『延喜式』神名帳にみえる出雲井於神社・出雲高野神社の存在から、北は下鴨・上高野あたりに及んでいたと推定する[5]

出雲郷には、出雲寺があったとされ、『延喜式』に盂蘭盆供養料を充てる七寺[注釈 2]の一つと位置付けられている。上御霊神社が出雲寺の鎮守社であったとされる。なお、出雲寺には、上・下両寺があったとされ、上御霊神社の場所にあったのが上出雲寺で、下御霊神社はもともと一条京極にあり、下出雲寺の鎮守社であったと伝えられる[6]

考古学的には、上御霊神社の境内地からは出雲寺跡に関係すると思われる奈良時代から平安時代までの瓦が採集されており[6]相国寺敷地内の発掘調査で、白鳳時代の住居跡と鉄滓、奈良時代の住居跡が発掘されている[7]

出雲路は、平安時代末期から東朱雀大路(平安京の東端にあたる東京極大路の東側に通された南北大路)の一条大路(京域)よりも北の延長を指す名称として、貴族の日記などに登場することになる[8][9]。この道は、下鴨神社[注釈 3]への経路として用いられるなど、京都から北へ向かう出入口の1つであったようであり、現在上京区寺町通今出川上る西入幸神町(京極学区)にある幸神社に鎮座する道祖神が賀茂河原に祀られていたという。交通の要衝ということは、軍事上の要地でもあり、『太平記』や『応仁記』といった鎌倉時代から室町時代に掛けての軍記に出雲路の名称が見られる[10]

室町時代から京都市編入まで

室町時代には率分関七口関)が置かれ、艮口、出雲路口、鞍馬口の名称がみられる。鞍馬口の名称は、鞍馬寺へとつながる鞍馬街道の京都への出入口であることにちなむ。豊臣秀吉は、関所を撤廃するとともに、寺町の設置と御土居の築造を行ったが、鞍馬口には御土居の出入口が設けられ、江戸時代には「京の七口」の一つに数えられている。当地では賀茂川の堤防の役割も果たしていたとされるが、鞍馬口付近では、出入口を水害から守るような形で、御土居の土塁が二重に築かれていた[11]

寛文年間の新しい賀茂川堤防(寛文新堤)の築造により、それまで賀茂川の堤防の役割を果たしていたと考えられる御土居の外側(堤外)に位置する現在の出雲路地域の場所では耕地が安定することになった。これにより、現在の出雲路地域の範囲のもとになる鞍馬口村が立村されたと考えられている[12]

近代に入ってからは、1889年(明治22年)町村制による鞍馬口村が発足する。発足にあたっては小山村[注釈 4]の字内河原を村内に編入している[13]。その後、1918年大正7年)に京都市に編入されることになった。

京都市編入以降

1918年(大正7年)に、鞍馬口村が京都市上京区(当時)に編入され、旧鞍馬口村は出雲路を冠する5つの町となった[14][16]。そのうち出雲路内河原町は、土地区画整理事業の結果、1943年(昭和18年)に周囲の町に編入され廃止された[17]

旧鞍馬口村に設置されていた鞍馬口尋常小学校は、京都市編入により改称して出雲路尋常小学校となり、その後出雲路立テ本町に移転、1941年(昭和16年)に出雲路国民学校となったあと、1943年(昭和18年)に閉校となり出雲路青年学校となった。戦後の学制改革により1947年(昭和22年)に新制中学校の京都市立出雲路中学校となり、1951年(昭和26年)4月に京都市立烏丸中学校と改称され現校地(烏丸通寺之内上る)に移転した[18]。出雲路中学校移転後の校地は、市立堀川高校音楽課程・市立音楽短期大学(それぞれ現在の市立京都堀川音楽高等学校市立芸術大学)に用いられ、現在は京都市交響楽団の練習場となっている。

1955年(昭和30年)に上京区からの分区により新設された北区に全て編入された。

地理

出雲路地域(公称町名に「出雲路」を冠する地域)は、京都市北区の南東部に位置し、賀茂川右岸(西岸)の高野川との合流点の上流側、賀茂川の堤防となっている加茂街道に沿って位置する。東は賀茂川を隔てて左京区下鴨、北から北西にかけては北区小山など、西から南西にかけては上京区室町学区京極学区)と接している。

