伊勢原八幡台石器時代住居跡
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第二号敷石住居(建物)跡に整備された山王塚公園 | |
| 所在地 | 神奈川県伊勢原市八幡台1丁目4番2 |
|---|---|
| 座標 | 北緯35度23分20秒 東経139度18分30秒 / 北緯35.38889度 東経139.30833度座標: 北緯35度23分20秒 東経139度18分30秒 / 北緯35.38889度 東経139.30833度 |
| 標高 | 52 m (171 ft) |
| 種類 | 建物(住居) |
| 歴史 | |
| 時代 | 縄文時代 |
| 追加情報 | |
| 発見 | 1933年(昭和8年) |
| 関係考古学者 | 石野瑛、赤星直忠ら |
| 文化財指定 | 国の史跡(1934年指定) |
伊勢原八幡台石器時代住居跡(いせはらはちまんだいせっきじだいじゅうきょあと)は、神奈川県伊勢原市東大竹に所在する縄文時代の柄鏡形竪穴建物(敷石住居)の遺構[注釈 1]。国の史跡に指定されている。
第一号敷石住居跡
鈴川と渋田川の間に挟まれた舌状台地の先端部に位置しており、標高は52メートル、比高25メートルほどである[3]。
1932年(昭和7年)11月ごろから耕作人が麦畑から石を掘り出すことがあった。翌年になり病人のある家の者が占い師に尋ねたところ、この地の石の中で文字が彫られ下に刀があるものを祀れば病が癒えると言われ、それを探して多数の石を掘り出した。地主はこれを遺跡らしいと考え、比々多神社の紹介で神奈川県史蹟調査委員の石野瑛に調査を依頼した。石野は1933年(昭和8年)6月4日に現地の調査を行い、すでに雑然と掘り返されている場所については調査ができないため、付近に類似の遺跡がないかと4メートルほど離れた地点から探し当てたのが第一号敷石住居跡である[4]。また第一号敷石住居跡の近くには七ツ石と呼ばれる石が点在しており、これを相模国府跡と見立てた調査が1933年(昭和8年)11月に始まった。その過程で神奈川県史蹟調査委員の堀江重次、吉岡正雄、赤星直忠らによって偶然掘り当てられたのが第二号敷石住居跡である[5]。
この2つの遺構はいずれも縄文時代後期(堀之内式・加曽利B式)の「住居跡」だと判断され、敷石住居跡は当時類例が少なかったことから史跡に指定された。150メートルほどしか隔たっておらず、同一遺跡に属していると考えることもできる[3]。実際高度経済成長期に周囲一帯が宅地開発された際に、たびたび敷石らしいものが発見されたが多くは調査されることなく失われた[6]。しかしその後2つの遺構の間に位置する場所で同様の敷石住居跡が発見されており、これらを総称して八幡台遺跡と呼ばれている。
なお、現在の伊勢原市の遺跡地図では、これら2棟の柄鏡形敷石建物の地点を含む一帯は、東大竹のほか八幡台1丁目や下谷戸、権現堂、布袋谷戸の地区におよぶ広大な範囲を「伊勢原市No.1遺跡(No.24・34・35遺跡も含む)」とする周知の埋蔵文化財包蔵地として登載されている[7][注釈 2]。


南北6メートル、東西3.4メートルの長楕円形に扁平な安山岩(根府川石)が敷かれていた。外縁部には凝灰岩が使われており、これは近隣で採れる日向石や七沢石と思われる。中央やや西寄りに炉の跡があった。柱穴や周溝は見つからなかった。住居跡からは縄文土器の破片や木炭片が出土し、周囲から石斧十数個と石棒が出た[4]。
第二号敷石住居跡
南北8.5メートル、東西11.5メートルの範囲に大小さまざまな丸い河原石(主に石英閃緑岩)が敷き詰められていた。南西側に東西に長い炉の跡があった。縄文土器と石器数点が出土している[5]。
八幡台遺跡
1979年(昭和54年)に住宅建築に際して発掘調査が実施された。径2.4メートルの円形に2メートルほどの張り出しのある柄鏡形敷石建物。扁平な根府川石が敷かれ、柱穴や周溝が見つからないなど、全体として第一号敷石住居跡と似た特徴を持つ[8]。
東大竹・山王塚(八幡台)遺跡
1990年(平成2年)に集合住宅建設に際して発掘調査が実施された。1979年(昭和54年)の発掘調査地点と隣接している。検出されたのは長径6.5メートル×短径4.5メートルに対し2.7メートル四方の張り出しのある全体として瓢箪形をした柄鏡形敷石建物である。敷石は主に張り出し部と炉の周辺に限られている。土器は4つと小破片多数が出ているが、このうちの1つが東北地方北部に由来するものと思われる。縄文時代の遺構としてはほかに掘立柱建物跡2棟と竪穴建物跡1棟があるが、その後から土壙墓17基が造営されており詳細はわからない。また旧石器時代の遺物や中世の遺構も発見されている[9]。