出雲路地域の町名

現在、出雲路を冠するは北から出雲路松ノ下町・出雲路立テ本町・出雲路俵町・出雲路神楽町の4つである。かつては出雲路内河原町が存在したが、土地区画整理事業を契機として小山を冠する町に再編され廃止された。なお、かつての出雲路内河原町のおおよその範囲は、京都市内の地域自治の単位である元学区(学区)である「出雲路学区」(後述)の区域に含まれる。町・字名の変遷は以下のとおり。

1889年(明治22年)

1918年(大正7年)

  • 愛宕郡鞍馬口村が京都市に編入される。村内の字(小字)である内河原、松ノ下、立テ本、俵野、神楽は、それぞれ「出雲路」を冠する出雲路内河原町、出雲路松ノ下町、出雲路立テ本町、出雲路俵町、出雲路神楽町となった[16]

京都市編入以降

土地区画整理事業の結果、町域・町名に以下の変化があった[19]

  • 1930年昭和5年)- 出雲路俵町の一部が、上京区鶴山町となる。
  • 1935年(昭和10年)- 出雲路内河原町の一部が、小山下内河原町・小山東元町・小山上花ノ木町・小山上内河原町・小山上花ノ木町となる。
  • 1943年(昭和18年)
    • 出雲路内河原町の残余が、小山下内河原町・小山北上総町・小山北上総町となり、出雲路内河原町廃止。
    • 出雲路松ノ下町の一部が、小山東花池町となり、同時に出雲路立テ本町の一部を編入。
    • 出雲路立テ本町の一部が、小山東花池町・小山堀池町・出雲路松ノ下町となり、同時に小山堀池町の一部を編入。

現在の町名

便宜的に出雲路学区に含まれる町も掲載する。

さらに見る 町名, 郵便番号 ...
町名 郵便番号
小山上内河原町 603-8131 
小山下内河原町 603-8132 
出雲路松ノ下町 603-8133 
出雲路立テ本町 603-8134 
出雲路俵町 603-8135 
出雲路神楽町 603-8136 
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出雲路学区

出雲路学区(いずもじがっく)は、京都市学区(元学区)[注釈 5]のひとつ。京都市北区に位置する。かつての出雲路小学校の通学区域をおおよその範囲とする、京都市の地域自治の単位となっている。

1918年大正7年)に、愛宕郡鞍馬口村が京都市上京区(当時)に編入され、編入された区域は出雲路尋常小学校の学区である上京第32学区となり、旧鞍馬口村は同学区内で出雲路を冠する5つの町(出雲路内河原町・同松ノ下町・同立テ本町・同俵町・同神楽町)となった[20][16]。 上京第32学区は、1929年昭和4年)に、学区名が小学校名により改称され出雲路学区となった[21]

1941年(昭和16年)に国民学校令の施行により学区の根拠が失われ[22]1942年(昭和17年)に京都市における学区制度は廃止されるが[23]、以降も地域の名称、地域自治の単位として用いられている。1955年(昭和30年)9月に上京区からの分区による北区設置に当たっては、出雲路学区は新設された北区に含まれることになった。

出雲路学区では、1943年(昭和18年)に青年学校設置のため出雲路尋常小学校が閉校され、以来、出雲路学区は4つの小学校(元町紫明室町京極)の通学区にまたがっている。そのこともあり、20世紀末には民生児童委員、消防団[24]などを除き、地域活動は各小学校単位に移行されている[25]

地理

出雲路学区は、京都市北区の南東部に位置し、東は賀茂川を隔てて下鴨学区(左京区)、北から北西にかけて元町学区紫明学区、西から南西にかけて室町学区京極学区(いずれも上京区)と接する[26]。区域は、出雲路を町名に冠する町の全部と小山を町名に冠する町の一部から構成される。面積は0.357 平方キロメートルである[注釈 6]

人口・世帯数

京都市内では、おおむね元学区を単位として国勢統計区が設定されており[27]、出雲路学区の区域に設定されている国勢統計区(北区第12国勢統計区[注釈 7])における2020年令和2年)10月の人口・世帯数は2,277人、1,158世帯である。

出雲路学区の町名

出雲路学区に含まれる公称町は以下のとおり。京都市編入時に旧鞍馬口村字内河原の区域として設置された出雲路内河原町が土地区画整理事業に伴う町の再編により廃止されたため、現在は小山を冠するが、かつての出雲路内河原町に由来する町が出雲路学区の区域に含まれる。

  • 出雲路神楽町
  • 出雲路俵町
  • 出雲路立テ本町
  • 出雲路松ノ下町
  • 小山下内河原町
  • 小山上内河原町
  • 小山花ノ木町[町 1]
  • 小山上花ノ木町[町 1]
  1. 町域の一部が出雲路学区にあたる。

出雲路尋常小学校・出雲路中学校

現在、小中学校などの教育機関は出雲路学区に存在しないが、第二次世界大戦前には小学校、戦後には新制中学校が存在した。小学校については、1884年(明治17年)下鴨小学校の分校が現在の出雲路俵町の場所に設立され、1889年(明治22年)に鞍馬口尋常小学校として独立、1918年(大正7年)の京都市編入に際し京都市出雲路尋常小学校と改称した[28][29]

京都市編入後1923年(大正12年)に出雲路立テ本町に移転、1941年(昭和16年)に出雲路国民学校となったあと、1943年(昭和18年)に出雲路国民学校が廃され出雲路青年学校となった。その後同校は1947年(昭和22年)に新制中学校の京都市立出雲路中学校となり、1951年(昭和26年)4月に京都市立烏丸中学校と改称され現校地(烏丸通寺之内上る)に移転した[18]

出雲路中学校移転後の校地は、堀川高校音楽課程・市立音楽短期大学(それぞれ現在の京都堀川音楽高等学校市立芸術大学)に用いられ、現在は京都市交響楽団の練習場となっている。

年表

小・中学校の通学区域

市立小・中学校に通う場合の通学区域は以下のとおり。なお、ここでは公称町名に小山を冠するが、かつての出雲路内河原町に相当する範囲も含んだ、上述の出雲路学区の区域を示している[31]

さらに見る 町名, 小学校 ...
町名小学校中学校
小山上内河原町
小山上花ノ木町[通学区 1]
小山花ノ木町[通学区 1]
京都市立元町小学校京都市立加茂川中学校
小山下内河原町
出雲路松ノ下町 - 紫明通以北
京都市立紫明小学校
出雲路松ノ下町 - 紫明通以南
出雲路立テ本町
京都市立室町小学校京都市立烏丸中学校
出雲路俵町
出雲路神楽町
京都市立京極小学校京都市立上京中学校
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  1. 町域の一部が出雲路学区にあたる。なお当該町の全域が元町小学校の通学区域である。

交通

路線バス

道路

東西の通り
南北の通り

主な施設

寺社
  • 西光寺(出雲路俵町)
『愛宕郡志』によれば、本尊は阿弥陀如来天明7年(1787年)運誉創立の浄土宗寺院[32]
その他

名所・旧跡等

出雲路橋西詰に「出雲路鞍馬口」の石碑が建っている。
  • 師範桜碑
明治38年(1905年)に日露戦争の勝利を記念し、京都府師範学校(現在の京都教育大学の前身)教職員・生徒及び同附属小学校児童が、賀茂川葵橋から御薗橋に至る両岸の堤防に桜と楓(桜2279本、楓735本)を植樹した。このことにちなむ出雲路橋西詰交差点の北東角にある石碑である。
加茂街道に面した表は「志波無桜」と「志波無(しはむ)」が変体仮名で書かれており、裏面には「甲辰之歳征露役起戦連両/年我武維揚因植桜楓数千/株於鳧堤以為記念亦以寓/育英之意焉耳/明治卅八年乙巳冬十一/京都府師範黌職生員建」と、植樹の経緯が刻まれている[33]
  • 賀茂川堤防(寛文新堤・板倉堤)
寛文10年(1670年)に京都所司代板倉重矩により設置される。その後安政年間に京都町奉行浅野長祚により堤防の嵩上げが行われた[12][34]

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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